‐‐1911年、夏の第二月第四週、プロアニア王国、ペアリス2‐‐
煤で汚れた硝子に守られたカンテラの明かりが、先の見えない古い階段を照らす。土の上に材木を敷いただけの、簡素な床の上を、爪先の破れた皮の靴が踏み、進んでいく。徐々に暗くなる視界に反して、カンテラの明かりはますます明るくなり、周囲は赤色の中に沈んでいく。手元を照らすくすんだカンテラの硝子は、周囲に斑模様を作りながら、狭い視界を徐々に広げていく。
ペアリスの古い集会場や教会は、プロアニアの兵士達に堅牢に守られていたが、旧い都市計画の規律の抜け穴を縫って掘られた地下空間は、裕福な家庭の一部に点在していた。この地下深い物置の中に、数々の脱税のために隠された宝飾品に囲まれて、暗い色のローブに身を包んだ人々が、樽を囲んで守っている。樽の上には一輪のアイリスの花が生けられている。虫のような花粉がめしべに触れるたびに、旧い詩吟に謳われた偉業が思い起こされた。
アイリスの上にカンテラを吊るすと、ローブの下にある二つの暗い瞳が樽を囲んだ人々に向いているのが見える。疲れた金髪の下にある瞳は澱み沈んでこそいたが、そこには明確な覚悟が宿っていた。
「『大いなるアイリスの者達』よ、野蛮人から人の世界を取り戻すために、立ち上がるときが遂に来た。プロアニア兵はいまこの場所に集まっている。ここにアイリスの花が『ただ一輪』あると信じている。数多のアイリスの花が花開くために、我々はこの場所に殉じよう。味方はアイリスの花を胸に抱く人だけではない。海の瞬きも、風の匂いも、全て私達と共にある」
ローブの下に帯びた錆び付いた剣の柄が覗く。彼らはアイリスの花に向かって、この古い剣を掲げ、忠誠を誓った。
そんなものに何の意味があるのか?今まさに暗い階段を降りる人は、その光景を目にしたとしても、首を傾げただけだろう。豊かな田園の前で神に捧げた踊りの意味も、豊かさの浪費でしかないと考えるのだろう。彼らは軍靴の音一つ一つに意味はなく、それが連なる結末に意味があることを知っている。
それ故に、彼ら一つ一つの命は記号でしかなく、何の意味も持たないことさえも『識って』いる。
「動くな」
下ってきたプロアニア兵が地下室の床に足を置くなり、彼は足元から凍結して凍り付く。錆び付いた剣を抜き、雄たけびを上げる人々は、奥の者が唱え、前方の者が凍り付いた人に向かって突撃する。階段のプロアニア兵が氷漬けの仲間を蹴倒すと、足先だけが床に固着したまま、床に倒れ込んで肉体が砕け散った。
迫り来る錆びた剣に向けて、無差別な銃撃が浴びせられる。次々に命を散らす同志たちの隙間から、アイリスの花の後ろから放たれる火球が迫り、敵を火達磨にする。後退する火達磨を押し退けて、兵士達はアイリスの花ごと詠唱する人々を射殺した。
血塗れの床の上に、アイリスの花弁が落ちる。花弁は紅色に染まり、床に投げ落とされた杖に近づく手を、革の長靴が踏みつける。ごりごりと靴の下でのたうち回る腕を全体重で圧し潰しながら、兵士は術者の脳天に弾丸を撃ち込んだ。
「……状況終了。お疲れさまでした」
兵士が抑揚のない声で無線機に声をかける。プロアニア兵が静かに腕から足を離すと、血が浸み込んだ床の上を歩いて、地下室から昇っていく。
血に汚れたアイリスの花に、何かが宿ることなどないと彼らは知っている。そこには、摘み取られて生命活動を終える直前の花が、水滴を吸い上げて最後の呼吸をしているだけである。不毛な花の抵抗は、種の存続に対して何らの影響も与え得ない。ただ、その花が枯れていくことを、彼らは知っているのだから。
静まり返った地下室の中で、樽がひとりでに倒れた。静まり返った室内に、樽の転がる音が反響する。暫くして、古い樽の蓋が外されて、中から子供が現れた。彼は惨状を目の当たりにして、叫びだしたくなる心を押し込めながら、ごく短いナイフで血を掬い上げる。それが刃先から指先に滴ると、それを手によく馴染ませながら、涙で掠れた声で呟いた。
「アイリスの花に栄光あれ……」
少年は響く軍靴の音が遠ざかるのに合わせて、慎重に、階段を登っていった。
レノー・ディ・ウァローのもとに立派な桐の箱が送られてきたとき、デフィネル宮の中には摘み取られた薔薇の花で編まれた花冠が掛けられていた。彼の従者から桐の箱を受け取ると、レノーは手をすり合わせて目を輝かせる。立派な桐の箱に掛けられた綿製の紐の結い目には、上から母音が一つ描かれていた。
彼は紐を解き、静かに蓋を開ける。金銀財貨でこそないが、それよりもずっと価値のあるらしい紙束と、大切にクッションに守られた勲章が収められていた。箱の蓋に貼り付けられた封筒を開けると、中から『最高の貢献へ対する報償として ヴィルヘルム・フォン・ホーエンハイム』とだけ記された手紙が入れられていた。レノーは手紙の角に薔薇水を吹きかけ、鼻から大きく息を吸い込むと、満足げな笑みを浮かべた。
カペル王家はどうにせよ断絶し、デフィネル朝の次に花冠がやって来るのは順当にウァロー家の頂きにである。プロアニアに害意がないのであれば、こちらが抵抗するのは無駄なのだから、易々と懐柔されてしまった方が彼にとって都合がよい。彼はアンリ・ディ・デフィネルほど、世間知らずではないのだ。
レノーは老体を静かに王の座椅子に預け、満足げに紙幣を数える。一枚、二枚、三枚……兌換紙幣でない不換紙幣それ自体を慈しみながら、100枚ある束を全て数えきる。その下にまた、同じ束があるのを確かめると、レノーは目を細めて笑った。
「ヴィルジール君も少しは満足しているだろうか?」
彼がぽつりと呟くと、今も首都ではなくブローナ城に住む部下のことを思う。彼もまた物わかりのいい人物であるから、レノーは気軽に彼の健康について思いを巡らせた。