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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1911年
322/361

‐‐1911年春の第一月第三週、ムスコール大公国、ムスコールブルク大学‐‐

 異国情緒あふれる柱に支えられた大学の構内は、新しい大学と比べて狭く密集しがちである。ムスコール大公国のエリートたちがひしめき合うこの大学で、若い溌溂さに混ざって老齢のベルナールが講義室へと歩いていく。

 幾つもある講義室だが、その用途は講義に留まらず、公開討論会や研究の中間報告会など多岐にわたる。彼は多量の資料をいれたブリーフケースを抱えて、特別な客人の待つ講義室へと向かった。


 講義室の中は複数人の生徒が座れるように非常に広く作られている。建物の大きさに対して不釣り合いなほどの割合を当てられていたが、この階段型の座席を有する講堂も、一度講義時間が訪れてしまえばすぐに窮屈となる。まして、ベルナールの講義ともなれば、その混雑ぶりは推して知るべきだろう。


 その講義室に、巻き毛の男と共に、時の宰相アーニャ・チホミロフ・トルスタヤはいた。学生と同じように講義用の座席に座っていた彼女は、ベルナールの来訪に気づくと立ち上がり、徐に近づいて握手を交わした。


 友好的な握手とハグを済ませ、ベルナールは教壇ではなく、通常の座席に座る。ゆっくりと席に座ると、彼はブリーフケースを長机の上に置き、苦笑交じりで言った。


「すいませんね。どうにも都合が合わす」

「いいえ。わざわざご相談に応じて頂きありがとうございます」


 アーニャが丁寧に頭を下げると、ベルナールも恭しく頭を下げた。

 若干の間の後、アーニャがメモ帳とペンを取りだし、本題を切り出した。


「以前お手紙を頂きました、宇宙開発事業について、ようやく前向きな話し合いが可能な段階となりましたので、幾つかご質問をしてもよろしいでしょうか」


「勿論です。前向きに検討して頂いて、有難うございます」


 ベルナールは柔和に微笑んで見せたが、アーニャはその目が笑っていないことを直ぐに読み取った。気まずい空気の中、ぎこちなく気づかないふりを通したアーニャは、宇宙開発に関する幾つかの質問をする。予算に関する質問では、閉口するような金額を提示され、研究・開発期間では、およそプロアニアに追いつけそうな時間を提示されなかった。


 微妙な表情を浮かべるアーニャに対して、ベルナールは慌てて弁明をした。

「い、いえ!例えば一発分のロケット打ち上げであれば、多くても2600万ペアリス・リーブルですし、それを一年で打ち上げるという計画でなければ、例えば3年越しでの計画であれば!かなり予算に組み込みやすくなるのでは、ないかと……」


 苦笑いが難しくなってくるアーニャの表情を見て、ベルナールの口調も徐々に弱々しいものとなる。最後にはすっかり萎えてしまったベルナールは、消え入りそうな声で「失礼しました……」と答えた。


 国家の中枢を肌で経験してきたアーニャからすれば、ベルナールの荒唐無稽な計画は、殆ど鼻にもかけるべきでないものであった。ブリーフケース一杯の資料を持ち出すまでもなく、ベルナールの要望は露と消えることが明白である。


 部屋を間違えたらしい学生が、講義室に顔を覗かせる。二人がそれに気づき振り返ると、アーニャを一目見た学生が驚きの表情を浮かべ、扉の外にいる何者かに声をかける。慌てて扉を閉ざそうとかけていくベルナールの袖を、アーニャはやや強引に引っ張った。


「ちょ、すいません。今黙らせますので!」

「いいですよ」


 学生達が続々と集まってくる。アーニャは微笑を浮かべて彼らにそっと手招きをした。学生達が顔を見合わせ、不思議そうに教室の中へと入ってくる。訝し気な学生に対して、アーニャは努めて笑顔を作って尋ねた。


「宇宙開発事業についてどう思う?」

「えっ」


 学生の一人が声を零す。それぞれの学生が困惑しながら何かを相談すると、最初に顔を覗かせた学生が緊張した面持ちで答えた。


「えっと、自分は専門家じゃないんで……。でも、学生であれば、誰でも、誰かの関心事項を政府が後援してくれるならば、きっと、嬉しいはずだと思います」


 大人数が一つの座席を囲んでいる。静まり返った講堂に、秒針の音が刻々と時間を刻んだ。

 3分ずれた講義室前方の時計が、ひとりでに講義の開始時刻を告げる。アーニャは口角を持ち上げて、優しい口調で答えた。


「ありがとう」


 学生達が我に返って、慌てて講義室を抜けていく。不注意のために講義を遅刻した学生達は、みるみる扉に吸い込まれていった。


 騒々しい足音から一転、講義室に全くの無音が満ちる。それは二人分の呼吸音を重く、激しく感じさせた。


「ベルナール教授」

「はい」


 アーニャは扉の方を向いたまま、静かに言う。


「このお話を、国会の討議に持ち込んでもよろしいですか」


 ベルナールは目を瞬かせる。恐る恐る「は、はい」と答えると、彼女はゆっくりと振り返る。何かを懐かしむような、静かな笑みを浮かべていた。


「それでは、前向きに、検討いたします」


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