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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1911年
321/361

‐‐1911年春の第一月第二週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク、織物通り‐‐

 織物通りという名前の由来は古く、貴族が足しげく通ってよい毛皮や反物を買い取っていったことに由来する。この織物通りには、現在でも当時から続く老舗の服飾店が立ち並ぶが、近年はそれと共に大企業の事業所が集うビジネス街としても発展している。カルロヴィッツ商会を前身に持ち、1898年の冬将軍事件の際に株価の大暴落を起こしたカルロヴィッツ皮革取引等株式会社も、ここに本社を構えている。

 ユーリーとアーニャは、この織物通りを自動車両で進み、古い飲食店の前に車を停めさせた。

 建設当時は西方世界の建物を模倣するのが流行したが、この建物も例に漏れずに古き良き西方世界の趣が感じられる。


 筋骨隆々の男性の立像と、ベールの処女の立像が建つ玄関には、洋食店であることを示す看板が掛けられている。赤煉瓦のアーチと多くの小さな窓からは、美術館のような雰囲気さえ感じられた。


「ここは未来博士や魔法生物学の大家ローマン・ルシウス・イワーノヴィチ、それに女傑ロットバルトも愛した高名な洋食店ですよ。ご存じですか?」


 アーニャは決して大きくはないが存在感を醸し出すその建造物を見上げながら、落ち着いた表情で答えた。


「えぇ、勿論です。官僚時代に一度会食に招かれたことがあります」


 ユーリーはわざとらしく眉尻を下ろして見せる。降り注ぐ名残雪が、彼の組んだ手の上に掛かった。


「おぉ、それは残念……一番乗りは出来なかったようだ……」


 ユーリーはその扉を開けると、アーニャに入店を促す。入店早々に薫る華やかなライラックのにおいに、アーニャは思わず立ち竦んだ。


 来店者を従業員一同が出迎える。給仕係のボーイの一人が、アーニャの元へ近づいて跪く。


「ご来店、誠にありがとうございます。こちらへどうぞ、VIPルームをご用意いたします」


 ユーリーが後から来店する。彼は慣れた様子で給仕係に上衣を渡すと、アーニャの横に並び、ボーイの後に続く。ボーイは階段を登り、個室の並ぶ二階の一室に二人を案内した。


 店内には木製フレームに金箔を貼り付けた豪奢な額縁と、幾つもの絵画のレプリカが飾られている。天井に吊るされたシャンデリアを中心に布一枚を纏っただけの幼い天使達が戯れ、古いシャンデリアから漏れる仄かなオレンジ色の明かりが、薄暗い店内に神秘的な雰囲気を与えている。天井の更に上、つまり階段を登った先にある世界は、明るい白熱電球で飾られている。天へ昇るかのような演出の中で、青い天井の下を純白の雲の絵が流れる。


 防音設備を整えた最奥の個室に至ると、天井の絵画は古代の神々の栄華に場面を移す。眩いばかりの大きな電球を中心に、神々が光の円の中を巡る姿は、見る者に遠い時代の栄光を暗示させる。

 壁面には金の額縁で守られた六翼の熾天使が羽搏き、さざめく天界へと視線を送っている。祈りの手に背を向ける形で席に着いたアーニャは、ナフキンを膝の上に置き、優雅な指使いのユーリーと向かい合った。


「ルキヤンとではなかなか出来ない贅沢でしょう?」


 ユーリーはナフキンの角を丁寧に合わせて言う。アーニャはこの場所にあの顔の濃い男がいることを思い浮かべて、思わず口の端で笑った。


「まぁ、似合いませんね」


 もっとも、下町の飲み屋で語るならばユーリーは全く似合わないのである。アーニャはお互い様だと思いながら、コップに口紅が付かないように気を遣いながら水を飲んだ。


 ボーイから担当を請け負う旨と、コース料理のメニューを提示されて説明を受ける。


 ムスコール大公国の首都、サンクト・ムスコールブルクならではの、北の海原産の淡白な遊泳魚のムニエルや、この地では最高級と言って差し支えない玉ねぎや白菜などの野菜料理が紹介される。手始めに支給されたのは2つの丸パンと、温かいスープであった。


 アーニャはスープの中心に浮かぶハーブを掬い上げる。温かくなったとはいえまだ摂氏で言えば5度を超えない日が続く中では、その温もりがどれほど温かかっただろうか。


「お誘いした理由なのですが、宇宙開発事業に関して、ご意見を頂きたいのです」


 アーニャが切り出すと、ユーリーは意外そうに目を瞬かせた。暫くスープをスプーンに掬い上げたままアーニャの目をまじまじと見つめていた彼は、納得いかないといった様子で天井に視線を向けた。


「何事も、平和的に解決を図るのは喜ばしいことです。宇宙開発事業によって、プロアニア王国と我が国が争うのであれば、それは十分に平和的で意味深いものであるかと」


 彼は当たり障りない回答を終えると、食事に思考を戻す。アーニャは膝に置いた手を、静かに握りなおした。


「……そうではないのです。軍事的な警戒は絶対に解いてはなりません。問題は、このまま宇宙飛行を足切りしてしまえば、それはプロアニアと同じ問題を抱えたままなのではないか、ということです」


 アーニャにとって、宇宙開発事業は重要事項ではあり得なかった。先ずは国防第一であり、その考えに全く変わりはなかった。だが、自由と平等を標榜する大福祉国家であるこの国が、この壮大な夢を文字通り政治から排除してしまっても良いのか、という点に問題の所在があった。

 自明のことであるが、宇宙開発によって軍事的な優位性が示されることは無い。その上で、宇宙事業は重要性が高いわけではない。しかし、この国の体裁を守るためには、一定の譲歩は必要ではないか。アーニャの悩みはむしろ、この絶妙な妥協に関するものであった。


 ユーリーは暫く巻き毛を構って思索に耽った。長考した後、巻き毛からゆっくりと手を解くと、彼は巻き毛を構った指を扉の方へ向けて、くるくると空気を回し始めた。


「ふむ。宇宙開発自体に意味はなく、宇宙開発を切ることが国家の体裁を損なう恐れがあるのでは、というお悩みですね。それは難しい問題です」


 一つずつ料理は片付けられて、新たな料理が運ばれる。未来博士時代のユウキタクマが楽しんだ、淡白な魚のムニエルが、二人の目の前に運ばれる。外側から3番目のナイフとフォークを手に取って、二人は慣れた手つきで魚を切り取った。しっとりとした皮からソースが滴る。静かに口に運ぶと、咀嚼するたびに魚が解れて味がしみ出してくる。下処理のためか、生臭さも感じられなかった。


「私は、プロアニア王国が攻め込むのは困難を極めると思っておりますし、話し合いでの解決を諦めておりません。ですから、この流れに乗り、それこそプロアニアに我々の真の立場を示すことの方が重要だと考えます。あくまで、我々は平和主義者であると。安心して良いと」


 食事をとるために会話の進行が遅くなっていく。ユーリーは魅力的な魚料理を白ワインで流し、贅沢に酔いしれる。アーニャはこれを透明な蒸留酒で代用し、体の底から火照るのを感じた。


「宇宙開発事業にプロアニアが力を入れている隙に、軍事力に傾倒するというのも一つの手でしょう。既に世界初の栄冠は、彼らの手にあるのですから」


「あなたがそう言う事を仰るのは意外ですね。私がそれに納得したら、貴方の意に沿わないのではないですか」


 アーニャは訝し気にユーリーの顔を覗き込む。彼の顔は僅かに火照っていたが、アルコール度数の非常に高い蒸留酒を呑む彼女の顔には敵わないだろう。

 ユーリーはネクタイを緩め、第一ボタンを外すと、その蠱惑的な首筋を晒して答えた。


「その時は貴方を潰すだけです。……それで?どうするのですか?」


 ユーリーの顔が迫る。爛々とした瞳が、赤らんだ頬が、手招きをするようにアーニャの思考を誘った。


「ベルナール・コロリョフ教授と相談を試みます。ご助力願えますか?」


 ユーリーは赤らんだ頬から彼女を流し見ると、煽情的な微笑でこれに応じた。


「私で良ければ、いつでもお力になりますよ」


 その日のデセールは、苦みと食感を楽しむコーヒーゼリーであった。


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