‐‐1911年春の第一月第二週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク‐‐
年始の休日も過ぎ去り、人々が肥え太った腹に気に掛けながら億劫な勤務に向かう頃、アーニャは要人用の車両で年明けの議会に向かっていた。澄み渡る空気と変わらない曇天の下、初勤務の国会議員たちが集う議事堂前は、新年早々に叩きつけられたあの話でもちきりとなっていた。
「プロアニア王国がまた、宇宙飛行を成功させたそうです」
「このまま放っておいて大丈夫でしょうか?我々は地上の問題でさえままならないのに……」
立ち話をする議員たちを横切ると、彼らはアーニャに深々と頭を下げる。パパラッチ垂涎の光景であったが、今は完全に城門が閉ざされており、彼らは門前で立ち往生を食らうばかりであった。
「アーニャ閣下はどう思われますか。プロアニアの宇宙開発について……」
話を振られたので、彼女は率直な感想を述べた。
「えぇ、不可解……と言いますか、強い違和感を覚えますね」
「確かに、不合理的と言えば不合理的です。原子力発電の一件から鑑みるに、決して地上での開発を諦めたわけでもないようです。大博打になるような新天地を欲しがるとは到底思えない」
議員はますます難しい顔をして、唸り声を上げた。
通りがかった議員に新年の挨拶を交わす。互いに慇懃なほどに頭を下げて、宇宙飛行の話題について一言二言コメントを受け取る。
「アーニャ閣下はご関心がないのですよね」
「関心が無いと言いますか、先ずはプロアニアの侵略行動を牽制できるような開発を進めなければ……」
「ああー……」
議員たちは顔を見合わせる。また、アーニャ閣下の強い警戒心が露わになった、と周囲の議員たちはやや気まずい苦笑いを交わした。
定刻となり、議事堂の門が開かれると、議員たちは凍みるような空気から逃れようと、ぞろぞろと群がりながら入場する。雪の上で屯していた議員たちは、扇形に広がる列に混ざり、議事堂内に入場した。
アーニャは一度執務室に入り、開会の準備を進める。その間にも、議員たちが列をなして、議場の名札の前に座る。全ての議席が埋まると、彼らは両隣の人と共に、プロアニアの宇宙開発の目的について、議論を交わし合った。
アーニャが資料を纏めて宰相の席に着く頃には、議席は完全に埋まっていた。書記官たちが採決用の投票箱を表から開け、中が空であることを周囲に示す。それを終えると、議長が丸眼鏡をかけ、式の進行表を持ち上げた。
活発な議論が一旦収まる。議長は読みにくそうに目を細めて、淡々と今日の議題を伝えた。
「これより、1911年第一回、ムスコール大公国公国議会を始めます。本日は、宰相、アーニャ・チホミロフ・トルスタヤ君による新年の挨拶、そして年度予算審議の第一回、最後に、議員による発議である、『宇宙開発事業に関する問題』の3つを取り扱います。先ずは、アーニャ君。新年度の挨拶をお願いいたします」
「はい」
返答と共に、アーニャが立ち上がる。議員たちは進行表と共に渡された新年の挨拶を記したレジュメを開いた。
「新年、あけましておめでとうございます。1911年はその早々から、衝撃的な事件で始まりました。皆様もご存じの通り、プロアニア王国が更なる宇宙飛行を達成したというものです。我が国の静かな年明けに対して、その熱狂は凄まじいものであったことでしょう。また、その犠牲も、絶えなかったことは想像に難くありません。我が国は本年も平穏であり続けるために、国際的な諸問題に関して、深く慎重に議論していくだけでなく、我が国の更なる経済的発展の為、その基礎となる予算について、忖度のない議論が交わされることを期待いたします」
彼女が頭を下げると、疎らな拍手が起こる。彼女が席に着いたことを確認すると、議長は続けて予算審議の議題に入るように、声をかけた。
議員たちは幾つかの予算案が掲載された資料を捲る。昨年の実績と現行の国債の残額を簡単に述べた後、議長は予算案に関して説明するように、アーニャに声をかけた。
「はい。これらは来年度の予算案となっております。前年度は、現在の国際関係に鑑みて、軍事費に偏重した予算運営をさせて頂きました。第一案は、まさにその方針を続けるという案です。第二案は、国債の増大を鑑みて、その返済に注力し、経済政策に予算を集中させるものとなっております。第二案では、来年度の各省庁が利用可能な予算はある程度削減されることになりますが、その分、我が国で懸念される医療費等に伴う国債の増大に、一定の歯止めをかけることが期待されます。第三案はこれらの折衷案であり、いずれも例年通りの予算となっています。というのも、昨年の軍事費への傾倒は、国防が必要な危急の事態と判断されたために採決された例外的な予算案であったことから、例年通りの予算案により近いものとして提案させていただきました。いずれかの予算案について、ご質問等ございましたら、お答えいたします」
アーニャがいいきると、両翼から手が挙がる。議長が一方を指名すると、議員は立ち上がり、ぎこちなく資料を読み上げる。
「質問です。先ず、幾つかの案をご提示いただきましたが、アーニャ閣下の所感では、いずれの案を採用すべきとお考えですか」
「はい。いずれの案も、財務省との議論の上で作成いたしましたので、どの案も説得力のあるものとは考えております。ですが、我が国は現在、プロアニア王国との緊張状態が続いており、国防には常に力を入れる必要があります。また、科学技術の発展と、経済活動の活性化も、国家の発展の為には必要不可欠なものと考えます。そこで、私見では第一案乃至は第三案がより現状に合った提案ではないかと考えております」
「有難うございます」
議員が着座すると、再び挙手が起こる。事前質問の頁を捲るアーニャは、思わず眉を顰めた。
「質問です。私は、国家予算のうちに、思いやりが欠けているように思います。というのも、大福祉国家である我が国が、平等化の流れに逆行して行った蛮行へ対する賠償を行わないというのは、あまりにも誠意のない行いではないでしょうか。プロアニア王国への警戒も必要でしょうが、先ずは我が国のコボルト奴隷への被害者救済、ひいてはエストーラ帝国への賠償を予算に組み込むべきではないでしょうか」
アーニャが当惑しながら立ち上がる。官僚が用意した回答は、「別途検討する」というものであった。彼女は立ったまま暫く目を泳がせ、質問の意図を模索した。コボルト奴隷に対する補償はともかく、エストーラへの賠償というのが、彼女には理解しかねる質問であった。しかも、停戦から七年が経過し、唐突に提起された質問である。何らかの思惑が動いているという疑いが起こるのは不思議なことではなかった。
「お、答えします。ご質問のうち、特にコボルト奴隷への特別な補償に関しては、国家による非人道的な行動として、補償を別途議論する機会はあるかと思われます。予算案の確定後に、別途検討をすることとしましょう。よろしいでしょうか」
アーニャは席に着きなおす。少ないが野次が飛び、それに抗して声が上がる。質問者は立ち上がり、再び論壇に手を突いた。
「エストーラについてはどう思われますか」
「エストーラ帝国への支援は、異なる形で既に遂行されております。これは賠償ではありませんが、それに準ずる支援であると考えます」
アーニャが答えると、「それは賠償ではない!」と再び野次が飛ぶ。議員がさらに詰問しようとするのを、挙手をしたユーリーが止めた。
「議長。よろしいでしょうか」
「どうぞ」
ユーリーは優雅に立ち上がると、巻き毛を構いながら、論壇に立つ議員を見おろして続けた。
「賠償や支援といった問題は、国家予算の審議とは別に発議するべきものです。議員立法の提案として、別途議論を交わすのが相当であり、現在議事を進めるべきことではありません」
ユーリーが意見すると、議長も「そのようですね」と返す。議員はおずおずと後退りし、逃げるように論壇を去っていった。
胸を撫で下ろすアーニャに、続けて質問の挙手がされる。幾つかの質疑応答を経て、予算審議の議題は終了した。
議長は書記官の速記が止まるのを一瞬待ち、続けて最後の議題に移る。
「えぇー。それでは、本日最後の議題であります、『宇宙開発事業に関する問題』に移ります。発議者の議員の方、ご説明をお願いいたします」
議場の左側から議員が立ち上がる。彼が下っていく背中を、ユーリーは品定めでもするように見つめていた。
議員が論壇に立つ。アーニャは静かに資料を捲り、議題の概要を再確認した。
プロアニア王国が傾倒しつつある宇宙開発事業について、ベルナール・コロリョフを中心とした科学者達をとおして自国でもさらに力を入れるべきである、という提案であった。
アーニャは予算のことが脳裏を過り、この議題を直ぐに一蹴したことをよく覚えている。
「はい。本日ご提案させていただいたのは、「宇宙開発事業」への支援です。プロアニア王国が傾倒しつつある、宇宙開発事業を通して、我が国の技術力と団結力を他国に示すことによって、緊張関係にある王国への平和的な対抗運動とするべきではないかというものであります」
議員は若さに似合わずゆったりとした振る舞いで堂々と言葉を続ける。その背後では、ユーリーが目を細めて見守っていた。
「アーニャ閣下のご提案の通り、プロアニア王国との長い緊張状態に対して、我が国は長らく軍事力の再開発により対抗してきました。これは、大福祉国家である我が国では異例の出来事です。ですが、プロアニア王国に侵攻の所作は今のところなく、却ってプロアニアの方が平和的な宇宙開発事業に力を注いでいるのが現状であります。つまり、プロアニアには侵略戦争を始める意図はなく、軍事力の開発よりも世界の技術的な発展、これを目指しているということです。そこで、我が国もこの平和的な競争で以て王国に対抗し、その威信を示すこと、その為の開発支援を国家の総力を挙げて行うべきではないか、というのが、ご提案です」
議員が言い終えると、議場の右側から手が挙がる。議長がそれを指名すると、肩を怒らせた厳つい議員が、相対する論壇に立った。
「ご質問がございます。プロアニア王国を支配するヴィルヘルム陛下は奇襲の天才です。それは先の大戦で嫌というほど思い知らされました。我が国も信頼関係によって大きな被害を受けた被害者です。そうした国が、いつ我が国に侵略を始めるかは、残念ながら予測が困難です。そうである以上、軍備からの脱却は難しいと言えませんか?宇宙進出もロマンを感じる素敵なことでしょうが、それは個人の自由でこなせばよいことではないですか」
二人の議員は議席越しに睨みあう。アーニャはそれを真上から見下ろして、固唾を飲んだ。
議員提案をした議員の意見は、確かに現実的ではないように映った。その反論をした議員の意見も的を射てはいる。しかし、彼女の脳裏にはレフの姿やベルナールの書簡が過っていた。
宇宙開発事業は、個人では達成できないほど、莫大な資金を投じる必要がある。それはたった一発でも、である。ミサイルの製造を急いだアーニャだからこそ、その一発の効率の悪さは身に染みて痛感させられた。宇宙開発には、個人の自由では成せない事業という現実が、第一に立ちはだかる。
まして、それを組織が一蹴してしまえば、その人物の思いごと露に消えてしまう。こうした膨大な資金のかかる事業であればあるほど、その実現は遠のいてしまう。ある意味で、国家が個人の意思を拒絶してしまえる。その個人は一体、何を拠り所に生きればいいのだろうか?
(プロアニアだ……)
彼女の心に漠然と言葉が過る。現実的な目線に立てば立つほど、民主的なムスコール大公国が個人の自由から遠のいていく。民主的であるがゆえに、『個人』が『集団』に内包されていく。
二人の議員は互いに譲らずに議論をする。宇宙開発が何の意味を持つというのか、外交的な意味も、平和共栄の意味もあるだろう。そうした議論が延々と続いた末に、年始の議会は閉会時間を迎えた。
議場を続々と離れていく議員たちは、それぞれ付き合いのある仲間を食事に誘っている。今後の国家運営の展望を話し合うのも、食事会の重要な目的である。
アーニャは続々と退場していく議員たちのいた議席へと駆け下りて、議員たちの声を全て断った。
向かって左側の議席、かなり高い位置にユーリーの議席がある。
ユーリーこそ、アーニャよりも多くの議員との食事の誘いを受けているに違いなかった。アーニャは殆ど突進するような勢いで、彼のもとへと向かっていく。野党議員たちが彼のもとへ続々と集まる中、アーニャはそれをかき分けて、ユーリーと対面した。
艶やかな金髪の巻き毛を構いながら、三十歳は若く見える肌理細やかな肌を持ち上げて笑う。ユーリーは意外な人物の来訪に目を白黒させたが、アーニャは勢いに任せて彼のもとへ迫った。
「ユーリー様。今から、少しお時間宜しいですか?」
アーニャがそう言うと、ユーリーは周囲の議員に指先でジェスチャーを送る。彼らはその重要性をわきまえて、彼らだけでぞろぞろと退散していった。
ユーリーは優雅な動きでアーニャに顔を向けると、陰気な上目遣いをして微笑んだ。
「では、とびきりの場所をご用意いたしますよ」