‐‐1911年春の第一月第一週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク4‐‐
レフ・シードロビチ・アレクセヴナは、両腕と両足を拘束されて、ベッドの中で天井の一点だけを見つめていた。
大福祉国家と謳われるこの国において、誰が最も損をするのか。その答えは、声を上げない者と、声を上げられない者である。
レフは、後者であった。
彼の内心には常に靄が掛かっていた。その靄を取り払うと、吹雪の中に苔むした岩の点在するタイガの一角がある。そこでは故郷を思う歌が歌われ、ぐちゃぐちゃに顔を塗りつぶされた亜人が、亡霊のように歩いていく。処分された者達の火葬場は剥き出しになっており、吹雪に晒された煉瓦には真黒な煤がこびりついていた。
靄のかかった記憶をそれ以上に深堀することは避けなければならない。レフはその後その窯を開けるのだから。
遠く響く悲しい歌声と、痩せ衰えた顔の塗りつぶされた亜人たち。休日も休憩もほとんどなく、食事も200キロカロリーに満たないスープだけを与えられて三食呑むだけの収容者の姿。
レフは鮮明に覚えていたし、靄の向こう側にある感触を知っていたが、それ以上を思い出そうとはしなかった。壊れてしまうからだ。
声を上げないことは果たして自己責任であろうか。だとしたら、共感性を持つ善良な個人は全て劣った人になるのだろうか。
‐‐個人こそが至高の権限を持つことが、自由な理想郷の条件であろうか?‐‐
レフが自ら靄をかけた思考の中では、どの問いも答えが判然としないままだった。それどころか、目の前に運ばれてきた病院食の味や、それを運んできた看護師の声でさえ、どれも判然としなかった。
真っ白な個室の中、声も言葉も身動ぎもない室内で、彼はただ天井の染みの数を数えた。
ベッドが起こされ、染みの場所が変わる。そこにはヒトの形をし、白い服を身に纏った染みがあった。染みは何かを手に取って、食事を掬い上げる。口元に運ばれてきたその食事を食べ、咀嚼をする。やがて何度目かの咀嚼と嚥下のあと、彼のベットは降ろされ、天井の染みを数える。
ただそれだけであった。ただそれだけで、一日は終わる。ただそれだけが、彼の命であった。
共感性を持つ善良な個人は全て劣った人になるのであろうか。
この院内で、レフの声を聞いた人は数少ない。壁越しに響くデモクラシーの声は良く響くのに、レフの声は聞こえない。最も近くにある花瓶ですら彼の声に振動することは無い。もっとも密着した布団ですら、その呼気のために僅かばかりも皺を作ることがなかった。
日が傾く。ベッドも傾き、染みが動く。食事が口に運ばれて、それを咀嚼する。その染みは黒いスーツを着込んでおり、膝の高さの辺りで色が宍色に変わった。レフにはそれが意味することは分からなかった。靄のかかった思考では、それが慣れない手つきで口に運ぶ食事の味も分からなかった。
「あっ……」
声が漏れた。喉仏が揺れた。染みはレフの手を掴み、レフに何らかの声をかける。その声が何かは分からなかったが、彼にとっては不快なものではなかった。
舌の上に奇妙な苦みが乗る。鼻腔をくすぐる、焦げたようなにおいがする。それは幻覚であったが、彼には知る由もなかった。彼はその苦みに親しみを覚えていたが、それが何であるのかは思い出そうとはしなかった。思い出そうとすれば、靄を取り払わなければならなかったが、それに耐えることは出来なかったからだ。何かが彼の手を掴む。黒色の染みから覗いた宍色だった。
「レフ……。新年おめでとう。また、お見舞いに来るね」
黒い染みは立ち去っていく。彼はその染みが扉の中へと消えていくのを、視線だけで静かに追いかけた。