‐‐1911年春の第一月第一週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク3‐‐
元旦は過ぎ去り、祈りの時間を終えた人々は新年のあいさつ回りをする。雪の降り注ぐ中で頬を赤くして、近隣の住民と取り留めのない世間話をする。町中を雪の白が占領する中で、子供と父親が大きなかまくらを作り、あるいは雪だるまを作ってはしゃいでいる。その手はやはり真っ赤で、帽子にも白い雪が付いている。
豪雪地帯であるムスコール大公国でも、春の訪れと共に少し弱まった降雪のお陰で、誰もが寒がりもせずに外を駆け回れるようになった。
「この国で車が流行しないのは、犬橇ならば動くけれど、車では動けなくなるからですよ」
一人の男が妻に手を引かれて歩いている。男はやつれて杖をつき、ぶるぶると痙攣をしながら、全身を毛皮で守っている。
落ちそうなほど剥き出しの目は充血し、髭は伸び放題、脚は引き摺るように歩くので、彼の歩いた道には轍のような跡が残っている。
その道をかき消さんと、雪がはらはらと地上に落ちていく。
「昔からあるものはそれなりの理由があってあるのですね。ほら、かまくらも、その場にある雪から作れるでしょう?」
妻は色々と男に声をかけるが、男は黙って歩き続けるだけである。大通りから宮殿の見える場所に至ると、妻は立ち止まり、男の袖を強引に引っ張って方向転換した。
呪われた場所からそそくさと逃げる二人は、振り返り際に鼻の湿ったコボルトとすれ違う。背は低く、目も合わないのだが、男は痙攣を激しくして、その場にへたり込んだ。
嘔吐でもしそうなほどのえずき声を上げる。異変に気付いた市民たちが、男に一瞥をくれた。
「ご、御免なさい。大丈夫です。大丈夫だから……!」
男の手を揺すり、周囲の人にも愛想笑いを見せる妻の声は憔悴していた。すれ違ったコボルトが介助をしようと声をかけると、妻は血相を変えて怒鳴った。
「大丈夫ですから!」
その場がしん、と静まり返る。我に返った妻は慌てて取り繕うように笑い、男の目を遮るようにして、来た道を戻っていった。
呆然と佇むコボルトが夫婦の背中を見送る。その耳は垂れ、尻尾は雪を払うためにわさわさと動いた。
やがて、その場所に、熱を持った印刷紙の良い匂いが漂い始める。新聞売りの少年が町に飛び出してくると、大声で夕刊速報の内容を宣伝し始めた。
「速報!速報です!プロアニア王国が史上初の生体宇宙飛行を達成!犬が宇宙飛行を達成!」
穏やかな雰囲気が一転し、知識人や大人が夕刊を買おうと駆け寄っていく。新聞売りは投げ込まれるように渡されるチップの計算もそこそこに、殆どばら撒くようにして夕刊を希望者に投げた。
硬貨が道に飛び交う。乞食がおこぼれに与ろうと大衆の隙間を縫って新聞売りに近づく。新聞売りは乞食が拾い上げた硬貨を乱暴に取り上げ、集金箱に放り込んだ。
狂騒の声は市街地まで響く。動きの鈍い件の男は、交差点を3つは挟んだその熱狂に再び身を竦ませ、妻の介抱をする手を振りほどいて暴れ出した。
妻が助けを求めると、警察官が駆けつけてくる。力のない男はそのまま取り押さえられて、妻に伴われて病院へと運ばれていった。
彼が病院へ運ばれる姿を、多くの大衆が見て耳打ちをする。暴言とともに白い息を吐きだす男の歯には、降り注ぐ雪の冷気が酷く沁みた。
涙を堪える妻が彼と警察に追従するのを見て、腕を組んだ野次馬が隣人に囁く。病院へ向かうまでの長い雪道を、ふらつく足取りで歩んでいった。
「ご主人のお名前は?」
「はい。レフ・シードロビチ・アレクセヴナと言います」
「レフさん……。あぁ、あのレフさんですか」
警察官の声が小さくなる。通りがかったコボルトの耳がピンと立った。
レフの妻が思いつめた様子で頷く。警察官は言葉を選びながら、騒動の経緯を質問していく。警察官は説明を聞くたびに、暴走する男の零れ落ちそうな目に、同情の念を抱く。大衆の視線は相変わらず険しいものであったが、暴走を押さえて進む警察官の拘束は、僅かに緩んだ。
病院に至る頃には、男は燃え尽きたように消沈してしまっていた。生気を抜かれたような放心状態となり、暴言を吐く元気さえ愛しいもののように思えた。消毒液のにおいがこびりついた院内を、警察官に抱えられた男とその妻が足早に進む。専門医のもとに搬送されると、警察官は妻に挨拶を告げて去っていった。
「離して、離してください!殺される!助けて!」
医務室の扉越しに、レフの呻き声が聞こえる。妻は手を合わせ、地面に雫を零した。