‐‐1911年春の第一月第一週、プロアニア、ゲンテンブルク‐‐
年明けの夜空は青く澄み渡り、普段では見られない星々が空を埋める。その空より美しいものを見たかつての歩兵達は、星々の間、その隙間の多さに驚き、あの美しい光景を偲んでいた。
前しか見られなかった若き日の軍行は狂騒と言ってよく、自分達の体と心に残った大量の傷跡が、あの時代の苦々しい多くの別れを思い起こさせた。
かつて数センチの進軍のために、百万の血糊を付けた地面の方へと目を向けると、元旦が始まり群青と星々が逃れていくその隙間を、一筋の光が昇っていくのが見えた。
兵士はその時を思い出しながら、暁に追われて空の彼方へと飛び去っていく光を見つめていた。
それがペアリスで戦友を世界樹から振り落とした物と同じ技術で作られたものなのだと知りながら、彼は空へ消えていく一筋の光へと、流れ星に向けてするように手を合わせて見送った。
フリッツは、その事実を知っていながらも、怯え切って震えた犬を見て、新年早々の出勤に益々嫌気がさした。
年明けに曖昧な指示を出された科学省の人々や技術者たちは、皆一様に疲れた顔をしていた。一人張りと艶のある肌をしているが、それは他人の金でロケットを作ったコンスタンツェその人である。
国王から色々な質問を受けるコンスタンツェは、その寵愛‐‐勿論それは彼ではなく彼の技術と知識への寵愛であるが‐‐を受けて、自分好みの開発に関する構想を話している。
曰く、兵器として効率よく使う分には、今回のロケットはいいロケットではないこと。ムスコール大公国の技術者が出したらしい改善案を取り入れて、クラスター構造を発展させたことなどである。今後の展望もはっきりと有人宇宙飛行であると述べているらしく、周囲の技術者が額に青筋を立てながら苦笑いしているのが見えた。
この年明け最大のイベントに合わせて調教された保護犬は、今日限りの命が約束されている。猫背の宰相にリードで引かれる気の毒な犬の気の毒な怯え具合に、フリッツは老生の不整脈かと思うほど臓物が疼くのを感じた。
夜の空の下、寝ずの作業が幸いしてか、既に打ち上げの点検までを終えたロケット「ナファルガー3」は、刻々と迫る夜明けを待っている。
「アムンゼン閣下、少しやつれたのではないですか?」
「動物の世話というのは難しいものですね」
フリッツの皮肉に対して、アムンゼンはただ粛々と答えた。アムンゼンに怯え切っていた保護犬は、フリッツを見るなり彼の爪先に迫り、そのにおいを嗅ぐ。フリッツは屈み込み、犬の喉を撫でまわした。
「子供ほどの知恵があるそうですよ。子育ての練習にいかがですか」
「何を今更」
アムンゼンは珍しく口角を僅かに持ち上げた。フリッツは犬用の餌を取り出して、飛びつこうとする犬に待てをさせる。犬はその場に座り込み、涎をだらだらとこぼしながら、それをじっと見つめていた。
「この子と会えるのも最期だと思うと、切ない気持ちになります」
行儀良く待つ犬に餌を差し出す。犬は大いに喜び、急いで餌に食らいつくと、アムンゼンの手綱でフリッツを縛り付けるように足元をぐるぐると回り始める。
「これ、これ。やめなさい」
フリッツは満更でもない声で笑う。尻尾を振り回しながらじゃれつく犬の様子を見おろしながら、アムンゼンは目を瞬かせた。
「随分と態度が違うな……」
「本当は構いたくて仕方ないのではないですか?」
フリッツは犬の頬を撫でまわしながらからかうように言った。無表情の宰相はその目で彼らの様子を見おろしたまま、やはり表情を崩さずに答える。
「どうでしょうか。心にはあまり関心もないので」
背後で最終確認をする作業員の声が聞こえる。僅かな間を置いて、フリッツが答えた。
「そうですか……」
「フランシウム閣下、そろそろ……」
アムンゼンは徐に手を差し出す。フリッツは纏わりつく犬を憐みの瞳で暫く見つめる。彼は躊躇いながら無邪気に戯れる犬の首筋を撫でると、その首筋に一本の注射を施した。小さな悲鳴を上げた犬は、暫くして目をとろんと潤ませる。やがて瞼が落ちると、彼はその犬を抱き上げてアムンゼンに渡した。
犬は舌を出し、すぅすぅと寝息を立てる。猫背の宰相は無表情で、犬を搬入口まで連れて行った。
やがて、ヴィルヘルムとの話を終えたコンスタンツェがのんびりと彼のもとに戻ってくる。
「いよいよですね」
「あぁ……」
起きる様子のない犬は、ロケットの船内へと入れられる。フリッツは閉ざされようとする扉に駆け寄り、アムンゼンの肩を後ろから掴もうと手を伸ばした。
当の宰相は、伸ばされた手を反射的に掴み、捻り上げる。掴もうとした本人の姿を確認すると、彼は即座に手首を離した。
「失礼、突然のことでしたので。御怪我は?」
フリッツは掴まれた腕を押さえて蹲る。首だけで返事を返すと、再び扉を閉ざそうとする彼に向けて、襤褸布を一枚差し出した。
アムンゼンの眉根が持ち上がる。フリッツは託すように、彼に布を握らせた。
「もし貴方がほんの僅かでも、有情を持つお方であるならば。これを、そこに乗せてあげてください」
アムンゼンは受け取った襤褸布をまじまじと見つめながら、抑揚のない声で尋ねた。
「そこに何か意味があるのですか?」
フリッツは腕を押さえ、零れそうなほど瞳を大きく開きながら彼を見つめる。しかし観念して、首を横に振るった。
アムンゼンは布を再び一瞥すると、暫く考えた後、宇宙船の中に放り込んだ。
「閉めろ」
宇宙船は閉ざされる。突貫工事で作られた、片道だけの宇宙飛行が始まる。
いや、それは初めから決まっていたのかも知れない。生きる場所と、死ぬ場所が異なっただけであって、あの犬の運命は初めから殺処分か焼死しかなかったのかも知れない。
フリッツは、自分がした「意味のないこと」を、先のことを考えて後悔しながら、所定の位置に戻った。
朝焼けが東の空を茜色に染め始める。暁が空の色を少しずつ変え始め、カウント・ダウンが始まる。
「3・2・1」
やがて曙の頃になると、空の星と星の隙間が広がりを見せる。逃れていく星々を追い立てるように、堂々たる紅き日が東から昇っていく。
その気候変動に、果たして「意味」はあるのであろうか。
「0!」
轟音と共に、草花が飛び散る。噴煙が上がり、火炎が地面に向かって放たれた。夜明けの色の中で、ロケットは下段を捨て去り、空中で再びエンジンを駆動させる。空中で三度の分離を経て、宇宙空間へと突入した。
「温度は?中の様子は?」
フリッツがしきりに技術者に声をかける。その質疑の様子を、直立したままでアムンゼンが覗き見た。白い手袋を嵌めたヴィルヘルムが、アムンゼンを見ながら、貼りついたような笑みをして呟く。
「どうあっても過ぎてしまったものは戻らないのにね。彼は不幸な人だよ」
「人間は、不合理な生き物ですね」
アムンゼンは誰にも聞こえないような小さく抑揚のない声で答えた。