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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1910年
311/361

‐‐1910年秋の第三月第二週、プロアニア王国、アビス‐‐

 空を切る俊星が、光を反射しながら飛び立っていくのを、半目は歓声を上げて見送った。

 崩れた市壁の瓦礫を取り除き、そこに敷かれた線路の左右に尖塔を立てて補強工事が行われている。それを指揮するプロアニア兵も、無言で作業をする。プロアニア人の侵略以降から続くこの無機質な労働は、昼夜と安息日を問わず絶えず続けられて、アビスの町は教皇宮殿を残してその面影を失ってしまった。

 半目はそれらの面影を元から知らない人間であったが、漠然と何かが変わってしまった事実だけが、目の前の営みから物語られていることを知っている。彼は残り少ない猶予時間を確かめると、飛び上がるように身を起こして、市壁に掛けられた梯子を下りて行った。


 ふぁん、ふぁん、と電車が通過する警告音が鳴る。ぎりぎりまで尖塔の補強作業に従事していた人々は、素早く作業を中断し、退避をした。工具の類も綺麗に回収された作業場に、半目は軽やかに降り立つ。プロアニア兵の一人が腕時計を一瞥して、半目を睨みつけた。


 先頭の一等車が尖塔の前を通過し、続々と貨物車両が続く。食料や鉱物、燃料の詰まった貨物車両が駅の前で停車すると、アビスの駅に待機していた市民たちが荷積み作業を開始する。その様子を、シルクハットを被った資本家たちが横目で眺めて駅を降りていく。


 そのうちの一人は、教皇宮殿に向かう巡回バスへと直行した。



「みんな忙しいねぇ」


「お前も忙しいんだよ」


 工具を手に持った鉄兜が、半目の頭に拳骨をくらわす。半目は仕返しと言わんばかりに、鉄兜の頬を抓って引っ張った。

 背中から聞こえた咳払いに焦り、鉄兜は慌てて工具を渡す。半目はそれを奪い取り、べっと舌を出して作業へと戻っていく。呆れた鉄兜は彼を見送っていると、監視役のプロアニア兵に肩を叩いて労わられた。


「お前も大変だな。お疲れ」


「あー、お疲れ様です」


 去り際に手を振って半目の作業を監視し始める彼を見送った後、鉄兜は真っすぐに空に引かれた一筋の雲が広がって薄まり、霧散していくのを見上げた。


(また何か打ち上げたのか……)


 鉄兜は手持ち無沙汰に彷徨う雲が伸びていくのを見届けた後、支給された集合住宅へと戻っていく。


 駅に荷物を放り込んでいくカペル人達は、追い立てられるように続々とホームと集荷場との往復を繰り返す。プロアニアから来た資本家や交替の兵士が時計を気にしながら、その様子を眺めている。

 駅から少し上ったところに、半目と鉄兜の宿舎がある。旧カペル王国時代の古い集合住宅であり、解放された大広間から梯子を上ることで、それぞれの個室、というよりは吹き抜けの一区画に辿り着くことが出来る。三畳ほどのごく小さい区画を、上下で柵のみで区切って作られた名ばかりの部屋に登りきると、彼はその床に乱暴に身を預けた。


 疲労感と共に冷たい床の温度が全身に伝わる。足はむくみ、大きなため息が自然と零れる。鬱憤を晴らすことの出来ない日々の中では、心地よい睡魔が数少ない気晴らしとなった。


(プロアニアの労働者が、同じ空の下にいるんだろうな……)


 陰気な天井をぼんやりと見つめる。簡素な荷物たちに囲まれた寝床だけの空間で、以前とは比べ物にならない柔らかいマットに腰を預ける。


 階下から誰かの歌声が響く。今どき珍しい吟遊詩人の声だ。酒に酔った工夫達が勢いに任せて歌う時のように、音程が外れたり、声が震えたりしている。


「下手くそ……」


 呆れ笑いが零れる。それでも、開かれた狭い空間の中では、歌声だけが酷く大きく響いた。彼は悲しげなリュートの音が繰り返されるのに耳を貸し、聞きなれない歌を輪唱するように口ずさんだ。



 そこには花の籠 祈りの焔 人は乞食にて銭を洗う


 御羊の御座に着くものは 薔薇水を撒き 災厄を退けようと試みる


 憐れなるかな花の籠 乞食は堰き止める壁となり 手と手を繋いで壁を築く


 空の御座には神など居らず 跛行する蛞蝓(なめくじ)が壁を轢く


 花の籠には蜜はなく 乞食は血糊と成り果てて 祈りの焔は地底を焼く


 爛れた町に祈りの声 空の御座には神など居らぬ



 それがアビスのことだとは、誰しもが分かることであった。リュートの音が、余韻となって空に響く。労働者たちは寝返りを打ち、壁と向き合い、肩を震わせた。


 鉄兜は頭痛がして、頭を押さえる。古傷のような幻痛が、ヴィロング要塞の映像となって襲い来る。心臓の鼓動が速くなり、横たわるままに世界がぐらぐらと回りだす。恐ろしいことに、その歌声は、滔々とその先を語る。



 凍み渡る遠い山麓の風 並ぶ人の中には点々と死人が


 激しく吹雪くその中を 姫が立ち、そして付き人は待つ


 国境はもう目前 それなのに ああ、長蛇の列が


 人の壁が蠢き、姫の前に立ちはだかる


 先を急ぐのは吹雪に耐える人だけに非ず 迫り来る軍靴に 列は乱れる


 震え立ち止まり命乞う 卑しき民に向けて響く


「進め」と怒号が合図となって 国境へと雪崩れ込む


 冷たい空、凍てつく肺、古い銃剣、幼い玉体 その手には、人の命は重すぎた


 主上の御子の忘れ形見は 蓮華の花を雪下に咲かせる


「ねぇ、おじいちゃんは、どう思う?」



 歌う声が止むと、鉄兜の胸に自然と哀悼の情が湧いた。多大な犠牲を払った戦争に、どんな意味があったのか。


(このままでは、プロアニア人の犠牲さえ、報われないんじゃないだろうか)


 幻痛は止んだが、冷静さを取り戻した心はその隙間をかえって鮮明にした。彼は寝返りを何度か打ち、その寝返りと寝返りの間に、重い溜息を吐いた。


 気が付けば寝苦しさに起き上がり、ぼんやりと壁の染みを見つめていた。染みは、人の影のようにぽつりとその場に浮かんでいた。


 リュートの音が去って暫く経つと、彼の集合住宅に深緑色のローブを纏った人が現れる。彼らは休む住民たちに向けて励起を促す声を張り上げた。


「カペル王国再興を求める者達よ!我が同志たちがいるならば、直ぐに名を挙げよ!雌伏の時を超え、大いなるアイリスが再び花開くために、共に戦おうではないか!」


 先ほどの吟遊詩人の声とは全くの別人の声であり、似ても似つかない声であった。彼の声を聞きつけたのか、見回りのプロアニア兵が軍靴を鳴らして集合住宅へと駆けつけてくる。ローブの男はすぐに入り口を飛び出し、忽然と姿をくらませた。


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