‐‐1910年夏の第一月第四週、アーカテニア王国、マドラ・スパニョーラ‐‐
潮風のにおい。澄んだ夜。分厚い陽炎の中を、蒸発した水分が漂い、高い湿度によって衣服が貼りつく。
巨大な修道院に世俗の服で押し込まれて、既に数年が経った。兄の年齢を追い越してしまう。そのやるせなさと言ったら、ああ。
筆舌に尽くし難い。
見捨てた人と寝食を共にするのにも慣れてしまったが、未だに晴れ上がらない空模様に、梅雨の残像を感じる。その往生際の悪さは、フランツによく似ていた。
「イローナ、少し良いかね」
フランツが顔を覗かせる。少し安堵した様子で、私は直ぐに良からぬことが起こると察したのだった。
「どうぞ」
つい素っ気なく応じてしまう。義兄の人の好さに甘えて、感情を隠す術を学べなかったのは、私の生き辛さを助長しているように思う。
「明朝、アルフォンゾ猊下が御巡幸なされるそうだ。国王陛下と君の結婚を前向きに検討しているそうだ」
「私はまた、望まない相手と結婚するわけね」
フランツが戸惑いの表情を見せる。薄暗い室内に、インクの染み着いた匂いが漂っていた。それは、義兄の手と同じ匂いだ。それを嗅ぐたびに、窓から射す光の中で微笑む義兄のことを思い出すのだ。
「いいですよ。女が政治に参画して、良かったためしなどないもの」
刺々しい答えに、フランツは口ごもる。何を言っているのか判然としないが、どうせ大したことは言っていないのだろう。
ナルボヌ伯爵令嬢はフランソウス家出身の母、アリエノールがそうであったように、私にもつまらない結末が待っているのだろう。不幸なのは女ばかりではないけれど、女として生きるのはより不幸だと思ってしまう。
女なんて……。
フランツは暫くそわそわとしながら顔を覗かせていたが、やがて逃げるように扉を閉めた。しんと静まり返った部屋のベッドの上で、スケッチブックを開く。黒の線で描かれただけの、簡素な花の絵が目に留まった。
義兄と見た景色だ。
デフィネル宮の窓から見えるミモザの花。小さく、黄色くて愛らしい花。知識を必要とされる宗教画が苦手だった義兄が一番得意な、花や動物を含んだ繊細な風景画だ。陰影に至るまで繊細に描かれた、淡い筆遣いの絵。その柔らかな人柄が、そこから溢れ出しそうだった。
「感謝、思いやり、秘密の恋……」
ミモザの花を見おろしながら、溜まっていく涙を拭う。父母を置き去りにして、義兄を犠牲にして、どうして、自分だけ幸せになれようか。
修道院の一室だけに、この場所は静けさに満たされている。沈む心を夏の夜の中に埋めて、顔を枕に預けた。
浸み渡る夏虫の鳴き声。遠く唸る海鳥の声。花の香りだけが、今一つ足りない。この不足こそがきっと、私の魂に刻まれた記憶なのだと思う。
蒸し暑い夜が明ける。無音の室内に、修道院の高らかなベルの音が響き渡った。
サン・ヨシルデの修道院前に、真っ白な御用馬車が停まる。剃髪をした髪をミトラに隠した法王が、従者に手を引かれて下ってきた。
高窓からその様子を眺めていると、フランツは明るく法王と握手を交わす。対応の丁寧さに気を良くしたのか、法王は自慢の錫杖で彼の肩を叩いた。
少し遅れてサビドリアが現れると、法王の顔が曇る。唇の動きだけで、サビドリア特有のあの挨拶の声が聞き取れた。
『神慮めでたく』
敬虔な御羊の御座の住人らしく、サビドリアは丁寧な所作で法王に声をかけている。それを意図的に無視するように、法王はしきりにフランツに話を振っている。サビドリアはすまし顔のまま、二人の立ち話を黙って聞くことに決めたらしい。
その目と一瞬視線が合わさって、咄嗟に視界から彼を外した。不気味なほど虫唾の走る嗜虐的な笑みに、全身に鳥肌が立ったのだ。
視線を外した先には、背の高い雲がある。海原がすぐ間近に見えるので、水平線の上には船がぷかぷかと浮かんでいた。
ようやく立ち話を終えた一行は、修道院の中へと入っていく。栄光の太陽に跪き、神への敬虔を示すためだろう。
『この出会いに感謝を』
とってつけたような言葉が脳裏を過った。少なくともフランツは、そんなことを言っているに違いない。御用馬車は入り口から裏口へと移動を始め、長い時間個々に滞在するらしいことを仄めかした。
暫くして、三人、と言っても殆ど二人の話し声が聞こえる。階段を登る音が大きく響くので、法王はそれなりに恰幅が良いのだろうと窺える。剃髪したのではなかったのか、と思ってしまうが……。
声が徐々に近づいてきたので、装いの確認をする。手から足先まで淑やかに纏められていて、多少修道女のような侘しさも感じる装いになっている。恐らくは、場所に見合って丁度いいものと思われる。
ドアがノックされ、短い返事を返す。先ずはフランツの笑顔が現れ、次に楽し気なアルフォンゾ法王の姿が現れる。最後に、歪に口角を持ち上げるサビドリアの不気味な微笑が現れた。
私を見るなり、法王は大仰に眉を持ち上げた。厳めしい表情が緩みきらないのか、眉間には皺が寄ったままだ。
「おお、可哀そうなご婦人。今日ここで出会えたのはきっと神の思し召しに違いありませんよ」
装いこそ取り繕っていたが、政治的な期待の込められた眼差しは酷く嫌らしく見えた。努めて淑やかに応じる私と握手を交わすと、法王は同情するように眉を下ろし、憐み深い眼差しで語り掛けてきた。
「大層窮屈な暮らしでしょう。ですが、もう少しの辛抱ですよ。きっとあなたを幸せな暮らしに導いて差し上げましょう」
顔も知らない相手と縁談をすることによって、ですか。
つい口答えしたくなるのを、引き攣った笑みで返す。フランツが心配そうにこちらに視線を寄越して来るのも、却って腹立たしい。
「アーカテニアでは神の御威光のお陰で、王宮に存分に富がございます。カペルの宮廷での暮らしぶりにも劣らぬ贅沢が出来るに違いありませんよ」
遠い記憶の中で、ミモザの花がしなる。甘やかな風の中で、父や母や、義兄の姿が通り過ぎていく。
蹴飛ばしたくなる気持ちを必死に抑えて、静かに、スカートの裾を持ち上げた。
法王は満足げな頷きをして、直ぐにフランツに向き直った。
「フランツ殿、後のことはお任せください。彼女には何不自由のない生活を保証いたします!」
「どうか、よろしくお願いいたします」
フランツは恭しく頭を下げる。一瞬だけ視線をこちらに寄越したが、私は意図的に視線を逸らした。
三人はそそくさと立ち去っていく。静寂を切る法王の大笑が、耳障りでならなかった。