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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1910年
306/361

‐‐1910年夏の第二月第二週、エストーラ、ノースタット、ベルクート宮‐‐

 さて、喜ばしい報せは何も、シュッツモートでの出来事だけではありません。やはり都においても、大切な出来事、陛下にとって喜ばしい出来事がございました。

 舞台座では日々、民間の劇団や楽団が催しを行っておりましたが、その日は舞台座での催しがありませんでした。

 それというのも、方々から招かれる様々な楽団や劇団も、その施設の解放に興味津々だったのです。


 ベルクート宮の庭園前には人が集まり、バルコニーからその様子をご覧になっておられました。ベルクート宮の前でこれほど多くの人が列をなすというのは最近では珍しく、陛下に何度も暗殺未遂があった在位直後には尚更厳重に管理されておりました。


 ですが、その日、人々は城が解放されるという報せだけでなく、庭園で新たな施設が解放されるのを待っていたのです。


 陛下の悲願でもありました、宮廷動物園の解放です。

 宮廷動物園を一望できる最上階のバルコニーから、陛下は臣民の姿を慈しみ深い眼差しでご覧になっておられました。その眼下に広がるのは、凹凸のある人の集いです。つまりは、老若男女の別なく、また、コボルト人の姿も見受けられます。湿った鼻を持つ夫婦が、沢山の御子が遊び回るのを注意する姿、若い紳士淑女が爪先を並べて身を寄せ合う姿、年老いた未亡人が小さなポーチ一つを手に列に並ぶ姿などが見られます。

 その様子をご覧になった陛下は、バルコニーの手摺を強く握りしめ、僅かに口角を持ち上げておられました。


 やがて、開園の時間が訪れると、臣民はゆっくりと進み出ていきます。それは、自分の子や、隣人であるご老人の歩幅に合わせて入園されているからです。解放された動物園に、鼻の湿った子供が、尻尾を大胆に振りながら駆けていきます。大きな角を持つ犀を怖がって泣く幼児や、立派な角の馴鹿(サンダ=ヴィクセント)の赤い鼻を珍しがる老人などがそれぞれの檻の前で足を止めました。


 宮廷動物園の最奥地まで辿り着くと、見慣れた丸い猛禽の姿を認めて、人々は喜んでその檻に集います。

 丸く愛らしい姿、大きな目、そして聡明そうな優雅な立ち振る舞いに、皆釘付けとなりました。


 それを、臣民は舞台座の壁面などで良く見たことでしょう。なぜか陛下が恥ずかし気に咳払いをするのも、微笑ましい光景でございました。


 夏の照り付ける長い陽射しの下で、珍しい動物たちや、美しい植物に目を輝かせて進む臣民の姿を、陛下は遠目でご覧になります。


「陛下、念願が叶いましたよ」


 陛下は言葉も無く静かに頷かれました。すっかり地上で見られなくなった動物の骨格標本や剥製を展示する秘宝館に人が集まり始めると、子供達が元気な様子で親や祖父母を困らせているのが見えました。

 無邪気で、溌溂として、輝かしい思い出。その尊さに、陽炎が視界を阻むのです。

 眩しいものを見るように目を細めて、そうした平和な様子を眺められた陛下が、涙ぐんで仰られました。


「この子供達は未来を作るだろう。私は、ここにいられる事を誇りに思う」


「他ならぬ陛下が、それを守ったのですよ」


 思い出されるのは、きっとずっと、遠い記憶だったのだと思います。

雪の日に岸壁で海鳥の行き交う姿を描いた御父上の御姿や、首都の株式市場を訪問した母上の御姿でしょうか。宮廷の演奏会で垣間見たカサンドラ妃の風雅な御姿や、カサンドラ様に手を引かれる御子息の御姿かも知れません。あるいは、おっとりした、息子の忘れ形見でしょうか。

75年間の生涯で出会ってきた忘れがたい瞬間が、流れては消えていくのでしょう。ただ、言葉も無く、残された心の隙間をしっかりと抱き寄せて、その御様子をじっと見つめておられるのでしょう。


 陛下の統治が始まって以来、帝国の死亡率は戦時を除いて緩やかに減少していきました。その最後のお仕事が、これほど穏やかで、幸福に満ちているというのは、それはとても喜ばしいことではないでしょうか。私は、陛下の御背中に手を回し、畏れ多いことでしょうが、そっとその背中を摩りました。


 遠い記憶の中で、陛下が満面の笑みを浮かべているのを、空に浮かぶ太陽に重ねました。


「少し、園内を散策致しませんか?」

「そうしよう」


 私は陛下に杖を手渡しし、肩を貸しながら動物園へと向かっていきます。入園待ちの行列が、最高の歓声と共に道を開け、手を振り、陛下の御手を握ろうと手を伸ばします。陛下は白い手袋を脱ぎ、一つ一つの瑞々しい手や儚い手、綺麗な手や汚い手を握り返し、一言ずつお言葉を添えられました。優しい声音でございました。


 園内に入ると、動物たちに夢中の人々の中から、ちらほらと陛下にご挨拶をする人々が現れます。それが行列となると却って混雑となるでしょうから、陛下は握手をしたその素肌のまま、にかりと笑って人差し指を唇の前に立てるのでした。

 それを見た人々も、小さな会釈だけを返して、珍しい動物たちの姿に向き直るのでした。


「うんちした!」

「こら!」


 子供がゲラゲラと笑うのを諫める御母堂、それを見て闊達に笑う御尊父、それらを取り巻く大きな笑い声。それにつられて、遠くで無邪気に笑う陛下の御姿。どれも眩く、たまらなく愛しい。


 園内には、未だ設備として設けられていないものもあります。それを補うのが、民間の出店でした。申請を通した移動屋台が、簡便な設備で飲食物を売り、来園者がそれをベンチに座って頬張る。初々しい恋人たちがそれを頬張り、皇帝陛下を見て興奮しながら手を振ると、陛下は丁寧にご挨拶を返され、ご自身で財布を開いて恋人たちの食べるものを購入されました。

 少し笑ってしまったのが、緊張して手元が狂う屋台のご主人の姿です。それはもう、失礼のないようにとされるほど、手元が狂って粗相をされるので、陛下が畏まらずにと仰るのですが、それが却って緊張を呼ぶのです。そうこうするうちに屋台の前には人集りが出来て、汚れた作業場を処理する間に注文が殺到、陛下はそれを申し訳ないと思ったのか、手ずから行列を管理されるのでした。


 動物たちも様々です。夜行性の動物などは気だるげに目を細めていたり、寒冷地の動物は冷たい水場のある日陰でのんびりと涼んだりしております。そうかと思えば中型の肉食獣や大型の草食獣は、堂々と気ままに歩き回り、餌を食べて口を動かすので、臣民がその周りに盛んに集うのです。


「夜の動物園というのも面白いかも知れないね」


 陛下はそんな言葉を零して、楽し気に園内を散策されました。

 また、園内の最奥地にある檻の前で、やはり陛下は立ち止まられます。母親の面影を残す丸い猛禽が、陛下を見つけて翼を広げます。

 釘付けになる臣民の歓声の奥で、陛下は姿勢を正し、深く頭を下げられました。


 顔を上げた陛下は、どこか誇らしげな笑みを零し、その鳥を見上げられます。そして、猛禽が音もなく首を回した姿をご覧になると、今度は声を上げて笑われたのです。


 さて、屋台には、なにも飲食物ばかりがあるわけではありません。その仮設の売店はかなり大規模で、ふわふわとした縫い包みが一杯に置かれておりました。動物たちを模した縫い包みです。

 動物の縫い包みを抱く家族連れが、和気あいあいとした様子で帰路に着いております。また売店の前では、地面に転がって泣き強請る子も居りました。あまりに激しいので、両親が叱り腕を引くのですが、中々退きません。店主も困った笑みを浮かべているのですが、陛下は後ろからゆっくり近づき、子供に目線を合わせて尋ねました。


「ご両親やお店の人を困らせるのは良くないよ」


 物欲しそうに陛下のご尊顔を見上げて泣く子に、陛下は小指を差し出されます。


「お爺さんと約束しよう。今日からご両親のお手伝いをして、二人からいっぱい感謝されるようにする。そうしたら、私が好きな縫い包みを買ってあげよう」


 子供の赤ら顔がぱぁっ、と明るくなります。ご両親は顔を見合わせて肩を竦めました。陛下は子供が指さす縫い包みを買い支払いを終えると、縫い包みを子供に渡し、ご両親に深々と挨拶をされました。


「陛下、申し訳ありません。この子がとんだご迷惑を」

「いえいえ。私こそ、ご迷惑ではなかったですか?」


「ご迷惑だなんてそんなこと!家族の良い思い出になりました!」


 陛下は柔和に微笑まれ、縫い包みの手を引き取りつく子供の頭を撫でられました。


「これからも、健やかに幸せな家庭を築いて下さい。それが、我が国の最高の宝ですから」


 ご両親は陛下に深く礼をして、子供の手を引かれました。振り返る子供が縫い包みを抱いて小さな御手を振るのを見て、陛下もその御手を振り返されたのです。


 その日、閉園まで園内を散策した私達は、胸いっぱいの幸福感に満たされて、ベルクート宮へと戻ったのでした。


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