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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1910年
305/361

‐‐1910年夏の第一月第四週、エストーラ、霊峰シュッツモート2‐‐

 1910年のこの年、帝国では喜ばしい出来事が次々に起こることとなりました。人々が戦争の苦しみから立ち上がり、静かに市場経済が歩み出して久しく、帝国は再生と発展の道へと動き始めました。そのうちの代表的なものが、以下の二つであり、一つは、霊峰シュッツモートに出来た天文塔でございます。


 霊験あらたかな霊峰シュッツモートに、近代的な観測施設が完成しました。高山の麓で星光を遮るものもない、この美しく荘厳な霊山に、白いドーム状の天体観測所が、民間の出資によって建設されたのです。


 それは、エストーラ帝国の経済復興が進んでいるという、快方へ向かう兆しでもありました。瞬く光輪が白く薄化粧をした山肌に掛かっており、それはさながら天体観測所の稼働開始を祝福するかのように見えました。


 御用馬車が急峻な山を登る間、陛下は銀製の杖で細い御身体を支え、浮ついたお心を隠そうともせずに、時折天体観測所の方角を覗き込んでおられました。


「ほら、ノア。あれが本物のベルクートだよ」


 陛下は明るい表情で、遥かに高い夏の空を指差されます。指の先には、大きな翼を広げて滑空する犬鷲の姿がございました。


「おぉ!雲の中にあっても、存在感は格別ですね」


「歴代皇帝が猛禽類を象徴にしたがった理由が分かるよ。とても立派で美しい」


 御姿こそご老人そのものでしたが、陛下の削げ落ちていた頬にはいくらか肉が戻り、艶やかな笑顔が戻っておられます。陛下のその御姿は、苦々しい戦禍は過ぎ、北方の友人たちと手を取り合うことで豊かさを取り戻しつつある帝国そのもののようでもありました。

 私は、陛下こそがまさしく帝国の象徴であらせられたのだと、痛感致しました。


 犬鷲の過ぎゆく様を見送り、長い山道を登っていくと、山頂からは丁度半分ほどの位置で、天体観測所が見えてまいりました。


「おお、あの隙間から覗くものが望遠鏡だね」


 陛下は再び歓声を上げられました。その声の伸びやかなこと、感嘆の表情の豊かなことは、これまでの苦労を思えば涙が溢れそうなほど喜ばしいものでございました。


 天体観測所は山の中腹にありました。外壁は白く、観測用の巨大な望遠鏡がドーム状の天井から晒されております。御用馬車が天体観測所に寄せられると、エストーラの研究者‐‐主だった人は聖職者、貴族、大学教授などです‐‐が馬車を囲み、跪きます。陛下は困ったように微笑まれると、杖に重心をかけてゆっくりと立ち上がられました。馬車の乗降口に先行した私は、陛下の御手を取り、踏みしめるようなゆっくりとした一歩一歩を導きます。陛下の御手のごつごつとした血管の感触、皺の寄った、滑らかとは言い難い感触に、その御苦労が感じられました。


 研究者たちは陛下に追従し、殆ど護衛のように身を寄せ合って天体観測所の入り口まで向かいました。高齢の陛下が通りやすいように、近衛兵の衣装を身に纏ったコボルト人が、折り畳みのスロープを広げました。

 段差に掛かるスロープの前で、コボルト人に深々と頭を下げられた陛下は、私の御手を、まるで恋人がそうするように強く握り返し、スロープを登って行かれます。陛下の通ったスロープを避けて、研究者が段差をゆっくりと上ります。やがて扉の前で振り返った陛下は、はっ、と、息を呑まれたのでございます。


 澄み渡る蒼空に、入道雲が高くかかり、その中を猛禽が飛び去ろうと羽搏きます。風が吹くと、衣服がお肌に貼り付き、ばさばさと激しい音が響き渡りました。


 この、山岳の騒々しい風の音に、雪化粧をした山脈の尾根を遠く見つめられた陛下は、何をお考えであったのか。つ、と一筋の涙を零されました。


 胸が、激しく締め付けられます。

 霊峰シュッツモートの、背の高い山麓の上にかかる雪は、紫色の唇をして戻られた愛孫、フェルディナンド様の最期に見た光景によく似ておられたことでしょう。陛下はこのめでたい祭典に、ふとした瞬間にそれを思い出されたのではないでしょうか。暫く呆然と尾根を眺めておられた陛下ですが、長いテープリボンを手に取ると、研究者や、私などの、一人一人の顔をご覧になりました。


「このめでたい日に、空は遥か先まで見届けられるほどに澄み渡っております。夜の帳が落ちれば、都会では恥じらうような星々が、その姿を見せてくれることでしょう。この、世界で最も天に近い場所で、私達は多くのものを発見し、それを公表していくことになります。その輝かしい未来に期待を寄せて、このスエーツ天文塔を開設することと致しましょう」


 陛下のあえかな願いに答え、空を舞うベルクートはきぃ、と高い声で鳴きます。

 テープリボンに、鋏が差し込まれます。一同がほとんど同時に、テープを切りました。テープリボンは重力に合わせて落ち、私達の手から滑り落ちます。やがて、山麓の強い風に切り口を持ち上げられたリボンは、膝の高さに浮き上がり、そのまま地面に身を引き摺りながら、空の彼方へ向かって飛んでいきました。


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