‐‐1910年夏の第一月第四週、エストーラ、霊峰シュッツモート‐‐
古い石積みの墓が、高い霊峰に並んでいる。霞の下には真新しいドーム状の建物が建設されていた。ドームには可動式の巨大な望遠鏡があり、それは一昔前のエストーラでは実現不可能な技術で作られていた。
フェケッテは長い旅路を経て、この閑静な墓地に登ったのであったが、目下の建造物に思わず首を捻った。
献杯用のワインを静かに下ろす。咥えた煙草からは、副流煙が静かに流れていた。
「最近できたのか?」
少なくとも、彼の記憶にその建物はなかった。勿論その形状についても、宗教施設でしか思い当たる建物が無い。例えば、皇帝のウネッザ巡幸に護衛として同伴した際に見た、聖マッキオの天文教会がそれである。
そのドームを貫通するように、望遠鏡が突き出している。奇妙な形状と言わざるを得なかった。
「また人間は、変なもんを作ったなぁ」
気だるげに屈みこみ、尻尾を揺らす。ノミが数匹体から跳ねて、彼は後ろ足で体を掻いた。
霊峰は相変わらず静かなものであったが、その建物の周囲には聡明そうな見た目の人物が往来していた。建物から出てくるものも、どうやら学者らしい見た目をしている。
暢気な欠伸を零し、ワインの瓶を手に取る。栓を強引に抜くと、良質なアルコールの言いようのない香りが広がった。
簡素な墓石にワインを注いでいく。赤みがかった墓石が嬉しそうにワインを仰いだ。
「あー、そういや、俺らもいつの間にか『人間』になったんだったな」
彼の声音はどこか嬉しそうではあった。墓石に十分にワインを沁み込ませると、彼は屈み込み、自らもこれをラッパ飲みした。
心地良く喉が鳴る。体毛で隠された喉仏が、何度も上下した。
思わず爽快な声を上げ、口を拭うと、瓶の中身はすっかりなくなってしまった。
酒を浴びせた戦友たちの傍に胡坐をかく。高地特有の強い風が、長い尻尾の体毛を靡かせた。
「人間ってやつは、言葉一つで扱いを変えやがる。変な生き物だよなぁ……」
改正基本法のことを思い出しながら、尻尾を丸める。以前ここで自由について語った際に聞こえた幻聴を思い出した。
「いざ自由になったら……俺にはやることがねぇよ」
『今まで通りでいいだろうが』
『うまい酒だなぁ。退職慰労金かぁ?』
「ほんとに、お前らは暢気で良いな」
思わず笑みがこぼれる。フェケッテは煙草を燻らせた。
墓石の周囲は静寂そのものだが、彼が耳を立てれば天文台に集う人々の会話が聞こえる。星座の話、天体の話などが、あれこれと飛び交っている。
思わず笑ってしまった。地に足をつけて生きる自分達が、何故、関わりのない星々の話をするのか。人間の奇妙な生態が足元で観察できる。彼は煙を空に返した。
「プロアニアが、宇宙に人工物を飛ばしたらしいぜ。人間は色々、変なことを考えるよな」
『お前も人間だから、変な奴なんだなぁ』
『お前がラッパ飲みするから、俺達の分の酒が足りないじゃないか!』
下らない会話、意味のない会話であった。穏やかな風が吹き抜ける。分厚い葉を持つ高山植物が、吹き飛ばされないようにぴったりと地面にしがみついている。握手をする足元の人間が、未来の展望について語り合っている。
「この場所は景色も良いですから、我々の知らなかった星を見つけられるに違いないですよ!」
フェケッテは尻尾を揺する。言いようのない感情の昂ぶりに困惑した。
『……あれぇ?意外と興味あるんじゃないのぉ?』
「……うるせー」
再び、口に含んだ煙を空に返す。煙はフェケッテの唇を離れ、澄み渡る青空に帰っていく。湿った鼻が、副流煙を吸い込む。
彼はワインの瓶を肩にかけ、乱暴に立ち上がった。
「じゃあ行くわ」
『また来いよ』
フェケッテは幻聴に向けて手を振り、殆ど落ちるように急斜面を駆け下りる。天文台の前で嬉しそうに話し合う人々が風を切るそれを見て、口をあんぐりと開けて追いかける。彼らは再び話に戻り、月の表面や、遠い星の瞬きについて思いを巡らせる。
フェケッテは麓の町が視界に映ると、地面を蹴り上げて、市壁の前に着地する。傷一つない市壁の前で、関所の兵士が、猥談に花を咲かせていた。
「……仕事しろよー」
フェケッテが兵士の肩を叩く。慌てて仕事に戻る兵士の様子を、彼は目を細めて見送った。