‐‐1910年、春の第二月第一週、プロアニア、ケヒルシュタイン‐‐
海原を行く船から、久々に降り立つ。長く遠洋を航行していた海の男たちは、揺れる船の上から港に飛び移り、拳を突き合わせて互いを労わり合った。
若い漁師や年老いた漁師が冷凍保存された貴重な水産物を船から運び上げるのを見届けると、船長は重い足取りで港へと降り立った。
釣果に反して、彼の表情は優れない。漁師たちに挨拶をし、荷物の後片付けを終えると、船長は係船柱に座り込み、パイプを燻らせた。
海は彼らの帰りを歓迎するように凪いでいる。潮風が肌を撫で、薄手のシャツが絡みつく。懐かしさに似た鬱陶しさに安堵感を覚えた。
船長は空を呆然と眺める。雲の中に白い海鳥が混ざり合い、尾の黒い羽根と嘴だけが、その存在を伝えている。遥かに続く海面は、水平線の向こうで霞み、空との境界線でぼんやりと陽炎が揺蕩っている。
「ようやく見つけましたよ」
船長は老人の声に振り返った。長い航海を終えた船長は、白衣を身に纏ったその人物を見つけて、思わず目を見開いた。
「フランシウム閣下……」
科学相フランシウムは、白衣の裾から白いワイシャツの袖を晒し、気軽な様子で手を挙げる。潮風が二人の間を吹き抜けると、薬品のにおいが船長の鼻腔をくすぐった。
「宇宙に人工物を打ち上げたそうで」
「えぇ。優秀な技術者がいましてね」
二人の会話に抑揚は少ない。互いに気を遣うような、長い間が差し込まれた。
海鳥が青空の中に出ていく。見分けのつかないほど小さな山に似た輪郭が、近づいては遠ざかった。
海に旧落下する海鳥を見つめて、ただの船乗りであるラルフが零した。
「プロアニア王国が、再び技術大国として語られるために、戦争からは距離を置くべきだと、そう思います」
「次は生物を空に浮かべたいものですね」
言葉を遮るように、フリッツが切り返す。潮風が白衣の裾をふわりと持ち上げた。
海鳥が海面を嘴で叩き、直ぐに飛びあがる。嘴には憐れな小魚が捕らわれ、青い空に鈍色の鱗をまき散らした。
きらきらと、水しぶきが落ちていく。その様子を、二人はただ眺めた。
「先日、エーリッチが来ましてね」
「あぁ。彼も苦労しているようですよ」
フリッツは何気なく答える。少々強引な若者のことを思い浮かべて、自然と表情が解れた。伸ばされた老体がずきずきと疼く。
「『なぜ、隠していたのか』と。『なぜ、私達に誇りある仕事をさせてくれなかったのか』と。そう、問われました」
ラルフの声色は沈んでいた。深い深い海溝のように、瞳には光が無い。
「親の心子知らず、ということですか。私は、貴方に同情しますよ」
「いえ……。やはり私は海の男失格でした。同朋を守るために臆病風に吹かれて、彼の誇りも、正義も奪ってしまった」
フリッツはラルフの顔を覗き込む。頬を伝い、雫が音もなく流れていく。大粒の雫には歪んだ空が映り、日焼けした男の肌が剥がれるように見えた。
零れ落ちた一滴が、海の中に溶けていく。それは波紋も作らないほど弱々しく、海原には波一つ立たない。
「人間に善悪を求めるのは無意味なことです。世の中は……技術的な問題にしか答えを見いだせない」
「同じように、私も無意味なことに足掻く人なのですね」
混ざり合わない青の隙間で、船着き場に二つの影が伸びる。騒々しい競りの声が市場から起こり、駐輪した自転車がひとりでにバランスを崩して倒れた。
町が賑わい始める。海から店へと、魚たちが運ばれていく。イワシ、サバ、タイ、スズキ、ヒラメ、カジキなどが、続々と運び出されていく。
魚の生臭いにおいが空に漂う。ここにあっては潮風と、薬品のにおいとがそれに混ざり合った。不純な、不快な臭いが充満する。ラルフは居心地の悪さに耐え兼ねて、歯を食いしばった。
「エーリッチは青いでしょう。どうか、何かがあったら守ってやって下さい」
ラルフは頭を下げる。赤い光を取り込む海水が、穏やかに波打つ。
「青ですか。私は案外、そういうものが嫌いではないのかも知れません」
フリッツはレイリー散乱を遠く見つめて、慈しむように目を細めた。