殿上のオウィディウス
‐‐●◯1909年夏の第二月第四週、プロアニア王国、ペアリス‐‐
暗い空の下に、壁面を削られた建物がある。狭い道に影を差す建物の群れの間を、食料を電車に積む人々が列をなして歩いていく。
住めば都とは言い得て妙で、苦しみの中に従順に過ごした日々が、彼らの感情を消す代わりに不幸を削り取った。
夏の空に浮かぶ背の高い入道雲が、白や灰色のグラデーションを作りながら流れていく。雲間というものが見られない天気の中で、機能的なシャツに汗を滲ませたプロアニアの歩兵達が、市民に連れ添って歩く。
言葉少なの行進は、崩れた市壁の隙間から覗く田畑の遠景まで続いている。
「尋常学校の講師を辞められるとか」
国王代書人であったリュカに、歩兵連隊長は語り掛ける。リュカは旅支度を済ませており、連隊長は食事を終えた閑居を、煙草を燻らせることで誤魔化していた。まともに文字の読み書きができないカペル王国の貴族達に文字を教えてきたリュカは、はにかみがちに笑った。
「まぁ」
「どういった風の吹き回しかは分かりませんが、ご多幸をお祈り申し上げます」
「どーも」
重い鞄を背負ったリュカは、リュートを調弦しながら、空返事を返した。
背の高い入道雲が、町に覆い被さる。
「旧王国の時代であればともかく、今の時代に吟遊詩人では食い扶持にも恵まれないでしょう。優秀な講師とお聞きしておりましたので、残念でなりません」
「国王代書人時代の貯えが、役に立つってことです」
人の行列は途切れることを知らない。狭い道を通る馬車に、麻袋や樽を積載する人々が往来する。襤褸布の先から覗く踵が、赤く硬化している。
「どうしても行くのですか。稼ぎにならない仕事ですよ」
連隊長は少し語気を強めた。非難めいた声音に、リュートの音が重なる。
「昔々の、そのまた昔 噂に聞ける花の都に、最初のアイリスが咲きました」
不慣れなリュートの音は大きく音程を外していた。連隊長は益々怪訝そうに眉を顰めた。
語りは続く。ペアリスにカペル王家が定着し、やがて王国が統一されたと。そして、点々と歴史を繋ぎ、リュートの音が一瞬止まった。
羊の弦が悲し気な音を奏で始める。道を素足で歩くカペル人達が立ち止まって振り返った。
懐かしい残り香 繁栄を極めたカペルの血が 遂に止まった
かの王の 悪名高きピエール王の代に
カペラの花冠を継承すべきは デフィネル家
イルカの紋のデフィネル家 麗しいミモザの花を携えて
カペラの宝冠を戴いた
王族たちの確執、正統後継者争いの内情が、滔々と綴られる。兵士達は市民の背中に銃口を突き付けて、進むようにと促す。足を止めた人ははらはらと涙を流し、その赤い踵で地面を踏んだ。
「リュカ様。演奏を止めてください。業務の邪魔になっています」
リュートの音が止まった。リュカの視線が連隊長に向かう。同志を討った仇敵の目を、同志を討った仇敵の目が捉えた。
「過ぎ去ったことを語っても、生産性はありません。王は死に、そして王国は滅びました。今生きているのは、私達だけなのですよ」
「生きてるんだよ。そこに」
リュカは顎で、連隊長の背中を示す。つられて背後を振り返ったが、そこに在るのは暗い町並みだけであった。
徐にリュートの音が響く。
草むらに這い蹲って 蠅の集る戦友と夜の地面を舐める
降り注ぐ矢の嵐は 止むことなく 無情な鉄塊を鯨が運ぶ
高く空に啼く高射砲 鉄の涙は蛇をも穿ち
降り注ぐ雨の間を 蠅を置いて匍匐する
前へ 前へ 進めと 重い小銃を担いで 西の楽園へいざ進めと
蠅は取り残される 肥えた鼠の通う草むらに
ただ、風の音が静かにそよぐ
リュートは、音を外し、突然の高音でむせたりしながら、不格好な歌に追従する。足を止めた市民に向けられた銃口が、静かに下りた。
兵士達の視線がリュカに釘付けになる。その先に立つ、瞳を震わせる連隊長の姿を認めながら。
「命の終わりは何処だ?そう聞いたら、どう答える?」
「心臓の停止、呼吸の停止、瞳孔反応の停止」
リュートの音色が街角を染めていく。時刻通りに仕事が進むのを堰き止める。
無いはずのものに釘付けになるように、人々は足を止めた。
どくどくと流れゆく溶岩流 黒い岩場を飲み込んだ
軍靴ごと焼き 骨ごと溶かし 闇の中で赤く瞬く
教会に響く祈りの声 黒い外壁にこだまする
市門を守る拒馬を凪ぎ払う 黒い鯨の影が伸びる
迫り来る真っ赤な怒りがどくどくと 神の倉へと攻め来る
憐れ、逃げ遅れた市民たち 涙を流し皆震えて 代赭に飲まれ消えていく
黒い山岳が無情にも 噴石、噴煙、溶岩流で 敵も味方もなく飲み込んだ
黒い鐘楼が虚しく鳴く 空に挽歌が 高く響いた
ペアリスの町は静けさに満たされた。白い入道雲が流れていく。留まることを知らない運命だけが、ただ、流れていくように。
その中で、人々は足を止めた。特段巧いわけでもないリュートの音を聞き、はらはらと涙を流した。あるいは、音の外れた歌声に、自らの武器を下ろした。
夏は過ぎていく。ただ、削れた家の壁にかかる影が、それを物語っている。
「そんなもので終わらないさ、終わらせはしない。お前たちのことも、俺達のことも」
リュートの音が荒々しく激しくなっていく。佳境を迎える物語を、彼は拙い声で歌い上げた。
嗚呼悲しむべきかな それは、王と都の物語
アイリスの花が咲き撓る 歴史の果ての世界樹よ
かくも雄々しく勇ましく かくも儚く美しい
私は終わる歴史を偲ぶ者 枯れゆく家族の樹を偲ぶもの
例え歴史が終わろうとも 私は歌い伝えよう
さざめくアイリスの花の都と それを守った英雄を
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