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愛され聖女は今日も図書館の中!  作者: にゃむりん
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29.口の悪さは自覚あり

 

 地域の中の診療所。そしてその様相は、この世の地獄となんとやら。

 隣で魔法使いが笑っている。

 からからと、嗚呼、何が楽しいのか、笑っている。

 右側に偏って上がった口角。下がった目じり。へたれた眦。きらりと光った眼鏡。

 長いまつ毛が影になって、モスグリーンの瞳にかかったささやかな影。


 息を大きく吐いた。肺の中にたまったものを押し出すように、長く、大きく、時間をかけて息を吐き出した。

 それから吐き出した分息を吸った。酸っぱくて苦い、脳みそを揺らしてくる匂いは、少しの遠慮もなくわたしの胃の中をかき混ぜた。

 いろんな匂いが混ざった空気は、わたしの脳をくらくらと揺らす。くらくらとする。


 嗚呼、なぜだろう。ふと、思い出した。

 いつかのわたしの話。図書館からの帰り道。広げた本に逃げ込むように、下を向いて歩いていた。遠くでいくつも声が聞こえている。きゃらきゃらと笑いながら、何種類もの声色が、わたしの隣を過ぎ去っていった。

 がちゃがちゃと騒ぐランドセル。背中の間にじっとりとした熱がたまって気持ち悪かった。

 ぐじゃりとつま先が何かを踏みつぶして、その感覚に驚いて文字から目を離した。

 熟れきって落ちてしまったのだろう柿が、わたしの靴の下でアスファルトにこびりついていた。茶色く色を増したそれは、熟れていて、重く、甘ったるい。見ているだけで苦しくなった。

 靴が汚れてしまったな、そんなことが悲しかったのを覚えている。


 ちくしょうめ。あんまり綺麗でない言葉を、心の中で呟いた。

 わたしは、顔を上げた。

 右足と左足を交互に前に動かして、奥に突き進んでいく。呆気にとられた魔法使いは入り口に置いていく。

 ぐじゃりとつま先が悲鳴を上げた。何を踏んだのかは見たくもなかった。

 粘つく足裏の感覚が後ろ髪を引く。気持ちが悪い。気持ちが悪い。

 うめき声と、淫猥淫蕩な水音と、ぽかんと口を開けた看護師らしき人物が落とした水差しが床にぶつかる金属音。けたたましい音がきんきんと鼓膜を揺らした。


 衛生観念は最低通り越して最悪だ。

 通気性が悪い。窓が少なく、空気が淀んでいる。トイレや手洗い場などは、筆舌にし難い有様であり、あまりの状況に虚弱なわたしは、ミーミル様に頂いたお茶の幾分かを戻してしまった。

 そもそも部屋が色々なもので汚れていて汚い。シーツや包帯ですら使いまわしているのだろうか。

 食事も何を出しているのやら。花売りが我が物顔で闊歩するのもどうにかせねばなるまいて。


 中を一通り見て戻ると、稀代の魔法使い様はまだ入り口に突っ立ったままでいらっしゃった。


「ひとしきり内装と水回りを確認してまいりました。ここは、下水道関係は整備されているのですね、安心しました」


 この診療所、ひいてはこの世界の建物は、どうやら汚水関係はある程度整備されているようだった。

 よかった、と内心で胸をなでおろす。中世西欧に基づいて、窓から投げ捨てているような状況だったらどうしようかと思った。人生初のハイヒールが、起源に基づいてだなんて、それはちょっと女子として悲しすぎる。

 阿呆な顔してわたしを見つめている魔法使い様に、笑顔のひとつを捧げて見せた。


 ぽかんと目を丸くしている彼に、とびきり素敵に笑って見せる。

 僕らを救ってくれるんでしょう、だなんて世迷いごとを。

 嗚呼、何がどうして、彼は笑っていたのだろう。

 右側に偏って上がった口角。下がった目じり。へたれた眦。きらりと光った眼鏡。

 長いまつ毛が影になって、モスグリーンの瞳にかかったささやかな影。

 自然な人間の表情には、状態の同時性と、左右対称性が存在する。そのどちらかしかないのならば、愛想笑いのように、意図的に作り出された表情として分類される。

 つまるところ。


「へったくそ」


 今度は心で留めてやらない。あんまり綺麗でない言葉を吐き出した。

 戻した為に、言葉には酸のにおいが染みついていたが、もともとわたしは毒しか吐かない女であった。


 彼の唇が動く。何か言葉を吐き出す前に、その動きを指先一つでいさめてやった。


「一日下さい。そう、ええ、一日」


 そう吐き出して、わたしは踵を返した。

 そんなに泣きそうに笑うなら、いっそ泣いてしまえば可愛げもあるのに。



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