【06】
二週間が経った。
「ルぅルっ!」
放課後の教室でいそいそ帰り支度をしていたルルの背中を、ぽんっ、と勢いよく叩いたのは、同級生の国広樹里だった。ルルよりも高い身長とスポーティな髪型のために男の子っぽくもある樹里だが、浮かべた屈託のない笑みは時々、どの女の子よりも愛らしく見えるときがある。
「帰りにどっか寄ろうぜぃ」
「あれ、今日部活じゃないんだ」
樹里が肩から提げられたエナメルバッグを見ながらルルは意外そうに言った。
「いやぁ、練習場所が埋まっちゃってね。教会の用事で体育館も使うんだとさ。それならそうと最初から言っとけっての」
樹里は口を尖らせる。ルルたちが通うこの学校はミッション系の女子校であり、併設された教会の用事で学校の施設が使われる場合には当然それが優先される。しかし無名の弱小に過ぎなかったこの学校のバスケ部が県大会でベスト16位にまでのし上がったのは樹里を含む今の二年生が入学してきてからのことであり、樹里たちバスケ部としては、今の勢いを削がれることは痛手なのだろう。
不満だらけの樹里の心中を推し量って、ルルは同情してみせる。
「シスターの言うことじゃしかたないよね」
「ま、場所が無くても適当な場所で自主連すりゃいいだけの話なんだけどさ。でもそのまえに、久しぶりに愚痴に付き合ってくれないかなーって思ってね。大会も終わってるのにルルとなかなか話せなかったし」
あれこれ理由を付けることなくストレートに言ってくるのがこの樹里という娘だ。女子校だというのに入学初日から今に至るまで樹里を慕う生徒が多いのは、彼女のそう言う性格にも理由があるのだろう。
「あー……ごめん」
しかしルルは心底すまなさそうに肩を竦めた。
「これから行かなきゃならないところがあって」
「んん? 今日って病院行く日だっけ?」
今度は樹里が意外そうな顔をする。ルルは首を振り、
「ううん、病院にはこないだ行ってきたんだけどさ、」
そこまで言いかけたとき、樹里はルルの言葉を遮った。
「あんたまさか……あたしの知らないイケメンといつの間にかお付き合いを……!?」
「え、いやそんなんじゃ」
「ぎゃーそうなんだーやっぱりそうなんだーエロスなんだー愛憎まみれの爛れた汗を流すつもりなんだーこんちくしょー! あたしはこうして清く美しい青春の汗を流しているというのにぃ!」
「んなわけないでしょ」
ルルは苦笑する。
「なんの話?」
樹里の騒ぎを聞きつけて近づいてきたのは佳子那だった。樹里は佳子那に気付くと彼女の脇に両手を差し込んで、『たかいたかい』をするようにそのままひょいと抱え上げた。
「うわぁなにすんの樹里!?」
「佳子那ぁ! ルルに振られたぁ! 浮気されたぁ!」
「あー、ほらほら泣かないの。愚痴なら私が聞いてあげるからねー」
「慰謝料―、慰謝料をとるー!」
「はいはい、賠償金もがっぽがっぽですよー」
まるで子供をあやすように樹里の頭を撫でる佳子那であったが、ルル以上に身長がある樹里に抱えられている姿は子供がだっこされているようにしかみえない。きゃいきゃいとはしゃぐ二人に釣られて笑っていたルルは、ふと思い出したように教室の時計を見ると、慌てて立ち上がり、
「――ごめんね樹里、誘ってくれたのに」
「んぁ? ああ、いいのいいの。また今度行こうぜい」
ルルは席を立ち、ひらひらと手を振る二人に背を向けた。
不意に佳子那が、「ルル、」と呼び止めた。
「いってらっしゃい」
振り返ったルルは、どこか安堵するような表情で佳子那に答えた。
「――うん」
後ろ姿を見送った樹里は、佳子那を床に下ろしながら、「佳子那ぁ」と尋ねかけた。
「ルル、ワケあり?」
「ワケありなのは前からでしょ」
「じゃあ何があったの?」
「んー、それは……………………知りたい?」
「なんだよ」
「樹里にも分かるように言うとだねぇ……」
もったいぶってみせた佳子那は、にかっと得意げな笑顔を浮かべ、その横にピースサインを添えた。
「私の新作が大活躍したってところかなぁ」
「なんだよそれ」
その言葉にも、樹里はいまいち釈然としないようすだったが、元々深く考えることをしない性質の樹里はこれ以上考えても自分には理解できないと判断するや、もとの底抜けな笑顔に戻り、
「ま、アイツが元気ならいっか」
と、これから何処へ行くかを佳子那と相談し始めたのだった。
七月十五日の空は相変わらず、粘りつくような雨だった。ぼたぼたと音を立て時折ガラスに吹き付ける。葉脈のような透明な軌跡が絶え間なく脈打ち、梅雨の終わりが近いことを告げていた。
*
葛根凛、というのがその女性の名前だった。年齢を聞いたことはないが、全身に纏う落ち着いた雰囲気が大人びて見えるだけで、おそらくルルとさほど変わらないだろう。骨董屋を営んでおり、階段の上に掛けられた看板の『Memento』という文字は、その店の名前らしい――というようなことをルルが知ったのは、彼女がエルシィを追いかけてきたあの日のことだった。
だが、名前を聞いてもルルには俄には信じられなかった。それは凛と名乗るこの女性が、あまりにも杏紗に似ていたからだ。顔立ちは言うまでもなく、柔らかな物腰や細い指先の動き、すらりとしたシルエット、横顔、声色。違うと言えば髪の長さくらいで、真っ直ぐな黒髪がすとんと腰まで落ちているのだが、しかしそのことも「一年の間に伸びたのだ」と言張ってしまえばそのように見えるので、それがルルの困惑の元となっていた。まるで杏紗が生きていて、一年越しにひょっこりと顔を覗かせたかのような錯覚に、ルルは囚われていたのだった。
店の奥からタオルを持ってきてくれた凛と、何を話したのかは今でも思い出せない。それからしばらくあの店にいたはずだったのだが、我に返った頃には熱っぽさを覚えながらマンションに帰っている道すがらだった。
熱っぽさは夜中まで続いた。最初は凛とであったショックによるものだと思っていたが、どうやら本当に風邪を引いていたらしい。濡れた服のまま冷房の利いた店に留まっていたのがまずかったようだ。自室のベッドで熱に浮かされながら、ルルは凛の事ばかり考えていた。
偶然だろうか。
最初に疑ったのは、これは佳子那の差し金ではないだろうかということだった。
十分にあり得る話だ。エルシィの制作者は佳子那であり、それをルルに託したのも佳子那だ。エルシィがルルの私秘層を飛び出して暴走したことも、その先で出会った人物が凛の生き写しだったことも、全て仕組まれていたとしか考えられなかったのだ。あの凛という女性と佳子那とがあらかじめ示し合わせて、自分をからかっているのではないだろうか……偶然にしてはあまりにできすぎていて、佳子那がそんなことをする理由など、二の次だった。
確認せずにはいられなかった。
だが、佳子那に連絡しようとしても、ボイスチャットの回線は閉じられていた。翌日学校を休んだルルは、その明くる日、普段よりも早く学校に出向き、登校してきた佳子那に開口一番問い詰めた。
「じゃあ、今回の発明はばっちり機能したみたいね」
だが、一連の顛末を聞き終えた佳子那はパッと明るい笑顔でそう応えるだけだった。
「ふざけないで」
ルルは詰め寄ったが、佳子那はちょっとだけ真剣な顔になり、
「私はエルシィが何処に行くかなんて知らなかったし、直接指示もしてない。なんならソースコード見せてあげるよ。あの子は本当に『ルルが無意識に行きたがっていた、行ったことのない場所』に案内するために動いていただけなの」
それでもルルの疑いは晴れなかった。放課後、佳子那を連れ立ってルルがmementoを訪れたのは、何の連絡も為しに佳子那と凛とを引き合わせれば、何かボロを出すのではないかと思ってのことだった。
しかし凛は、佳子那の姿に動揺する素振りも無く、
「あら、今日は友達連れ?」
そう尋ねてきた。
「知り合いじゃないんですか?」
「え? ええ、その筈だけど……それとも、どこかでお会いしたかしら?」
様子からして、本当の事らしい。
だとすれば、可能性はもう一つある。佳子那があらかじめ杏紗にそっくりな凛の存在を知っていて、自分の作ったエルシィを使ってルルを凛の元に誘導していたのではないか。ルルは隣にいた佳子那の顔をのぞき見た。
だが、言葉にならない声を漏らし、僅かに涙ぐむ佳子那の横顔に、それまでの疑念は一瞬にして消え去ったのだった。
帰り道、佳子那はどこか上機嫌だった。
「ほんとに、初対面だったんだね。佳子那」
「信じてもらえた?」
「うん」
ルルは頷いた。佳子那は小雨の中で傘を翻しながら、やはり嬉しそうに続ける。
「でも、ホントにそっくりだったね。あの人」
「うん……そうだね、なんか、懐かしいって言うか」
いつもは耳障りなばかりの雨音が、その日に限ってとても優しく、ルルの耳朶を打っていた。
「――高校に入学してすぐの頃に、杏紗と佳子那と私と、三人でいること多かったじゃん。なんていうか、あのときのこと思い出してさ」
ルルはそう言って口を噤んだ。もしかすると、あの短かった幸せな日々の続きを送れるのではないかとさえ思えたのだ。
「佳子那の発明も、たまには役に立つんだね」
「うん、ありがと。でもね、ルル」
頷いた佳子那は急に真面目なトーンになった。
「忘れないでね。あの人は杏紗じゃないよ」
「……分かってるよ、そんなこと」
佳子那の忠告に痛いところを突かれ、ルルは虚勢を張った。