【02】
二人はその後もとりとめのない雑談ばかり交わしていたが、佳子那が先に席を立った。
「エルシィを使ってみた感想は、明日でいいよん。暗くならないうちに帰るんだよ、ルル」
自身こそ小学生に間違われそうな背格好の佳子那はそんな言葉を残して店を出た。その後ろ姿をテーブルから見送ったルルも、氷が溶け出して薄くなったフラペチーノを一気に飲み干すと、エルシィを連れて席を立った。
通りに出たルルが初めにしたことは、エルシィの投影深度を私秘層に限定することだった。交通量の多い場所や人通りの多い場所では、この手の自立型投影体を公共層に投影することは禁止されている。エルシィが投影されている層は佳子那との共有層だったが、
(ま、念のためにね)
と、私秘層に投影し直した。
こうして、無数の人が行き交うこの広い街で、エルシィを見ることができるのはルル一人だけとなった。
「……それで、どこに連れてってくれるの?」
自分の肩に乗ったウサギに、ルルは耳打ちするように話しかけた。
エルシィは考え事をするように空を見上げた。たっぷり五秒ほど経ったころ、はたと何かを思いだしたように耳をぴくりと動かし、肩に掛けていた大きな時計を難儀そうに抱え上げ、それを覗き込んだ。
文字盤に数字はない。ルルが横から覗き込むと、矢印みたいな長針と短針がでたらめな向きと速度でぐるぐると回転していた。針はルーレットのように徐々に失速してゆき、二つの針が重なったところでその動きを止めたとき、エルシィはルルの肩から飛び降りた。
行き先が決まったらしい。
(時計じゃなくて方位磁針なんだ)
と、エルシィにツッコんだところで仕方がない。人混みの中を駆けだした白ウサギの後をルルは追った。
普通のウサギならいざ知らず、二足歩行のウサギが駆ける速さは、ルルが歩く速度と同じだった。おそらく、ルルの歩調に合わせてくれているのだろう。エルシィは振り返りこそしないが、ルルが見失うことのないように距離を保ち続けている。
曇り空に覆われ周囲は暗いが、夏至から間もない七月の初日、暗くなるまでまだまだ時間はある。ルルはただ黙々と、エルシィの小さな背中を追った。
(……とはいってもねぇ)
歩いているだけで、道沿いに立ち並ぶ店に結わえ付けられた無数の広告や、飲食店のレビューが、ディスプレイの中に浮上する。人と物、そこに拡張現実の層が幾重にも折り重なる灰色の街並みは、この世界の日常そのものだ。非日常の欠片も見あたらない街で、このウサギは自分を何処に連れて行くつもりなのだろうかと、ルルは半信半疑である。
(まあ、佳子那が作ったものだから、変な心配は無いんだけど)
エルシィは都道沿いに歩道を行き、かとおもえば突然細い路地に吸い込まれ、連日の雨で濡れた水はけの悪い道を急ぎ足で掛けて行く。
もう何度目とも分からない曲がり角を曲がったとき、エルシィが立ち止まり、振り返った。
「ここ?」
ルルの問いかけに、エルシィは、「そうだけど、それが何か?」とばかりのすまし顔を寄越した。
ルルは怪訝そうに眉を顰めた。
そこは、何の変哲もない公園だった。しかもこの公園は、もうずっと前からルルの知っている場所だ。
「……ねえ、あんたってどんなアプリだっけ?」
佳子那から聞いた説明を忘れたわけではなかったが、訊かずにはいられない。確認のために尋ねたルルに対し、エルシィはジャケットの懐から名刺サイズの紙切れを取り出し、プラカードのように頭上に掲げてみせた。『Read Me』と記されているそれは、どうやら説明書らしい。
「『あなたの行ったことのない、無意識に行きたがってる場所へとご案内します』」
ルルが音読すると、エルシィは掲げていた説明書きをぽいと投げ捨て、誇らしげに胸を張った。ここがエルシィの目的地であることに間違いはないらしい。
「……悪いんだけどさ、あたし、この公園何度も来たことあるんだよね。ここに来たかったって訳でもないし」
――なんと!
エルシィはオーバーなリアクションで驚いてみせると、何とも困ったように耳を伏せ頭を抱え、どうしたモノかと再び空を見上げた。考え込んだ末、やっぱり五秒ぐらい経って、エルシィは懐中時計を覗き込んだ。
針の動きが止まって、エルシィは元来た道を戻り始めた。
「気を取り直してってこと? ま、いいけど」
ルルは黙って、ウサギの後についてゆく。
次に辿り着いたのは、細い路地の行き止まりだった。ビルに三方を塞がれた行き止まりの奥には稲荷の祀られた朱色の祠があって、エルシィはその傍でルルの顔を見上げた。
「……ごめん、ここも知ってる。前はよく通りがかったんだ。このルート、駅までの近道だから」
そもそもこの近辺でルルが見知らぬ場所は無いと言っていい。何しろルルの自宅はここの近所にあり、大体の道は知り尽くしている。
苦笑するルルにエルシィはきょとんとしていたが、まもなく言葉の意味を理解し、がっくりと項垂れた。意気消沈する白ウサギの姿がいたたまれず、慰めの言葉がルルの口をついて出た。
「ほ、ほら。佳子那ってあんたみたいな投影体作るのは初めてみたいだしさ。慣れないもの作って失敗しちゃったのかも……」
そう言いながらルルは、しまった、と表情を硬くする。これではエルシィに「お前は失敗作だ」と面と向かって言っているようなものだ。しかし肝心のエルシィはと言えば大して気にする様子もない。かといって、ルルに対し何らかの反応を示すわけでもなく、時計を覗き込んで次の目的地を決めると、またひょこひょこと駆けだした。
その後もエルシィによる道案内は続いたが、古本屋が建ち並ぶ通りとか、何の変哲もない商店街の入り口とか、どこも来たことのある場所ばかりだった。あまりに見知った光景が続くので、エルシィの進むルートから、次はあそこかな、などと予想を立ててみたりする。
(知ってるところばかり……最近では、滅多に通らなくなった場所ばかりだけど……でも、どうして?)
考えて、思い至る。エルシィに連れられてゆくところはすべて、そこに行くための理由が無くなってしまった場所、そこに行くための純粋な動機が失われている場所ばかりなのだ。
(……だって、この道は……)
エルシィが唐突に立ち止まった。が、目的地に付いたわけではなかった。彼は後ろを振り返ると、自分より先に足を止めてしまった飼い主をじっと観察していた。
何をしているんだろう。と彼が首を傾げたとき、雨粒が鼻先を透過して、エルシィは驚いたように空を見上げた。
ウサギよりも一拍遅れて、ルルも頬に雨粒が当たるのを感じる。
そこでようやく彼女は、自分が傘をどこかに置き忘れてしまったことに気が付いた。