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第1話 最強、だから売れ残る


金曜の夜の居酒屋は、生き物の腹の中みたいだった。


煮込みと焦げた串の脂、誰かのレモンサワー、奥の喫煙ブースから流れてくる煙草の残り香。それらが換気の追いつかない空気の中で混ざり合って、ぬるく重い。店じゅうの話し声が一枚の壁になって押し寄せ、有線のJ-POPは半分も聞き取れない。グラスの触れ合う音、店員の通る声、栓を抜く乾いた破裂音。耳が、もう個々の音を拾うのをあきらめている。


その喧騒のいちばん奥、靴を脱いで上がる座敷の一角に、三人はいた。


ひまり。鏡花。るる。

三人は魔法少女だった。そして三人ともアラサーだった。


四人掛けの座卓に三人。座布団がひとつ余って、そこに鏡花の黒いジャケットが几帳面に畳んで置かれている。

卓の上はすでに賑やかだ。突き出しの小鉢、空になった枝豆の殻入れ、半分残った刺身の盛り合わせ、油の浮いた唐揚げの皿。生ビールが二つ、烏龍ハイがひとつ、それから手のつけられていない冷やの徳利。


「で、今月の戦績は?」


ひまりがジョッキを両手で持ち上げた。

中身はもう三分の一を切っている。両手で抱えると、ジョッキの縁が鼻の下まで来て、顔の半分が泡の向こうに隠れた。身長140cm。見た目的に完全に小学生の飲酒である。本人は至って真剣に飲んでいるのだが、絵面はどうしようもない。テーブルに肘をつき、身を乗り出して、座布団の上で胡座をかいている。膝が完全に崩れていた。


「婚活の話ね? 戦闘じゃなくて」


るるが枝豆をつまみながら確認した。彼女はひまりの隣で、足を横に流して座っている。空いた殻を、無意識に殻入れの隅へ寄せながら。


「戦闘は今日三件片づけたでしょ。そっちはいいの」


今日の戦果のことは、もう思い出すのにも飽きている。

品川沖から噴き上がった海竜は、湾岸の高層ビルより高く首をもたげた。渋谷のスクランブル交差点に裂けた次元の亀裂からは、人の悲鳴と一緒に冷たい風が吹き出していた。お台場の観覧車の根本に生えた巨大キノコは、胞子を撒く前にひまりが踵で踏み潰した。三件まとめて、討伐時間は十四秒。たぶん自己ベストだ。


でも、その記録更新の手応えより、いま手の中で汗をかいているこの一杯目のほうが、ひまりにはずっと尊い。

世界を救ったという実感は、ここ数年は、戦闘が終わった瞬間から指の間をすり抜けて消えていく。

残るのは耳鳴りと、変身を解いたあとの気だるい疲れと、髪の先にこびりついた潮と硝煙の匂いだけ。来る前にシャワーは浴びたのに、まだどこかに非日常の残り香がする気がする。


この席で求められているのは恋愛の進捗報告であり、人類防衛の成果ではない。怪獣を倒せば世界が救われる。負ければ世界が危機に陥る。婚活に負けても誰も傷つかない。自分以外は。


「はい、じゃあ、鏡花ちゃんから」


ひまりが向かいの席に目を向けた。


氷室鏡花。

背筋を一本通したまま、座布団の上に正座している。崩さない。三十分前からこの姿勢のままだ。白いシャツの袖を二つ折りにして、銀色の髪をひとつに結んだ横顔は、抜き身の名刀をそのまま座敷に置いたような、ひやりとした美しさがある美人だ。

近くにいるだけで、なんとなくこの一角だけ室温が二度低い気がする。実際、隣の卓のサラリーマンの集団が、さっきから何度も鏡花のほうを盗み見ては、目が合いそうになると慌てて視線を逸らしている。


「辞退された」


一言だった。鏡花の報告はいつも、斬り口のように短い。手元の烏龍ハイには、まだほとんど口をつけていない。


「何分、もったの?」

「五分」

「先月より一分伸びてる。成長だね」


ひまりが片手で拍手した。もう片方の手はジョッキを離さない。

るるも、おしぼりを持ったまま拍手した。

鏡花は無表情のまま、卓の上の枝豆をひとつ取って口に入れた。褒められているのか慰められているのか、本人もたぶん判断していない。さやを、空いた殻入れにそっと置く。その所作だけは妙に上品だった。


「えーと、何がまずかったの?」


るるがそっと聞く。聖母のような、すべてを浄化する笑顔。ひまりと鏡花のちょうど中間、百五十六センチの柔らかな背丈に、世界のすべてを赦してしまいそうな温度をまとっている。

前かがみになった拍子に、たわわな胸元がたいへんなことになっているが、本人はまったく気にしていない。向かいの卓のサラリーマンたちの視線が、今度はそちらに吸い寄せられていることにも気づいていない。気づかないからこそ、罪が深い。


「趣味を聞かれた」

「うん」

「刃物の手入れと答えた」

「うん?」

「相手の顔から血の気が引いた」

「だよね」


るるが枝豆を食べた。

ひまりが天を仰いだ。脂で薄く曇った蛍光灯が、まっすぐ目に刺さる。仰いだ先の天井に、答えはない。


「鏡花ちゃんさあ、前にも言ったけど刃物の手入れは一般の人には通じないから。せめて料理って言って。包丁も刃物でしょ」

「嘘は吐けない」

「嘘じゃないよ拡大解釈だよ」

「料理はしない。刃物は研ぐ。別の行為だ」


鏡花が烏龍ハイのストローを軽く噛んだ。氷が、からん、と小さく鳴った。

反論の余地がないほど正しく、そして婚活には致命的に向いていない。正論で人を斬る技術は、三人の中で群を抜いている。


「好きなタイプも聞かれた」

「何て答えたの?」

「命令を聞く人間」


ひまりがジョッキを静かにテーブルに置いた。

木の天板に、こつ、と底が触れる音。周りの喧騒に紛れるはずのその音が、この一角ではやけに大きく響いた気がした。


「それ部下のことだよね?」

「そうだが」

「相手にはどう聞こえると思う?」

「支配的な人間に聞こえる、と今わかった」


鏡花の耳が、髪の生え際のあたりからじわりと赤くなった。

普段は氷点下の表情を崩さないこの女が、こういう時だけ人間の温度を取り戻す。ひまりはそれを見ると、少しだけ救われる。最強の仲間が完璧じゃないとわかると、自分の不出来も許せる気がするから。鏡花は赤くなった耳を隠すように、烏龍ハイをひとくち飲んだ。今夜はじめての、まともなひとくちだった。


「はい次。るるさんは?」


ひまりがビールをぐいっとあおった。一杯目の最後のひと口で、泡が口の端についた。

通りかかった若い店員が、心配そうにこちらを一瞥していく。たぶん未成年の飲酒に見えているのだろう。ひまりはかなり若く見える。むしろ幼く見える。だが二十九歳である。財布の中の免許証を取り出して証明する気力は、いつも三杯目あたりでどこかへ消えてしまう。


「私はね、今月二人会えたの」


るるがニコニコ笑った。会えた、というその一事だけで、彼女は無条件に嬉しそうだった。両手を膝の上で重ねて、背すじをほんの少し伸ばして。


「おっ」

「一人目の男の子、すごくいい子でね」

「うんうん」

「三回目のデートで泣いちゃって」

「感動して?」

「ううん。るるさんといると安心しすぎて、お母さんに会いたくなっちゃいましたって……ほんとに田舎に帰っちゃった」


沈黙が降りた。

店の喧騒は変わらず続いているのに、この座卓の上だけ、急に音が抜けたみたいになる。枝豆の皿の上で、三人の箸がそろって止まっていた。隣の卓の笑い声が、やけに遠くで聞こえる。


「え、えーと、二人目は?」

「二回目のデートで『僕のこと、叱ってくれますか』って聞いてきたから、これはちょっと違うなって」

「違うね」

「方向性がね」


ひまりが遠い目をした。曇った蛍光灯の光の向こう、遠い目の先にも、やっぱり答えはない。

鏡花が、珍しく自分から口を開いた。


「るるは世話を焼きすぎる」

「え、そんなことないよぉ?」


言いながら、るるは、鏡花の前の空いた小皿を片づけ、新しいおしぼりを袋から出して広げ、卓に散った水滴を自分のハンカチで拭いていた。一連の動きに、無駄がない。迷いがない。


「今の十秒間に三回やった」

「うん。息をするように甘やかすね」


鏡花の指摘に、ひまりが思わず吹き出した。口の中のビールを噴かなかったのが奇跡だった。

るるが、自分の手元を見て、ハンカチを握ったまま固まった。自覚のない優しさほど、たちが悪い。


冷やの徳利が空になり、二本目が運ばれてくる。

唐揚げの皿が下げられ、代わりに湯気の立つ出汁巻きと、焼き鳥の盛り合わせが置かれる。タレの焦げた甘い匂いが、卓の上の空気を一瞬塗り替えた。ビールのジョッキが二度替わり、るるの烏龍茶のグラスにも氷が足され、鏡花は徳利からおちょこに一杯だけ、自分のために注いだ。


時間とともに、座敷の声は少しずつ大きくなっていく。

ひまりの頬は赤い。胡座はもうほとんど寝転がる寸前まで崩れている。

るるの語尾は最初より一拍のびて、丸くなった。

鏡花だけが背筋を保っているが、よく見ると、結んだ髪が少しだけ斜めにずれている。


歴代最強の魔法少女三人組が、金曜の居酒屋の座敷で足を崩して、婚活の傷を舐め合っている。傷の数だけ、卓の上の皿が増えていく。


今日倒した三体の怪獣より、婚活の方がずっと手強い。

怪獣は、殴れば終わる。

男は、殴ったら終わる。

似ているようで、終わったあとの後始末がまるで違う。


「私たちってさ」


ひまりが、空になったジョッキの表面を指でなぞった。結露がひと筋、指の腹を伝って、手首のほうへ落ちていく。冷たい。


「いつまで……やるのかな?」


鏡花が、おちょこから口を離した。

るるが、焼き鳥に伸ばしかけた手を止めた。


「「婚活を? 魔法少女を?」」


二人の声が、きれいに重なった。


ひまり自身、自分がどっちの意味で言ったのか、よくわからなかった。たぶん、両方だ。

始めたときは、こんなに長く続けることになるとは思っていなかった。

十代だった。世界を守ることも、好きな人と手をつなぐことも、どちらも当たり前にできると思っていた。


「普通の女の子に戻りたいな」


喧騒の壁の隙間に、ぽつりと落ちたその言葉に、誰も笑わなかった。

鏡花が、おちょこの残りを一息に飲み干した。

るるが、何も言わずに、ひまりの背中に手を回してそっと撫でた。手のひらが温かい。

言ってしまってから、ひまりは、空になったジョッキの結露が、いつのまにか自分の指をすっかり冷たく濡らしているのに気づいた。手のひらの温かさと、指先の冷たさが、同時にあった。


スマホが、卓の隅で光った。


画面に通知。マッチングアプリのアイコン。


『ひまりさんに「いいね」が届きました。』


ひまりは濡れた指をジーンズで拭ってから、スマホを取った。

プロフィール写真は、柔らかく笑う男だった。カフェの窓際らしい、自然光の入る場所で撮られた一枚。職業、フリーライター。三十二歳。趣味、カフェ巡りと読書。


普通に優しそうで、普通に清潔感があって、普通にまともな人間に見える。

それが、この三人にとって、どれほど珍しいことか。


あまりにも好条件だった。好条件すぎて、かえって指が動かない。


メッセージが添えられている。


『プロフィール読みました。あなたに会ってみたいです。』


ひまりの心臓が、ひとつ跳ねた。

何百回と裏切られてきたはずの期待が、それでもまた、胸の底からそっと顔を出す。


「ちょっと、これ見て」


スマホを差し出すひまりの手が、わずかに震えていた。

今日、品川沖で十数メートルの海竜を相手にしても震えなかったその手が、たった一枚の画面の前で震えている。


鏡花が、無言で画面を覗き込む。銀色の髪が、ひまりの肩先にかかった。

るるが、反対側から身を乗り出す。


「顔は、まあ悪くない」


鏡花の「悪くない」は、最上級の褒め言葉である。長い付き合いの二人には、その温度がちゃんと伝わる。


「ひまりちゃん、返事しなよ」


るるが両手を胸の前で合わせて、目を輝かせた。


ひまりは、画面を見つめたまま唇を噛んだ。

期待していいのだろうか。会ってみて、また実物と写真が違うと言われるのだろうか。また年齢確認のところで引っかかって、また十代に間違われるのだろうか。

指先で何度も裏切られてきた予感が、けれど今夜だけは、ほんの少しだけ違う気もする。


でも。


「うん。返事、してみる」


小さく笑ったひまりの指先が、震えを抑えて、画面をタップした。

送信まで、たった一秒。世界を救うより、ずっと勇気が要る一秒だった。


座敷の窓の外で、東京の夜景が光っている。

無数の窓明かりの、そのひとつひとつに、誰かの普通の暮らしがある。

今日も、世界は守られた。

守った本人たちの恋愛事情だけが、壊滅的に守られていない。


ひまりのスマホの中で、フリーライター白城誠のプロフィール画像が、静かに笑っている。

柔らかな自然光の中、その瞳がカメラの向こうの何を見ているのか――まだ、誰も知らない。

気づいたときには、たぶん、もう手遅れになっている。

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