第1話 目が覚めたら、森だった
――痛い。
それが、最後に覚えている感覚だった。
耳をつんざくようなブレーキ音。
誰かの悲鳴。
視界いっぱいに迫る、大きな車体。
そして。
身体の中まで砕かれたような、強烈な衝撃。
そこから先の記憶はない。
だから――。
「……眩しい」
次に意識が戻った時。
最初に感じたのは、閉じた瞼の向こうから差し込んでくる柔らかな光だった。
ゆっくりと目を開く。
「…………木?」
白い病院の天井ではない。
視界いっぱいに広がっていたのは、幾重にも重なる枝と葉だった。
その隙間から青い空が見える。
風が吹く。
ざわざわと木々が揺れ、細かな木漏れ日が地面の上を踊った。
鼻をくすぐる湿った土と草の匂い。
どこか遠くから聞こえてくる、知らない鳥の鳴き声。
「……どこだ、ここ」
地面に寝転がったまま呟き、上半身を起こそうとして――。
「……え?」
俺は、その姿勢のまま止まった。
起きられた。
両腕で身体を支え、ごく普通に上半身を起こせた。
ただ、それだけ。
他の誰かにとっては何でもない動作だろう。
だが俺は、しばらく何もできなかった。
「…………」
胸に手を当てる。
苦しくない。
息も乱れていない。
いつものような身体の重さもない。
恐る恐る、両脚に力を入れてみる。
そのまま立ち上がった。
「……立てた」
ふらつかない。
目眩もしない。
膝から力が抜けることもない。
むしろ――。
「身体……軽いな」
自分の身体なのに、自分のものではないような奇妙な感覚。
そこで初めて、俺は両手を見た。
「……なんだ、これ」
見覚えのない手だった。
以前の俺の手はもっと細かった。
血色が悪く、血管が浮いていて、少し無理をするだけで震えた。
今、目の前にある手は違う。
大きすぎるわけではない。
筋肉隆々というわけでもない。
それでも健康的な色をしていて、拳を握ればきちんと力が入る。
腕も。
脚も。
以前とは明らかに違っていた。
「…………」
試しに、大きく息を吸い込んでみる。
「すぅー……」
森の湿った空気が、肺の奥まで入ってくる。
もっと。
さらに深く。
胸いっぱいまで。
「…………は」
痛くない。
咳も出ない。
胸が締めつけられるような感覚もない。
もう一度。
深呼吸。
「はは……」
思わず笑いが漏れた。
「なんだよ、これ……」
俺は三十三歳だった。
いや。
今もそうなのかと聞かれると、もう自信がない。
ただ――少なくとも、俺が覚えている自分は三十三歳だった。
生まれつき身体が弱かった。
子供の頃から学校を休むことは珍しくない。
運動会は見学。
遠足にも参加できない年があった。
体育なんて、まともに参加した記憶の方が少ない。
大人になれば少しは丈夫になるかもしれない。
そんな期待もしていた。
けれど、残念ながら大して変わらなかった。
旅行に行ってみたい。
山に登ってみたい。
キャンプをしてみたい。
川で魚を釣ってみたい。
自分で野菜を育ててみたい。
木材を使って何か作ってみたい。
知らない土地を、自分の足で歩いてみたい。
やりたいことだけなら、いくらでもあった。
だから本を読んだ。
テレビもよく見た。
キャンプ。
登山。
農業。
DIY。
無人島で生活する番組なんかは特に好きだった。
サバイバル関係の本も、それなりに読んだ。
自分にはできないからこそ憧れた。
知識だけなら、普通の人より少しくらいはあるかもしれない。
もっとも。
実際に試した経験なんて、ほとんどないけれど。
「…………」
改めて周囲を見る。
俺が倒れていた場所だけ、少し開けていた。
大きな木が何本か倒れたことで、ぽっかりと空間ができているらしい。
その外側には、太い木々が壁のように立ち並んでいる。
森。
どこを見ても森だ。
「まさか……」
記憶をたどる。
道路。
信号。
突然聞こえたクラクション。
振り向いた時には、もう遅かった。
迫ってくる車。
衝撃。
そこから先は――ない。
「俺……死んだ?」
口にしてみる。
当然、誰も答えない。
代わりに鳥らしきものが、どこかで甲高く鳴いた。
「いやいや……」
だったら、ここはどこなんだ。
天国?
それにしては随分と普通の森だ。
地獄にも見えない。
そもそも。
「身体、若くなってないか?」
鏡がないから顔は確認できない。
けれど腕や脚を見る限り、三十三歳の身体には見えなかった。
十代後半。
多く見積もっても二十歳そこそこ。
そんなところだろうか。
「……異世界転生?」
言った瞬間、妙に恥ずかしくなった。
昔から本は好きだった。
身体が弱かったせいで、家の中で楽しめる娯楽には随分と世話になった。
だから、そういう物語ももちろん知っている。
死んで。
神様に会って。
何か凄い能力をもらって。
異世界へ。
「でも神様には会ってないよな……」
少なくとも覚えてはいない。
ステータス。
スキル。
魔法。
そんなものが頭に浮かんでくる気配もない。
「ステータス……」
何も起こらない。
「ステータスオープン」
やはり何も起こらない。
「…………」
風が吹いた。
「……何やってんだ俺」
誰も見ていなくて本当に良かった。
だが。
もし本当に、俺が一度死んで。
別の世界で、新しい身体を得たのだとしたら。
一つだけ思い当たることがあった。
車が迫った瞬間。
死ぬ。
そう思った時。
頭に浮かんだこと。
――もっと身体が丈夫だったら。
それだけだった。
もっと丈夫だったら。
もっと色々なことをやってみたかった。
もっと色々な場所へ行ってみたかった。
「……まさかな」
両手を握る。
開く。
もう一度、握る。
ちゃんと力が入る。
それだけなのに。
胸の奥が熱くなった。
気付けば、俺は開けた場所の向こうを見ていた。
「……走れるかな」
小さく呟く。
すぐに昔の感覚が蘇った。
転んだらどうしよう。
途中で苦しくなったら。
発作が出たら。
誰も助けてくれなかったら。
以前なら、それだけ考えて諦めていた。
でも今は――。
「……よし」
一歩。
地面を蹴る。
二歩。
三歩。
「お……」
走れた。
脚が前に出る。
腕を振る。
地面を蹴る。
次の一歩が出る。
「おお……!」
気付けば俺は笑っていた。
開けた場所をぐるりと回る。
大した距離じゃない。
数十メートル程度だ。
けれど。
俺にとっては、そんなことはどうでもよかった。
「はっ……はっ……!」
やがて息が切れた。
脚が重くなる。
額から汗が流れた。
それでも。
「はは……っ」
胸は痛くない。
息苦しくて倒れそうになることもない。
疲れている。
ただ、それだけだ。
身体を動かしたから疲れている。
そんな当たり前のことが。
「走れた……」
たまらなく嬉しかった。
膝に手をつき、荒くなった呼吸を整える。
汗が頬を伝って地面に落ちた。
こんなに気持ちよく汗をかいたのは、人生で初めてかもしれない。
「……すげぇな」
何が凄いのか。
自分でもよく分からない。
ただ、嬉しかった。
空を見上げる。
木々の隙間から見える空は青い。
見慣れていたはずの色。
なのに、今まで見たどんな空より綺麗に見えた。
しばらく。
本当にしばらく。
俺はその場に立ったまま、空を眺めていた。
――ぐぅぅ。
「…………」
腹の音がした。
「……腹、減ったな」
急に現実へ引き戻される。
そうだ。
ここがどこなのか。
なぜ若返っているのか。
本当に異世界なのか。
知りたいことはいくらでもある。
だが。
もう一度、周囲を見回す。
森。
森。
森。
家はない。
道路もない。
電柱もない。
人の声もしない。
当然スマートフォンもない。
財布もない。
そもそも着ている服からして見覚えのない、簡素なシャツとズボンだけだ。
「……これ、結構まずいんじゃないか?」
さっきまでの高揚感が、少しずつ冷静さに押し流されていく。
装備なし。
食料なし。
水なし。
現在地不明。
知識は多少ある。
実践経験は、ほぼゼロ。
「…………」
遠くから低い鳴き声が響いた。
聞いたことのない声だった。
思わず森の奥を見る。
「今の……なんだ?」
返事はない。
当たり前だ。
葉が揺れる音しか聞こえない。
「いや。今はいい」
何がいるのかは気になる。
ものすごく気になる。
でも興味本位で森の奥へ突っ込むほど馬鹿ではない。
少なくとも。
ここで何もせず立っていても、生きてはいけない。
昔読んだ本を思い出す。
遭難。
サバイバル。
生き延びるために必要なもの。
水。
火。
寝床。
食料。
全部必要だ。
でも、一度には無理だ。
なら――。
「まず水だな」
食べなくても、すぐ死ぬわけじゃない。
だが水はそうはいかない。
幸い。
今の俺には、歩ける脚がある。
疲れても動ける身体がある。
「よし」
大きく息を吸い込む。
森の空気が胸いっぱいに入ってくる。
やっぱり苦しくない。
自然と口元が緩んだ。
知らない場所。
知らない森。
何がいるのかも分からない。
怖くないと言えば嘘になる。
それでも。
自分の足で歩ける。
自分で探しに行ける。
前の俺なら、それすらできなかった。
「水を探そう」
そう呟いて。
俺は、生まれて初めて――。
自分の意思で、未知の森へ足を踏み出した。
第一話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
派手に駆け上がる物語ではなく、水を探し、火を起こし、少しずつ「暮らせる場所」を作っていく過程を丁寧に描いていく予定です。
次話は、主人公が初めて森の中を探索します。
続きも読んでいただけると嬉しいです。




