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【太陽と月の終わらない恋の歌 O Holy Night 16.】




 次の朝早く、マノンはポーリン夫妻の馬車に乗ってサイデン邸をあとにした。


 「さよなら」以外は一言もなく、マノンはただ静かに、姿が見えなくなるまでずっと馬車の窓越しにダヴィッドを見つめていた。切ない、少し大人びた瞳で。



 広大な屋敷に一人残されたダヴィッドは、しばらくのあいだ呆然と立ち尽くしていた。


 多大な努力の上に築きあげた豪邸が急にただの廃屋になったような気がして、どこか身体の大切な一部が失われていくような感覚がした……。翼をもがれた鳥も、きっとこんな風に感じるのではないだろうか。絶望とはまた違う、曖昧な不安、孤独、寂しさが襲ってくる。


 今だけだ、すぐに忘れる、という慰めさえも、ついに居場所を見いだすことができず、意識の中を空しく空回りしていた。


 別れ際の、マノンの瞳が脳裏に焼き付いて離れない。

 悲しみの中にも、一種のいさぎよさが彼女の瞳にはあった。女の目だ。女だけが持てる原始的な強さで、男のダヴィッドにはどう逆立ちしても手の届かないもの。


(ほら、見ろよ)

 ダヴィッドは苦い想いのなか、自嘲した。


(結局、苦しむのは俺の方なんだ……)


 その夜、ルザーンの街はふたたび彼らの英雄を見た。


 とある工場主の屋敷に押し入った『黒の怪盗』は、金庫にあった売上金の半分を盗むと、その工場の労働者たちが押し込められていたスラムのような小屋群に、金を残していったとか……。


 これが、『黒の怪盗』を黒の怪盗たらしめる理由の一つだった。

 彼はいつでも、ターゲットとする相手にもいくつかの道を残した。まず殺しは絶対にしなかったし、金品を盗む場合でも、相手の全財産を根こそぎ奪うということは滅多にしなかった。

 彼はただ正義を探しているのであって、誰かを破滅させるために暗躍しているわけではないのだ。時々結果的にそうなることはあっても、それは間違いなく因果応報な連中だけだった。


 ある者にとって『黒の怪盗』は英雄であり、またある者にとっては嫌悪の対象だった。


 それでも、彼らの思いの底辺にはいつも、『黒の怪盗』にたいする奇妙な理解がある。『黒の怪盗』はルザーンの申し子だ、と。


 栄華と貧困が入りまじる大陸の要──ルザーンという街だけが持てる、光と影の化身。

 人々は知らず知らずのうちに、彼の本質を理解しているのかもしれない。


 彼は盗みたいのではない。

 彼は──。




 風がまったくない夜というのは、なぜかいつもダヴィッドを落ち着かない気分にさせた。


 いつもなら夜風に揺れて踊っている背の高い杉の木が、死んだように静止していて、まるで意思を持って動かないでいるように見える。


 ダヴィッドは杉林を見上げながら、黒いマスクの下に滲む汗が冷えるのを感じた。


 いつも馬を隠しておく寂れた教会の裏に辿り着いたダヴィッドは、木の幹にかけておいた手綱を外し、颯爽と馬に飛び乗った。小さなひと気のないこの教会も、聖誕祭を目前にした今、誰が置いたのか質素なリース飾りが入り口に掲げられている。


 マノンと出逢ったのもこの近くだった。


 つい今朝別れたばかりだというのに、もう何年も過ぎてしまったような気がする。刻一刻と、時が刻まれるにつれ胸の痛みは増すばかりで、忘れるなど問題外でしかなかった。


 今夜、ダヴィッドはマノンを拾って以来初めて、『黒の怪盗』として夜を駆けた。これで乾きは癒されるはずだった。これで以前と同じに戻るはずだった。しかし実際はどうだ。ただ息苦しいだけ……。

 マスクで顔を隠し、マントを付けたまま、ダヴィッドはしばらく馬上で背筋を高く伸ばしたまま動かずにいた。


 馬鹿なことをした。


 そうだろう、せっかく天使を見つけたというのに。おまけに彼女から手を差し伸べてくれていたというのに、自らその手をはねつけたのだ。彼女が幼すぎるという理由で。


 夜風は相変わらず吹いてくれなかった。

 すべての夜景が静止しているように見える。ダヴィッドが取り返しのつかないことをしたのを、責めるように。

 ダヴィッドが手綱を強く握ると、ぎりっという乾いた音が響いた。


 空気が冷たい……雪になりそうな夜だ。

 顔を上げる。その瞬間、ダヴィッドは心に絡まっていた鉄の鎖が音を立てて切れるのを感じた。


 ──彼女を取り戻そう。


 運命の前に膝を折れ。逆らうんじゃない……この想いを否定するな。

 ──彼女を取り戻そう。




 ダヴィッドが屋敷に戻ったとき、それは今までの彼の基準からすれば早い時間ではあったが、真夜中には変わりなかった。


 こういう時間帯になると、バトラーは、ダヴィッドがすぐに休めるように暖炉と湯の世話だけしておいて、階上にある自室に引っ込んでいることが多い。しかし今夜は違った。


 玄関先でダヴィッドを迎えたバトラーは、いつもの冷静な表情の影に、明らかな当惑をちらつかせながら直立していた。

 主人のマントをうやうやしく取ると、バトラーはじっとダヴィッドの目を見つめる。


「どうした、バトラー」

 ダヴィッドは怪訝に眉を寄せて聞いた。「俺は疲れてる。小言を始める前の婆さんのような顔はやめてくれ」

「あなたを見てると時々、本当に何か言わなくてはと思うのですが」

「思うだけにしておいてくれ」

「後悔しますよ」

「バトラー!」


 ダヴィッドはその長身を使い、威圧的に身体を乗り出しながら声を上げたが、バトラーは表情を崩さず、ダヴィッドの怒声も小鳥のさえずりくらいに思っているようすだった。頭の良すぎる子供を育てるのが難しいのと同じくらいに、切れ者すぎる執事を持つのも、時にひじょうに厄介なものだ。精神を丸裸にされているような気になる。

 ダヴィッドは苛々しながら咳払いをし、続きを促した。


「それで?」

「郊外では雪が降り始めたそうです」


 バトラーは言った。

 ダヴィッドはますます眉間の皺を深めた。


「それがこんな時間にお前が俺に言わなくてはならないことか?」

「ええ、それが伝達が遅れた理由なので。本来ならもっと早く、今夜……あなたが出かける前に届いたのでしょうが」


 そう言うと、バトラーは上着の前ポケットから優雅な動きで一枚の紙切れを取り出し、ダヴィッドの前に差し出した。

 ダヴィッドはバトラーの目を見たまま、奪うようにその紙切れをひったくる。



 『サイデン殿

 道中、馬車の馬を休ませている間のことでした。ほんの一瞬のことです。私と妻が御者と天候について相談していた隙に、マノンが消えてしまったのです。

 ああ、サイデン殿、私どもがどれほど申し訳なく思っているか。

 私どもは全力で彼女を探しています。しかし思うのですが、マノンはもしかしたら、あなたの元に帰りたくて逃げ出したのかもしれません。どうか、探索にご協力を……。


 ミリアとマーカス・ポーリンより』



 筆跡は丁寧だったが、それでも焦りによる文字の乱れが随所に見られた。


「あなたがお出かけになられて、すぐに届いたのです」

 というバトラーの追加説明は、ダヴィッドの耳を素通りしていた。


「なんだと……?」

 ダヴィッドは呟いたが、それはバトラーに対してというよりも、ダヴィッド自身の混乱に対する自問のようだ。

「なん、だと……」

 二度目の呟きは、地に消え入りそうな低い声だった。


 バトラーは辛抱強くダヴィッドが浮上してくるのを待った。ダヴィッドの身体中の血管がどくどくと強く脈打っているのを、バトラーでさえ感じることができたほどだ。普段のダヴィッドは冷静な人間だった。情熱的ではあったが、それをコントロールする術をよく知っていて、燃え盛るマグマを紳士の仮面の下に隠すことができた。


 しかし、今、それが爆発しようとしている。

 執事はその目撃者だ。

 次の瞬間、ダヴィッドは紙切れをぐしゃりと握りつぶすと、獅子が咆えるような声を上げた。


「あれは、一体どこまで俺を狂わせれば気がすむんだ!」


 そして、素早く踵を返すと、たった今入ってきたばかりの玄関から、ものすごい勢いで外へ出て行った。とり残されたバトラーは、しばらくの沈黙のあと一つ溜息を吐くと、やれやれと首を振りながら階段を上った。


 多分、またマノンの部屋を用意しなくてはならないだろう。


 ルザーンにも雪がちらつき始めていた。

 まったく、聖誕祭を迎えるのにおあつらえ向きの、静かな夜だった。



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