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14



【太陽と月の終わらない恋の歌 O Holy Night 14.】



 次の日。

 朝から冴えない曇り空が広がっていて、人を憂鬱な気分にさせるにはもってこいの天候だった。


 そんな中、朝日を目にしたダヴィッドが一番にしたことといえば、ポーリン夫妻に使いをやることだった。


 羽ペンを取り、可能なら今日中にでもマノンを迎えに来て欲しいという内容の手紙をしたためて、使いの者に託す。もし昼前に手紙が届けば、ポーリン夫妻は今夜にでもマノンを迎えに来られるだろう。

 ダヴィッドは一人きりの書斎で静かに目を閉じ、仕事椅子に座ったまま天上を仰いだ。


 ずっと、ずっと、一人だった。

 別に、マノンを手放したからといって、新しい生活が始まるわけじゃない。ただ元に戻るだけだ。そうだろう?


 ダヴィッドはゆっくりと目を開けると椅子の背もたれに体重をかけて、しばらく天上を眺めたままでいた。──彼女を愛していたのかもしれない。それが、眠れない長い夜の果てにダヴィッドが出した答えだった。


 少女を愛人として囲うという下劣な行為を止めたくてしたことの結果、ダヴィッドは結局、自ら同じことをしかけていたのだ。連中と五十歩百歩、同じ穴のムジナだ。マノンはせいぜい九歳で、ダヴィッドとは父娘といってもおかしくない年の差がある。


 それを──もちろん、肉体的な意味で求めたわけではなくても、女として愛したのだ。

 少なくとも、愛しはじめていた。


 しかし、まだ遅くはない。今すぐ彼女を遠くにやって、これまでの生活に戻れば、この持たざるべき感情も一時の過ちとして葬り去ることができる。できるはずだ。できない理由などない。


 すべてのものには代価がある。

 つまり、代価さえ払えば、ほとんどすべてのものは手に入るのだ。


 今のダヴィッドにとって、「マノン以前」の生活に戻るための代価は、我慢だった。そして、その値段はきわめて高くつきそうだった……が。




 当のマノンはその日一日寝室に篭っていて出てこなかったし、ダヴィッドもあえて彼女に会おうとはしなかったので、やっと二人が顔を合わせたのは、もう夕日が西の空を橙色に染め始めている時刻だった。


 急な長旅の興奮と寒さに、頬を紅潮させたポーリン夫妻が、ダヴィッド・サイデンの屋敷に到着したからだ。



 馬車を降りて玄関に入ってきたポーリン夫妻を迎えたダヴィッドは、形どおりの挨拶をすませたのち、彼らを屋敷中に案内した。


 そろいの灰色の外套に身をかためた夫妻は、どちらも髪に半分白が混じっている、人の良さそうな中年男女だった。ポーリン氏は横にも縦にも広い巨漢で、夫人のほうは背は高いがほっそりとした上品な婦人だ。


「この日をとても楽しみにしていました」

 ポーリンは開口一番に言った。「若い頃の落馬事故のせいで、子供を作れない身体になったのです。しかし私たちは昔から子供が、とりわけ娘が欲しかった」


 婦人は、彼の隣でさかんにうなづいている。

 ダヴィッドもうなづくジェスチャーをして理解を示した。


「彼女は……とても可愛らしくて、素直で明るい子です。大事にしてやってください」

「ああ、もちろんですとも! もう部屋も用意してあるんです。服も数着、家内が作りましたのでね、サイズが合うといいが」

「それなら──」

 と、ダヴィッドが言いかけた時だ。


 ポーリン夫妻の目が、吸いつけられるようにダヴィッドの背後に移った。

 反射的に、ダヴィッドも振り返る。すると、桃色の室内着を着たマノンが、階段から降りてくるところだった。


 ゆっくりと。


 ダヴィッドとポーリン夫妻を交互に見つめながら、片手を手すりに掛けて、静かな足取りで階段を降りてくるマノンは、可憐で、まるで人間の大きさをした妖精のようだった。


 泣いていたはずだ。しかし夕暮れ時で、室内がセピア色がかっているせいか、涙のあとはあまり目立たなかった。


「ダヴィッド、その人たちは……?」

 まだ階段の途中から、マノンは震える声で聞いてきた。


「ポーリン夫妻だ、昨日話しただろう」

 ダヴィッドはどこか陰気な声で答えた。

「わたしを引き取るひとたち? 牧場からきたっていう……」


「そうだよ! ああ、君がマノンだね。想像していたよりもずっと可愛らしい子だ。私はマーカス・ポーリン。こちらが妻のミリアだ。我が家に君を迎えられることを、本当に幸せに思うよ」


 ポーリンはダヴィッドの横をすりぬけ、マノンの前に進んだ。

 階段の二段目まで降りてきたマノンの目前で立ち止まると、小さな少女の手を牧場主らしい大きな両手で包み、しっかりと握った。優しく力強いグリップは、まさに父親が娘との絆を深めようとしているようだ。

 マノンは不安と期待の混じった瞳でポーリンを見上げている。

 ポーリンは穏かに微笑んだ。


「すぐに慣れるのが難しいのは、分かるよ。しかし、一緒に暮らしていけば、いつか本当の家族のように思える日が来る。私も妻も、そのための努力は惜しまないつもりだ」

「でも、わたし……」

「まずは近く聖誕祭がある。どうだね? 私たちと一緒に聖誕祭と新年を過ごしてくれるかい?」


 マノンは一生懸命ポーリンの言葉を理解しようとしているようだった。


 ポーリンは大柄で温かく、信頼にたる大人の男で、マノンだってすぐにそれを感じ取ったはずだ。ポーリンを見上げるマノンの瞳を見ながら、ダヴィッドは苦い思いを感じていた。


 結局、マノンにとっての自分は『すり込み』に過ぎないのだと──。


 彼女を窮地から救って温かい部屋を与えたのがダヴィッドだったから、執着と愛情を感じてくれていただけで、実際に最初に手を差し伸べたのがポーリンだったのなら、話は違っていたはずなのだ。きっと。


「わたし……」

 震えるマノンの声を、周囲の大人たちは息を止めながら待っていた。


「わたしは、ダヴィッドの言うとおりにするわ」




 灰色の夜は静かに深まっていった。

 大して若くもないポーリン夫妻が、さらに子供連れで長旅をするには、冬の夜は危険すぎる。


 マノンがもう少し彼らに慣れるのを待つ意味でも、ポーリン夫妻にサイデン邸で一晩過ごしてもらうのが適当に思えた。

 結果として、ダヴィッドはポーリン夫妻に客室をあてがい、マノンにはその隣の部屋へ移ってもらうことになった。


 ポーリン夫妻を客として迎えた食卓で和やかな雰囲気の夕食をすませたあと、大人たちはサロンで団欒をはじめ、子供のマノンは女中に連れられて部屋へ戻った。


 食事中、マノンはずっと静かで、食も細く、ダヴィッドとポーリン夫妻の顔色を交互にうかがいながらそわそわとしていた。なにか夫妻から質問を受けると戸惑いながら答えていたが、自分から喋り出すことは、ついに一度もなく。


 ダヴィッドはといえば、うわべだけの会話を続けていて、料理の味などまったく感じられなかった。



 食後酒のグラスを傾けながら、サロンの長椅子で妻と共にくつろいでいたポーリンは、ふとダヴィッドに向き直り声を落とした。


「サイデン殿、本当にこれでいいのでしょうか? 私たちが彼女を連れて行ってしまっても?」


 テーブルを挟み、ポーリンの正面に座っていたダヴィッドは、不可解に眉を上げた。


「もちろんです……。あなた方は間違いなく素晴らしい両親になられる。マノンにとって、これ以上幸せな縁組はないでしょう」

「確かに、私たちはなによりも彼女を歓迎していますし、彼女を幸せにするために私たちが出来るすべてのことをする用意があります」


 ポーリンは椅子の上で姿勢をただし、続けた。


「しかし、彼女自身はどうかな。あの子はあなたにとても懐いているようだ。きっと本当はここに居続けたいのでしょう。ずっと彼女の様子を見ていて、どうしてもそんな気がしてならないのです」


 ダヴィッドはすぐに答えられなかった。

 しかもなぜか、言外に、あなたも本当はマノンにここに居続けて欲しいのでしょう、と言われたような気分にもなった。それはただ単に、ダヴィッド自身の心の叫びかもしれないが。


「今はマノンも……確かに、そんな思いに捕らわれてるかもしれません。しばらく一緒に暮らしていたので、そんな気分になっているんでしょう」

「そうでしょうか」

「そうです。しばらくすれば、俺のことなど思い出しもしなくなります」

「あなたはそれでいいのかな、サイデン殿」


 ポーリンは突然、禽獣のように鋭い視線をちらつかせて、ダヴィッドに訊いた。


「彼女がそれで幸せなら」

 それが、ダヴィッドの答えだった。


 雪が降るといい。──ダヴィッドは思った。雨でもかまわない。

 そうして、この心に渦巻く不安を沈め、流して欲しかった。




 その夜遅く、ダヴィッドは己の失敗に気が付いた。

 マノンを別の部屋へやらせたせいで、いままでマノンが使っていた主寝室に戻ってくることになったからだ。


 ここが一番暖まるからという理由でずっと彼女に譲っていたのだが、そんなに長い間ではなかったのにもかかわらず、この寝室はすっかりマノンの匂いと面影で埋まっていた。


 シーツにマノンの金髪が残っている。

 枕元に彼女が見ていた本が置かれている。

 クローゼットの前に彼女の服が掛かっている……。


 くそ、あの小さな生き物は一体、どこまで俺を苦しめるつもりなんだ? ダヴィッドはそう、いささか理不尽な文句を心の中で呟きながら、上着と靴を脱ぎ捨ていると、ベッドの上で仰向けになった。


 明日。

 呪文のように、脳裏をかすめる言葉。

 明日の朝。

 目を閉じる。すると、マノンの軽やかな笑い声の幻聴が聞こえた。



 コン、コン、と弱々しく扉を叩く音が聞こえたとき、ダヴィッドはそれを幻聴の続きかと思って、しばらく取り合わないでいた。


 しかし、それはしつこく続いた。

 不慣れな感じの不規則で弱い叩き方から、バトラーでないのは明らかで、ダヴィッドは仰向けのまま顔だけわずかに上げて、「誰だ」と不機嫌な声を上げた。


 すると、

「わたし、ダヴィッド」

 というマノンの声が聞こえて、ダヴィッドはがばっと勢いよく起き上がった。


 どういう訳か(無意識にだ)、乱れた髪を適当に手でなでつけ、はだけかけたシャツの前を留めなおすと、一つ小さな咳払いをして扉へ向かった。

 扉を開けると、白い寝着姿のマノンが立っている。


 手には、ポーリンから贈られたらしい人形プペが抱かれていた。

「入ってもいい……?」

 マノンはわずかに首を傾げながらダヴィッドに聞いた。


 ──いいわけがないだろう、マノン。俺は今、お前を忘れたくて苦しんでいるところなんだ。今夜、この世で唯一つ避けるべきことといったら、お前をこの部屋に入れることだけだ。


「いいよ、入りなさい」

 ダヴィッドは答えた。



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