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12



【太陽と月の終わらない恋の歌 O Holy Night 12.】



 湯船からあがったマノンをタオルで拭くと、ダヴィッドはふたたび彼女をベッドへ戻した。


 いつからかマノンはダヴィッドに絶対の信頼を置きはじめたようで、抵抗らしい抵抗はなにもしなかったし、何かを言いつければすぐその通りにした。


 よく、しつけの出来ている子だ。

 文字を読めないというし、父親がいなくなったあとに孤児院へ預けられたことを考えると、あまり裕福な出身ではないのだろうが、どこか洗練されている。寝付く前にスープを飲ませたが、その食べ方一つとっても、マノンには粗野なところが全くない。


 苗字のオルフェーヴルには、『銀細工師』という意味がある。

 そういう家系だったのだろう。


 さしずめマノンは、オルフェーヴル家が作り出した最も美しい銀細工だった。光を受けて輝いては、人の目を奪って離さない宝石。


 ダヴィッドは複雑な思いを抱えたまま、眠りにつくマノンをずっと見守っていた。



 数日後の朝──。

 やっとマノンの容態が完全に落ち着いたので、リーは一旦自宅へ帰ることになった。

 支度を済ませて玄関に立つリーを、ダヴィッドとマノンが見送りにでてくる。


「明日にはもう一度診察に来るよ、僕のマノン。それまで良い子で待っていられるかな? お薬もきちんと飲むんだよ」

「はい、リー先生」

「それから、ダヴィッドの面倒を見てやってくれるね」

「はーい」

「マノン……そこは返事をしなくていいところだ」


 どうも人懐こい性質のようで、マノンはいつの間にかダヴィッドへと同じく、リーにもよく懐いていた。特に彼の見事な銀髪がお気に入りで、機会さえあればいつまででも飽きずにじっと見つめている。今も、わずかに顔をしかめているダヴィッドの横で、ぽぉっとリーに見入っているところだった。


「ねえ、ダヴィッド」 

 口の片端を上げながら、リーは小声で言った。「腕のいい髪染め屋を知っているよ。まぁ、君の漆黒の髪はそう簡単に染まらないだろうけどね」


 ダヴィッドはリーを睨みつけ、うるさい、とマノンには聞こえないように低くうなった。


 麗しい微笑を浮かべたリーは、黒い皮製の手袋をすばやく装着すると、優雅に身をひるがえし玄関を出て行く。前庭に待機していた、艶やかな焦げ茶の馬が引く一頭立ての小さな馬車に乗り込むと、リーはそのままサイデン邸をあとにした。


 玄関から馬車が見えなくなってしばらくすると、ダヴィッドはいまだにリーに向かって手を振っているマノンへ視線を落とした。


 あらためて隣に立ってみると、マノンはやっとダヴィッドの腰へ届くか届かないかというところまでしか背がない。

 ダヴィッドが平均を超えた長身であることを考慮しても、大きな差だ。


 超えてはいけない線を見せつけられるような、大きな違い。


 冬晴れの比較的陽の強い朝ではあったが、それでも乾いた冷たい風が玄関から吹き込んでくるのを感じて、ダヴィッドは扉を閉めた。


「リー先生……帰っちゃった」

 マノンはぽつりと呟いて、傍らのダヴィッドを見上げた。

「そうだな」

 と、なかば心ここに在らずでダヴィッドは答えた。


 そう、医師であるリーがマノンの容態を、もう彼の手がなくても大丈夫だと判断したのだ。

 マノンは順調に回復していた。

 熱も下がり、しもやけやあかぎれにも軟膏が塗られ、日に日によくなっている。冬枯れの木のようにパサパサになっていた髪も、数度の入浴と適度な食事のお陰で、輝き出さんばかりに艶やかになってきている。あとしばらく養生すれば……もう、外へ出しても大丈夫だろう。


 外へ。

 ダヴィッドのいない世界へ。


 そのまま外へ放り出すつもりは毛頭なかったが、もといた孤児院を探し出すか、そうでなければ新しく養子を取ってくれそうな家を見つけて、それで終わりにするつもりだった。


 そうすべきだ。

 それでも、そう遠くないであろうその未来を思うと、ダヴィッドの胸には灰色の霧がかかる。


「冷えるから、おいで。寝室へ戻ろう」

 ダヴィッドが言うと、マノンはこくりとうなづき、ダヴィッドの片手を取った。とても自然な動きで、離す気にはなれなかった。


 そして、ダヴィッドはきゅっと自分の手を握る小さな指の温もりを感じながら、胸の中の霧がますます濃く、重くなるのを、自覚せずにはいられなかった。




 ベッドで眠り疲れたというマノンのために、ダヴィッドは暖炉前に前後に揺れるつくりの安楽椅子を置き、そこにマノンを座らせた。


 自分は普通の四足の椅子に座り、書斎から漁ってきたいくつかの本を眺めている。

 なにか……子供向けの本がないかと探したのだが、見つかったものは精々、古代の王の歴史だとか、動物に関する難解な図鑑書などだけだった。


 ダヴィッドが子供時代に持っていた本は、七歳の時に焼かれたきりだ。まぁ、どちらにしても、少女が面白がる種類の本を読んでいた覚えは無い。


 なかば諦めて図解書をめくりはじめ、女子供が好みそうなページを探した。『猫』とある項目に、可愛らしい挿絵がされていた。ダヴィッドは本を反転させ、マノンへ手渡した。


「ほら」

「なあに?」

「絵があるよ。見てごらん」


 挿絵のすぐ隣には長ったらしい記述があって、それも解剖学的な学説がつらつらと記されている。子供が読んだらショックを受けるような内容だ。ただ幸い、マノンはまだ字が読めない。


 当然、マノンの瞳は挿絵に吸いつけられ、しばらく楽しそうにそれを眺めていた。

 ダヴィッドは安堵し、暖炉に薪を数本加えた。

「猫さん、かわいい」

 言いながら、マノンは挿絵の上を撫でるように触れる。挿絵の猫が、まるで本物であるかのように。

 まったく可愛いものだ。


「ねぇ、ダヴィッド、ここになんて書いてあるの?」

 急に、マノンは本を掲げてダヴィッドに示した。


 ダヴィッドは暖炉に向けていた顔をマノンの方へ戻した。蜂蜜色の瞳は夢見がちに輝いていて、おとぎ話を期待しているのは明らかだった。ダヴィッドはさっと記述を読み流した。

『猫は凶暴な肉食動物であり、生きたままの小動物を狩ってその場で食すことも……』


「猫は、チーズが大好物で、端から上品にかじるのが好きらしい」

「本当?」

「そう書いてあるよ」

「じゃあ、猫さんはえらいのね」

「そうだな」

 ダヴィッドは苦笑しながら答えた。


 するとマノンは本を自分の前に正し、ペラペラとページをめくり始めた。くそ、とダヴィッドは心の中で毒づいた。頼むから、変な項目で止まらないでくれ。


 ダヴィッドは胸の前で十字を切りたいような誘惑に囚われたが、マノンの方が一歩早かった。

 ページをめくる手が止まり、「これ」という期待に満ちた声と共に、本を掲げる。


「このネズミさんたちは、何をしているの?」


 正確には、ネズミではなかった。

 大陸の北方に育成している、レミングという種類の小動物だ。広義のネズミではあるらしいが、この動物には厄介な伝説があった。集団自殺をするという。


 挿絵には、つぶらな瞳をしたネズミとアライグマのあいのこのような小動物が、何十匹もそろって崖から海へ落ちようとしている図が描かれていた。確かに、子供が興味を惹かれそうな、物語性のある絵ではある。

 なんせ、死のダイビングだ。


「それは……」

 ダヴィッドはくぐもった声を洩らした。何か作り話をしなくてはと煩悶し、必死で考えを巡らす。しかし、なかなか気のきいた答えは出てこなかった。

 最終的に、ダヴィッドは、

「そのネズミたちは、空を飛べるんだ」

 と、途方もない宣言をした。


 マノンの瞳がきらきらと輝いた。まるで、目の前に世界中の宝石を差し出されたような、嬉しそうな顔だった。なんと忌々しい図鑑書だ。今すぐ暖炉の火にくべて燃やしてしまいたい。


「すごいのね! ダヴィッド、このネズミさんたち、見たことある?」

「そうだな、もしかしたら」

「飛んでた? お空を飛んでたの?」

「そういえば、少し飛んでいたかもしれない。でも、そんなに高くは飛べないんだよ」

「すてき!」


 素敵? 空を飛ぶネズミが?


 結局、マノンとダヴィッドの問答は一日中続いた。

 日が落ち始め、同時に気温がさらに下がりはじめたころ、マノンは動物と古代史の博士になっていて、ダヴィッドは作り話の名手になっていた。


 そして、一日が終わり、夜の帳がおりる。


 興奮の疲れからか、マノンは夕食のすぐあとに眠りについた。それからダヴィッドは書斎にこもり、溜まっていた書類に目を通してから、眠りにつく。自分の寝室はマノンに明け渡していたから、一番広い客間を仮に使っていた。


 客間のベッドに服を着たまま横たわったダヴィッドは、無言で天上を見上げる。

 そして、思う。


 この屋敷の中に、誰かがいる。

 女中でも使用人でも料理人でもなく、しかし客……というわけでもなく、寝室を使って寝起きをして、一緒に本を読んで一日を過ごす……そんな相手が。


 その考えは、ダヴィッドの口内を甘いなにかで満たすような感覚をまねいた。


 ひどく懐かしくて、それでいて胸を締めつけるような複雑な思い。満たされるようで、しかし、同時にさらなる渇望を呼ぶ嵐。


 受け入れてしまえば、楽なのかもしれない──。

 誰も反対はしまい。マノン本人も、リーも、世間も。バトラーだけは戸惑っているようだが、主人のダヴィッドの決定に文句を言うはずがない。そもそもそんな権利も権限もないのだから。


(それでも)


 ダヴィッドは窓からのぞく闇にゆっくりと目を向ける。


 乾いた、冷たい冬の夜が窓越しに見えた。枯れた木々を通して見える黒い闇に、うっすらと遠く浮かぶ月。生命を奪えるほどの寒さの北風が吹きすさぶ林の向こうには、ルザーンの街がある。


 ルザーンの夜はダヴィッドを呼んでいた。


 ダヴィッドに選択肢はない。

 やめることは、出来なかった。


 そして、こんな生活にマノンを巻き込むことはない。彼女なら、別の場所へ行っても大切にされるはずだ。ダヴィッドよりもっと理想的な家庭を与えてやれる人々がいる。


 そうだ、もうしばらくしたら、養子縁組をしてくれる家を探そう。

 ビジネスで築いた様々なコネを使えば、簡単に見つかるはずだ。子供のいない壮年の夫婦を何組か知っている。それなりに裕福で、人のいい連中だ。


(それまでだ)

 決心を胸に刻みながら、ダヴィッドは目を閉じた。


(それまでだけだ……あの子がここにいるのは)



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