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11



【太陽と月の終わらない恋の歌 O Holy Night 11.】



 どこかへ深く、落ちていくような感覚がした。


 底のない谷間に吸い込まれて、果てしなく下へ下へと落ちていく感じだ……。最初こそ鼓動が速まったものの、目を閉じて、ゆっくり落ちてゆくに身を任せていると、しだいに心地良くなっていく。


 そして最後に、どこかへ投げ出されるように柔らかい地面に着地する。

 どこか……とても安心する場所に辿り着いたような感じがした。


 マノンを抱きしめた時、ダヴィッドを襲ったのは、そんな果てしなく甘い感覚だった。


 どのくらいの間、マノンを抱きしめたままでいたのか、覚えていない。

 しかし、子供はずっと同じ姿勢でいるのが苦手なものだ。ずっとダヴィッドの胸に身を任せていたマノンだったが、いつの間にか所在なさそうに身をよじりはじめていた。


「ん……ダヴィッド……」

 そう言って、顔を上げる。

 潤んだ大きな瞳に見上げられて、ダヴィッドは少し腕を緩めた。ついでに顔まで無意識に緩んでしまっていたのは、蛇足だが。


「どうした?」

「ダヴィッドは……あの、変なひとたちの仲間じゃない……でしょう?」

「違うよ」

 ダヴィッドは苦笑を浮かべながら答えた。

「夜中に馬を駆っていたら、布に包まっていた君を路地で見つけたんだ。放っておいたら病気になってしまうから、ひとまず俺の家に来てもらったという訳だ。迷惑じゃなければいいが」

「うん」

 マノンはすぐに答えた。

 ダヴィッドの穏かな話し方に安心したようで、微笑してみせる。そして手元のロケットに視線を戻した。


「助けてくれたのがダヴィッドで……よかった」


 そうだ──と、ダヴィッドは思った。君を助けたのが俺でよかった。


 たとえもうすぐ手放さなくてはならない存在だとしても、今夜、こうして彼女と二人きりで過ごせるのは至福に思えた。なぜこんなに穏やかな気分になれるのか、理由は分からなかったが。


「さて」

 ダヴィッドはマノンを抱いていた腕をほどくと、ベッドサイドに腰を落ち着けた。

「そうだな、どうしようか。食事にするか、それとももっと休んでいたいか……欲しいなら温かい風呂にも入れるが、どうしたい?」

「おなかは……すいてないの」

「湯につかればきっと腹も空くだろう。用意させるよ」


 マノンはその提案が気に入ったようで、こくこくと勢いよくうなづいた。ダヴィッドは微笑してみせ、すっとベッドサイドから立ち上がって扉へ向かった。


 ダヴィッドが寝室の扉を開くと、

「わぁ!」

「ああ!」

 リーとバトラーが、各々叫びと共に部屋の中になだれ込んでくる。


 実はダヴィッドは数秒前から気が付いていた──この、こっそり聞き耳を立てていた男たちに。ダヴィッドは片手で髪をかきあげると、二人の男を見下ろしてゆっくりと言った。


「バトラー、聞いていただろう。湯の用意をしてくれ。リーは……一応、彼女を診てやってくれ」

「は、はい、今すぐ」

「分かったよ……」

 気まずさのせいか、彼らはダヴィッドの指示に渋々と従いはじめた。



*



 ねずみ色の鋳鉄製のバスタブは、そもそも長身のダヴィッドに合わせて置いていた代物だったから、深く幅が広い──小さなマノンでは溺れてしまうかもしれない。


 バトラーは湯を用意して運ぶのに忙しかったし、そもそも、少女を風呂に入れてやるというタイプの男ではなく、頼んでも嫌がっただろう。

 女中は夕食の準備で手が空いていなかった。

 リーは……論外だ。

 小児科医とはいえ、人間的に。


 ダヴィッドは軽く二十の理由を挙げることができた。


 そして、それを何度も何度も理性の中で繰り返していた。マノンにはまだ微熱がある。これはまだ子供だ。バスタブが大きすぎて……。


「ダヴィッド?」

 ふいに声を掛けられて、ダヴィッドは床から顔を上げた。


 すると、お湯の蒸気に頬を高潮させたマノンが、無邪気に瞳をまたたかせてダヴィッドを見つめている。長い髪は後頭部あたりでくるりとひとまとめに留められていた。細い首と肩が、バスタブから覗いている。


「ああ」

 ダヴィッドは自分でも驚くほどの低い声で答えた。

「何だ?」


 ダヴィッドは白いシャツを腕まくりして、普段はベッドの横におく足置き台を椅子がわりにしながら、バスタブの横に座っていた。


 バスタブに浸っているのはマノンだ。

 マノンが、ダヴィッド個人用のバスタブを使っていた。


 どうしてこんなことになったのか、思い出すのも噴飯ものだが、とにかくそういう状況に陥っている。



 バスタブは木製の衝立に隔てられているだけで、ダヴィッドの寝室の端にあった。

 普段はダヴィッドだけが使う、ひじょうに個人的な空間だ。

 流行の猫足つき浴槽ではなく、簡素な鋳鉄製で、いかにも実用性を重視する独身男性用という感じの空間だった。


 それが、今は──

「こんなに大きいお風呂、はじめてみたの」

 パシャ、パシャ、と両手で水を弾きながら、マノンが言った。


「五人くらい入れそうね……」

「子供ならね。実際は、俺一人で一杯になるよ」

 ダヴィッドは首をもたげ、片手で髪をかき上げながら答えた。


「ダヴィッドは、一人で住んでるの?」

「ああ」

「さっききた……銀色の髪のお医者さまはだれ……?」

「あれは古い知人で、子供のための医師をしている男だ。ここ数日はうちに泊まっているが、住んでいるわけじゃない。他に、執事や女中や料理人がいる。だから、実際は五、六人の所帯がいるな」

「ふうん……」


 マノンが手持ち無沙汰そうに水をかき回し続けているので、ダヴィッドは彼女に石鹸を手渡した。使いかけではあるが、大きめのブロック型石鹸だ。自分の拳の二倍近い大きさがある石鹸の塊を、マノンは興味深そうに眺めていた。


 ──くそ、この動悸は何なんだ?

 ダヴィッドは横目でマノンの一挙一動を覗きながら、正体不明な感情の渦と戦っていた。


 自分に少女愛好趣味はない。

 実際、そういった意味でこのバスタブを占領している小さな生き物に欲望を感じているわけでないのは、確かだった。身体がそれを証明している。


 しかし……この、恋に似た情熱は何だ。

 胸をかき乱して止まないもの。鼓動を高めて、揺るがないもの。


(分かった……認めよう)


 たしかに、十年後のマノンと出逢っていたら、自分は間違いなく恋に落ちていたのだろう。

 ただし十年後の、だ。

 今の彼女ではない──あってはならない。


「ダヴィッド」

 マノンがもう一度ダヴィッドを呼んだ。そして、問う。

「ダヴィッドに、家族はいないの?」


 それは、どんな子供でも持つ種類の、なにげない疑問だったのだろう。実のところ、ダヴィッドはこの質問を受けるのが嫌いだった。過去を語るのはいつだって痛みを伴う。


 しかし……なぜだろう。

 マノンになら話してもいい気がした。

 多分、どこか根本的なところで、二人は似たもの同士なのではないかと思えたからだ……。


「父が……いたよ。でも、俺が七歳の時に死んでしまった」

「病気だったの?」

「いや。とても丈夫で強い人だった。でも、悪い奴がいてね。父の農園を焼いて、沢山のものを盗んで、父の命も一緒に盗っていってしまった。助かったのは俺だけで、それ以来、ずっと一人でいる」


 マノンは、大きな瞳をさらに大きく見開いて、ダヴィッドを見つめた。

 ダヴィッドは今日まで、マノンほどの年の子供が同情という感情が持てるものだとは思っていなかった。しかし、マノンの瞳に浮かんでいたのは、間違いなくダヴィッドに対する憐憫の情だった。

 ダヴィッドは薄く笑うと、肩をすくめてみせた。


「家も家族も失った子供は、街に流れ着くしかないのが常だ。街に……ルザーンに。俺もご多分に漏れなかった」

「ダヴィッドも……あの怖いおじさんたちに、連れてこられたの?」

「いいや、幸か不幸か、俺は醜い子供だったんでね。ああいう連中には歯牙にもかけられなかった。でも、力だけはあったから、港場の連中に使われてたな」

「…………」

「俺一人だ……一人だけで生きてきた」


 マノンは口を閉じた。

 手に持っていた石鹸を、湯の中につけたまま呆然としていたので、ダヴィッドは腕を伸ばして彼女の手から石鹸を取り返した。そして、

「後ろを向くんだ。背中を流してやるから」

 と、擦れた声で言った。


 マノンはほとんど躊躇をみせず、静かにダヴィッドの声に従った。


 青白く光る若い肌に、オリーブ油を使った若草色の石鹸を滑らせる。手が、痺れるような感覚がした。マノンの肌は魔法のようで、ダヴィッドの動きに巧みに吸い付いてくる。


 肩の後ろ辺りが、寒さでしもやけを起こしかけていたのか、赤く腫れていて痛々しい。

 ダヴィッドはそこに優しく触れた。


「軟膏を塗っておけば、すぐに治るだろう……。俺も、裏路地で生きてたころは、本当にしもやけだらけだった」

 少しだけ首をよじって振り返ると、マノンはダヴィッドを見た。


「いたかった?」

「それはもう。冬はしもやけだらけで、夏は汗疹だらけだった。最初のうちはハエに集(たか)られて鬱陶しかったが、そのうち気にならなくなった。もしかしたら、ハエも近寄らないくらい臭くなってたのかもな」

「いや、ね」

「ああ、いやだったよ」

「あのね、とおりに焼き菓子屋さんがあったの……。すごく、すごく、いいにおいがしたの……。そとから見ていただけだったの。ほんとうよ。でも、急にお店のおじさんが出てきて、あっち行けって怒って……冷たい水をかけられたの」

「分かるよ。怖かっただろう」

「ダヴィッドも……ある?」

「水をかけられたことが? そうだな、三百回くらいあっただろうな。そのうち逃げ方を覚えたけどね」

「いやね」

「ああ、すごくいやだった。悔しくて寒くて、本当に嫌な思い出だ」


 ダヴィッドは石鹸を横の台に乗った皿の上に置いた。

 そして、バスタブの中の湯をすくって、マノンの背の石鹸を流した。しもやけに沁(し)みたのか、きゅっと目を閉じるマノンを、ダヴィッドはたまらなく愛しく感じた。


 救いたかったのは、誰だろう。

 過去の自分自身か……。


 それとも。



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