04
【太陽と月の終わらない恋の歌 O Holy Night 4.】
心を決めるべき時がきたのだ、とダヴィッドはぼんやりと予感した。
戦いを待つ豹のような動きでうろうろと自室を歩き回ったあと、ダヴィッドは衣装箪笥の前でぴたりと足を止める。両開きの戸を開けると、漆黒のビロードでできたマントが姿を現した。
濃い闇のような色だ。
ダヴィッドの過去の色。
競売が閲覧日と競売日の二夜にかけて行われるのは、ダヴィッドにとってひじょうに好都合だった。
また、夜にだけひっそり行われるというのも、ダヴィッドの仕事をこの上なくやりやすくした──どうして、悪というのは夜にうごめくのだろう。
昨夜の閲覧日から一日がすぎ、競売は今夜行われることになっている。
競売前が子供たちを救い出す唯一の機会になるだろう。満月であるという不利をのぞけば、ダヴィッドに迷いはなかった。
ダヴィッドは黒のビロードに手を伸ばし、その表面をゆっくりと撫でた。
静かな情熱が身体の奥から湧きはじめ、ふつふつと温度を増していく。途中でぴたりと手を止めたダヴィッドは、まぶたを伏せて短く息を吐くと、深い黒の瞳を静かに見開き、素早くビロードのマントを羽織った。
執事バトラーが馬車で会場に辿り着いたとき、すでに参加者たちは大方集まりきっていて、大広間は競売が始まる前の熱気に包まれていた。
「ダヴィッド・サイデン氏の代理人です」
受付で告げると、意外なほどあっさりと通される。
じっさい、金持ちであればあるほど本人よりも代理人を送る者が多いようで、バトラーは例外でも何でもなかったようだ。従者と一緒に来ている買い手も見受けられたし、この「買い物」を一種の余興として楽しんでいる連中は、無料で振舞われる酒に嬉々として手を伸ばしていた。
華やかな会場に入り込んだバトラーは、上着の内ポケットから懐中時計を取り出し、時刻を確認する。
深夜まであともう少し。
ダヴィッドとはすでに事細かく打ち合わせをしてある。
深夜ちょうど、ダヴィッドは行動を起こす。正確には、ルザーン市警が。今回のダヴィッドは裏に回るだけだが、バトラーはタイミングを知らせる重要な役割を担っていた。
もともと酒や娯楽に興味を示さない性質のバトラーだったが、今夜はいつもにましてそれらを慎重に控えた。会場の奥には赤いベルベッドを張った舞台のようなものが用意されていて、木製の楽譜台のようなものがその端に置かれている。
どうも、バトラーの真面目くさった容貌は周囲の目を逃れるのに一役買ったようだ。
彼が舞台の影にまわって主催者の出入り口の位置を確かめても、それを気に留める者はいない。
バトラーはもう一度時刻を確認し、目立たないように参加者たちの波にまぎれていった。
数分後、舞台の裏手から、でっぷりと太った禿頭の進行役がてかてか光った青い上着姿で現れた。
彼はごほんと大袈裟に咳払いをしてみせると、ポケットから取り出した小柄なハンマーで、楽譜台に似た木板を強く叩く。カン、カン!
「紳士、淑女の皆さま! これより本日の競売を始めますぞ!」
ザワザワという歓声のさざ波が流れ、しだいに静かになっていった。太った進行役の男が立っている隣……舞台の中央には、1という数字を胸元に縫い付けられたお仕着せ姿の、痩せた赤毛の少女が立たされている。おずおずと、まるで助けを求めるような悲しい目つきで、観客のほうを見ていた。
「まずは番号一番から始めましょう……千ルビーから!」
数人の観客が、ぱらぱらとあちこちから手を上げた。
「千二百ルビー……千四百……千六百……」
最後に落札者が決まるまで、進行役の男は値段を吊り上げていく。バトラーは時計を片手に、競売の行方と時刻を交互に確認していた。
「二千ルビー! 二千ルビーに賭ける方はいらっしゃるかな!」
そう、進行役が興奮気味に声を張り上げた時だった。
会場の入り口から甲高い悲鳴が張り上げられ、だれもが振り返った。急に競売場に似合わない叫びと、やかましい靴音が一斉に響きわたる。
黒塗りされたヘルメットに赤いベストの制服姿のルザーン市警の一連隊が、大広間の入り口を占領しはじめていた。
「静かに! われわれはルザーン市警だ。今夜ここで不法な人身売買があると密告を受けたため、検めさせていただきますぞ!」
驚きの悲鳴は、すぐに困惑の大混乱に姿を変えた。
金切り声や怒声があがり、追い詰められたニワトリさながらの様子で、蜘蛛の子をちらすように逃げ惑う観客たち。それをせき止めようとする一連隊。押し合いへし合いの混乱の中、バトラーは鋭く舞台のほうへ目をやった。
進行役の太った男は、最初こそ不機嫌そうに顔をゆがめたものの、たいして慌てたようでもない放漫な動きで手近な荷物をポケットに押し込むと、「一番」の少女の手を無理矢理むしりとるようにして舞台裏へ消えようとしていた。
やはり、ダヴィッドは正しかったのだ。
奴らは踏み込まれたときのための逃げ道を用意している。
バトラーは、混乱の流れに逆らうような形で走り、舞台裏に消えた進行役の男の後を追った。舞台の裏手は別の部屋につづいていて、先は暗くなっている。
奥から、ろうそくを消したばかりの燻るような匂いがツンと鼻をついた。追跡者が追いにくくなるよう明かりが消されたのだ。バトラーは眉をひそめつつも彼らを追い続けた。暗がりの向こうに何人もの足が駆ける音が響いて、主催者連中が一緒になって外へ逃げ出そうとしているのが分かった。
逃がすものか、とバトラーは闇に目を凝らした。
しかし、建物の勝手を知った連中と、はじめてここに足を踏み入れたバトラーには歴然とした差がある。
すぐに見失ったうえに、大広間の混乱が邪魔して、足音が聞こえる方向も曖昧だ。バトラーは素早く胸元から象牙色の小笛を取り出して、あるリズムで強く吹いた。
甲高い音色が、ピピ、ピーッ、ピーと空気を裂きながら鳴る。ダヴィッドとの間だけに通じる、あらかじめ決められた信号のようなものだった。
『主催者逃亡、北方向、複数』
それだけだ。
それだけだが、ダヴィッドには十分だろう。
暗闇の中でバトラーは立ち止まって、肩で荒く息をする。そして外のダヴィッドが連中を捕まえてくれるのを願った。
きっと、成功するだろう。
意志の強いものほど成功を掴みやすいのは世の常。そして、ダヴィッドの意思ほど強いものはあまりない。彼の意思、特に弱いものを助けなければならないという思いは、強迫観念にさえ似ていた。不正や汚職をはたらく連中を罰したいという強烈な思いも。
──それが、正義感だけからきているわけではないのを、バトラーは知っている。
ダヴィッドが助けたいのは彼自身なのだ。
彼自身の過去を、彼は救いたいのだ……。
仕事は思ったよりずっと楽で、ダヴィッドは一点の曇りもなくそれをやり遂げた。
三人の大人と、子供たち数人。
が、バトラーの信号が聞こえたすぐ後に、建物の裏路地から這い出してきた。彼らを捕らえるのは難しくなかった──なぜなら、無理矢理連れられていた子供たちが、黒の怪盗の姿を見とめるなり協力しだしたからだ。
小さな身体で、太った男を引きとめようと腕に絡みつく赤毛の少女。
逃げようとした男に道端の石を投げつけて転ばせた、小柄な少年。
ダヴィッドはあらかじめ用意してあった白いロープで素早く、三人の男たちを動けないように一緒くたに縛り上げると、ルザーン市警の目に付きそうな表通り近くに転がしておいた。
今頃、市警たちは会場に残っていた子供たちを保護し、会場を捜査しているところだろう。
混乱の騒動が遠く聞こえる。
主催者連中が片付くと、生まれたばかりの子猫の兄弟のように一つに固まった子供たちが、期待と不安が半々につまった瞳でダヴィッドを見つめているのが分かった。
ダヴィッドは深く一息つくと、諭すように語り始めた。
「君たちも戻るといい……一緒に、市警たちのところへ行きなさい。彼らが君たちをもとの家へ帰してくれるだろう」
薄暗く湿った、建物にはさまれた石造りの細い裏通り。
子供たちの反応はまばらで、喜んで顔を輝かせているのもいれば、一人二人だけだが、悲しい顔をしてうつむいているのもいる。無理に孤児院からさらわれてきた子供もいれば、二束三文で売られてきた子供もいるのだろう。必ずしも、元いた場所に戻ることが彼らの幸福に繋がるわけではない。
なかには金持ちの家へ売られることで、毎日お腹一杯に食べられると夢見た子もいるはずだ。
本当はそんなものは幻想で、連中は競売で買った子供に贅沢などさせないし、しばらくして飽きれば娼館か奴隷取引に売り飛ばしてしまうのが常だった。
そこから先は闇ばかりになる。底のない、本物の闇だ。
黒の怪盗は、うつむいている少年の前に進み、小さな頭に手を置いた。
少年はそばかすに彩られた顔を上げる。
年はまだ七歳ほどに見えたが、実際はもう少し上かもしれない。
「ぼくは、帰る家なんてないよ……。父ちゃんが死んで、叔父さんと叔母さんの家にいたんだけど、そこの子供に意地悪ばっかりされるし、叔母さんがぼくを嫌ってこっそり売り払ったんだ」
震えながら語る少年を、ダヴィッドは同情の瞳で見下ろした。
「坊主」
と、静かな声で呼びかけ、彼を高く抱き上げる。
「帰らなくてもいいんだよ。お前のような子の面倒を見てくれるきちんとした孤児院がちゃんとある。説明すれば、市警が取りはからってくれるだろう。それに、もっと大事なことがある」
黒の怪盗に抱えられて、少年は興奮したようだった。お前、と一人前の男のような呼び方をされたのも、少年を高揚させたようだった。
「お前はすぐに大人になる……思うよりも、ずっと早く」
二人は顔を付き合わせた。
「希望を失わなければ、未来は変えられる。過去は変えられなくても、未来だけは俺たちのものだ」
少年は答えなかったが、かといって反論をするわけでもなく、黒の怪盗の言葉を理解しようときゅっと口を結んでいた。しばらくして少年がこくりと小さくうなづくと、ダヴィッドは彼を地面に戻し、もう一度くしゃくしゃと頭をなでた。
一瞬、ダヴィッドの胸の奥がちくりと疼く。
できるならダヴィッドが引き取ってやるべきだと、思うのだ。自分が子供を育てるのに向いているとは思えないが、それでも部屋を与えて教育係を雇い、成人するまで学校に通わせてやるのは簡単だ。
しかしダヴィッドにはそれができなかった。
物理的な理由からではなく……気持ちが、許さなかった。
俺は何をしているんだ……と。
喉が乾いて、肺が焼け付くように痛む……あの焦燥感が、また、ダヴィッドの足元をすくおうとしている気がした。
「でも、あの子、大丈夫かな」
別れぎわ、一人の少女がそわそわしながら呟いた。
「一人、逃げた子がいるの……すごく『上玉だ』って言われて、私たちとは別に、王さまみたいな金持ちにだけ見せるんだって言われてた。でもどうやってか、逃げちゃったの。もう四日くらい前だけど……」
事が順調に片がついたおかげで、夜はまだ深く、暗いままだった。
逮捕の騒動が収まりはじめるのを影から確認したあと、ダヴィッドはそのまま夜に紛れて帰るつもりでいた。満月の夜は特に、あまり長居をしたくない。
悪いことをしたつもりはないのに、月の光を恐れなければならないのは皮肉だ。
薄い雲が夜空をただよっている。
月を隠したり、垣間見せたりしながら海の方へ流れていく。静かで、奇妙な夜だった。
月、は……。
ダヴィッドにとって、永遠に相容れない夢なのかもしれない。
闇を照らす光。
罪をさらす明かり。
美しすぎて、ダヴィッドが触れてはいけないもの。
ダヴィッドは夜を駆けた。
狭い裏路地を走りぬけ、必要ならば塀の上や、屋根の上さえつたって走り続けた。黒いマントが鮮やかに舞う。冷たい冬空の下だったが、仮面の下にはわずかな汗がにじんでいた。
ルザーンの北西の端に、小さな教会がある。
小さくてボロボロで、住み込みの牧師がおらず夜は無人になるうえに、人々から見捨てられたようにひっそりと佇んでいる。細高い塔が建物の奥からすっと伸びていて、屋根の背に乗ると街がよく見渡せる。
ダヴィッドはよく、この寂れた教会の裏庭に茂る、杉林の影に馬を隠しておいた。今夜もまた然りだ。
行儀よく主人の帰りをまっていた焦げ茶の馬は、現れたダヴィッドに嬉しそうに頬ずりする。
「帰ろうか」
静かな声を、理解したように馬がうなづく。
ダヴィッドは乗馬し、人家のない街外れの道を使って屋敷へ帰るつもりだった。教会から出てすぐの、細くて薄暗い裏路地から──凍えた月のかけらを見つけるまでは。
ともすれば、気付かなくても不思議ではなかった。
しかし、気付いてしまった。
黒だか、灰色だか、茶色だかも分からないような汚れたぼろきれの塊が、裏路地のすみに落ちていたのを。
ずんぐりと丸まっていて、不自然にもり上がっている。その端から、垂れるように鈍い金色の流れがちらりとのぞいている……。
乗馬したダヴィッドはその横を通り過ぎようとして、最初、乾燥した麦の穂でも包んで置いてあるのか、と思った。
しかし、そのゆるやかな金の流れには、生命を思わせる艶と、温かみのある輝きがあった。
(まさか)
自分の予感はうんざりするほどよく当たるのが分かっていたから、ダヴィッドはそう思った瞬間、馬の背から舞い降りて汚いぼろきれの塊に駆け寄っていた。
冷たい石の歩道に片膝をつき、流れる金の房を手にとって見る。
髪、だ。
それも、月の光のような、鮮やかな金髪。
ダヴィッドは息をするのも忘れたまま、不自然に丸まったぼろきれに手を掛けて、それをゆっくりと開いた。
どれだけ汚れていても、隠せないものがある。
現れたのは、少女だった。
土と泥にまみれて、震える力さえないほど凍えきった姿は、お世辞にも美しいとはいえなかったし、浮浪者独特のつんとする垢の匂いがした。
しかし、
ゆるやかに流れる長い髪。
そして、
ゆっくり瞼が開かれると、まるで機嫌のいい満月のようなはちみつ色の瞳が現れて、静かにダヴィッドを見つめ返していた。




