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03



【太陽と月の終わらない恋の歌 O Holy Night 3.】




 そこは、華やかなメインストリートから奥に一つ入った、雑然とした通りだった。


 あちこちに酔っ払いがうろついていたり、道の角に乞食が座り込んでいたりする。汚水の匂いがして、独特の湿った空気が充満していた。まともな紳士はこの辺りを一人でうろつかない。

 ──今夜のダヴィッド・サイデンをのぞいては。


 季節の北風が吹きすさぶ、よごれた灰色の裏通りを、ダヴィッドは足早に渡っていた。その身は上等な黒と紺の紳士服でかためられている。


 ルザーンは玉石混淆(こんこう)の大商業都市で、きらびやかで洗練された大通りを一つ入ったと思うと突然、うらびれた貧民街が広がっていたりする、モザイクのような街だ。


 時々よそ者が迷い込んでしまうことはあったが、ルザーンに住む者なら誰でも、自分のテリトリーをわきまえて生活している。

 まるで動物の縄張りのように。

 ここまでという線があって、余程のことがないかぎり誰もそれを越えない。特に日が落ちてからは。


 しかしダヴィッド・サイデンは、高級な表通りの楽しみ方も、最もみすぼらしい貧困地区での身の守り方も、両方をよく知っている稀有な存在だった。


 もっとも、ダヴィッドが本当に馴染み深いのは後者のほうだ──。

 薄暗い貧民街は、彼のゆりかごも同然だった。


「お兄さん、上等な外套を着てるねぇ……。ねえ、チョッとアタシと遊ばないかい?」

 キラキラ光る安物のスパンコールに飾られた、胸元をひらいた大胆な服の娼婦が、建物の影からあらわれてダヴィッドにすがりつこうとした。


 まだ若い娘だった。

 ダヴィッドは断るかわりに短く舌打ちをして、素早くポケットのうちを探ると、奥から出てきた五十ルビー札を娼婦の手に押し付けるように渡した。娼婦はポカンとする。


「五十ルビーも……? すごいや、特別にサービスするよ……って、旦那!」


 今のダヴィッドにはただの小銭でも、さびれた路地で客を取る娼婦にとっては、法外な金額だ。

 若い娼婦は当然、ダヴィッドが彼女を一夜の相手にとると思ったのだが、ダヴィッドはそのまま大股で彼女の前を歩き去っていく。


「旦那!」

 彼女はもう一度ダヴィッドの背中に向かって叫んだが、彼は振り向かなかった。


 角を曲がり、ダヴィッドの背中が見えなくなると、立ちすくしていた彼女はもう一度手元に残されたしわくちゃの五十ルビー札を見た。


 使い古された紙幣だ。

 でもそれは、あまりに眩しく見えて、彼女は思わずぽつりと涙をこぼした。

 これで病気の母さんに薬が買える。お腹を空かせている小さな弟に、焼きたてのパンを買ってやれるかもしれない……。




 だれが、この渇きを癒せるだろう──。


 ダヴィッドは大股で歩道を渡りながら、喉の奥が焼けるように乾くのにさいなまされて、二度ほど大きく息を吸って呼吸を整えようとした。しかし痛みは増すばかりで、ダヴィッドに安楽を与えはしない。


 いっそどこかの酒場で軽くブランデーをあおろうかという考えが脳裏をよぎったが、すぐに打ち消した。

 仕事の前は絶対に酒を飲まないというのが、ダヴィッドの昔からの信条だ。


 それに……この渇きの理由は、他にある。

 それは、酒でも、水でも潤せないものであると、ダヴィッドはもう気付き始めていた。


 ルザーンの闇には底がない。

 闇から飛び出してはじめて、ダヴィッドはその深さを知った。貧困も、飢えも、孤児も、娼婦も、飲んだくれも何もかも、際限なく湧いてきては裏路地に溢れている。


 救っても、手を差し伸べても、金を与えても。

 ダヴィッド一人がいくら努力しても、変えられるのは表面のほんの一部、そして一瞬にすぎない……。闇はすぐに光を飲み込んでしまうのだということを、思い知らされるばかりだった。



 まえもって住所を地図で確認しておいたおかげで、ダヴィッドは指定されていた開催時間より早くに会場へ辿り着いた。


 それは一見なんの変哲もない、ローマ様式を真似たブルジョワ向けの住宅建築で、まさかここで秘密裏に人身売買が行われようとしているとは誰も夢にも思わないだろう。


 それほどありふれた建物の入り口には、しかし取っ手がなく、かわりに金に塗られた真鍮の輪が胸の高さにそなえ付けられていた。

 今一度番地を確認したダヴィッドは、その輪に手を掛けて数回扉を叩く。

 すると、木製の扉の一部が、パカッと内側に開いた。


 本一冊ほどの大きさの、小柄な人間の目の高さほどの位置にある、隠し窓だ。内側から覗かれているのが分かって、ダヴィッドは扉から一歩下がった。隠し窓の位置からして、自分のように背の高い人間が立っていては、せいぜい首元しか見えないだろうと理解したからだ。


「どちら様で?」

 隠し窓のむこうから枯れた老人の声がした。


「サイデンだ。マクシム子爵からの紹介状がある」

 ダヴィッドがよどみなく答えると、すばやく隠し窓が閉じられて、かわりに扉がゆっくりと開いた。


「どうぞ中にお入り下さい。本会の趣旨はご存知ですかな……サイデン殿?」

 声に似合った小柄な老人が客を迎える。


 自然な仕草で皺だらけの両手を差し出されたので、ダヴィッドは外套を脱いで渡した。老人の背後には木製のカウンターとクロークがあって、先客を思わせる上質な紳士の外套がすでにいくつか吊るしてある。


「分かっています。だからこそこの寒い夜にわざわざ来たんですよ。ただ、初めてなんで、どういう順序で取引をするのか教えてもらえると助かるが」


 ダヴィッドは頭を左右に振って、霧のせいで頭にうっすらとかかった水滴を落としながら言った。

 老人は顔色一つ変えないでうなづいてみせた。


 ご案内しましょう、と口の中でもごもご言うように呟いて、ダヴィッドの外套をクロークに掛けてから先導する。扉はただ門のような役割のようで、クロークの先にはガラス張りの扉があり、小さな正方形の中庭に繋がっていた。


 砂利が敷かれた中庭をとおり過ぎると、正面に装飾のほどこされた石段があり、それを上ると屋敷に入れる古典的な建て構えだ。



 老人に案内されて石段を上り、屋敷に足を踏み入れる。

 それは、正面の建て構えからは想像もできないような豪華絢爛を誇る大エントランスで、天井は高く吹き抜けになり、頭上では巨大なシャンデリアが来客を誇らしげに迎えていた。


「本日は閲覧日になります」

 老人は、本日のおすすめはオニオン・スープですと告げるような平淡な口調で説明した。


「今夜は商品たちをじっくり見物することができます。ただし、まだ触れてはなりませんよ。競売は明日になります……あなた方には一日じっくり熟考する時間があるというわけです」


 それは典型的な競売の仕組みだった。

 異国の珍しいカーペットや骨董品が、同じようなやり方で競売に掛けられているのを知っているし、ダヴィッド本人もそういった方法でいくつか調度や家具を買ってきていた。


「分かりました」

「さあ、こちらが閲覧室になります。商品には全て番号が掲げてありますので、お気に召したものがあれば覚えておかれるとよいでしょう」


 もう一度、分かりましたと繰り返して、ダヴィッドはその閲覧室なる場所に入った。



 そこは、機会が違えば大きな舞踏会がおこなわれそうな広さの、洗練された大広間だった。


 クリスタルの小振りなシャンデリアがいくつも天井に並んでいて、床は輝かんばかりに磨かれており、広間を横切るように紺地に細かい花模様のカーペットが長く敷かれている。

 流行と伝統をほどよく混ぜた洒落た感じの内装で、主催者の懐の豊かさを雄弁に物語ってもいた。


 きらびやかな舞踏会と違うのは、広間の壁つたいに立たされている……子供たちの姿だ。


 フリルのついた、いかにもお仕着せという風な服をまとった子供たちが、壁際に一定の間隔をおいて立たされている。どの子も小奇麗にされていたが、そういったドレスを着慣れていないのは明らかだった。

 サイズが合っていなかったり、ずれたのを自分で直そうとして失敗したのかベルトが曲がっていたり、なんとなくしっくり来ないのだ。


 まだ四、五歳と思われる子もいたし、すでに十六歳に届いていそうな子もいた。

 男女比は半々に思える。老人が言っていたとおり、胸元に番号を書いた布が荒っぽく縫い付けられている。


 怯えた顔の少女もいれば、まるで魂が抜けてしまったかのように無表情な少年もいたが、一様に皆が押し黙っている。多分、そうしているように厳しく言いつけられているのだろう。


 先程クロークで予想したとおり、すでに数人の先客がいた。

 どれもいい年をした紳士で、好色そうな目の色を隠そうともせず子供たちを舐めるように眺めている。子供たちはそんな彼らに極力視線を合わせないようにしているように見えた。


 ダヴィッドは静かに広間の中心へ進む。

 背筋に伝う冷たいなにかと、足元が揺れるような不安定さを感じた。


 ──たとえば、彼らを救ったとして。

 喉が焼けそうで、肺が千切れそうになる乾いた痛みとともに、ダヴィッドは思った。


 ──たとえば明日、彼らを救ったとして、それでどれだけの運命を変えられるというのだろう?


 ただがむしゃらに走っているだけの頃はよかった。周りが見えなくて、金と力さえ手に入れれば世界を変えられるような気さえしていた……。


 しかし今、立ち止まれるだけの場所に辿り着いて後ろを振り返れば、ダヴィッドの手で変えられるものなど多くはなかったのだ。


 それでも、正体のない焦りが、終わりなくダヴィッドを突き動かそうとする。

 助けたい。

 誰を?

 救いたい。

 何を?

 説明のしようのない焦燥感に後押しされて、ダヴィッドは足早に広間を回り、人々が集まり始めたころには会場を後にしていた。


 外に出てすぐに夜空を見上げると、月が輝いていた。

 明日は満月だ──。



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