02
時は三年前に駆け戻る──。
【太陽と月の終わらない恋の歌 O Holy Night 2】
紳士クラブほど胡散臭い場所はないと、ダヴィッドはここ数年思い続けてきた。
中央の大通りに面した建物を一軒まるごと改装した豪奢な構えは、人々の賞賛と羨望を欲しいままにしていたし、そのクラブの名簿に名を連ねることは、ルザーン紳士たちの垂涎の的になっているといってよかった。
壮麗に枠取られた扉をくぐると、支配人がうやうやしく客を迎える。
中には談話室、喫煙室、読書室、カフェ、商談用の個室などが大サロンを囲むように用意されていて、あまり公にはされていないが、上階には賭博場があったし、頼めば娼婦とその為の部屋を用意してもらえるという暗黙の了解があった。
しかし紳士の皮をかぶった栄養過多の男たちが、娼婦の尻を追いかけて羽目を外す姿は、あまり目に優しいものではなく。
ダヴィッドはといえば……。
そういった俗っぽい遊び全般を嫌悪していたが、しかし、その利用価値は知っていた。
紳士クラブのような閉ざされた世界にいると、大抵の男たちのガードが下がる。賭博場のゲームに興奮して、いりもしない秘密をぽろりと喋ったりするのは、よくある例だ。
だからダヴィッドは、大して楽しくもない賭博を時々打った。
ただ、楽しめるか楽しめないかと、勝てるか勝てないかは別らしく──ダヴィッドは今夜も勝っていた。まるでカード・ゲームの女神に愛されているのではないかと思うほど、その夜も勝ち続けていた。
「では、ショー・ダウンです」
ディーラーの掛け声に、マクシム子爵は酒で赤らんだ頬をさらに紅潮させた。
最初は六人のプレイヤーで始まったゲームだったが、最終的に残ったのはこのマクシム子爵と、実業界の寵児・ダヴィッド・サイデンだけだ。
濃い緑の塗料に染められた、革張りの大きな楕円形の机に二人は対峙して座っていて、ダヴィッドから見て右端にディーラーが立って采配を振るっている。
マクシム子爵はダヴィッドより五、六歳ほど年上だったが、甘やかされて育った貴族の子らしく、浮世離れした子供っぽさのある痩身の男だった。対するダヴィッドは、虎のようにしなやかなで躍動感に溢れた身体と、若いながらも世間を知り尽くした瞳を持った、叩き上げの男だ。
正反対の二人が対峙するテーブルには、もはや参加者だけでなく、大勢の見物人が興味深そうに目を輝かせて覗き込んでいた。
「マクシム子爵」
とディーラーが子爵を促した。
子爵は鼻息もあらく、ダヴィッドの顔をうかがいながら、手元のカードを見せびらかすようにテーブルへ並べた。6が3つ、9が2つ揃っている。
「フルハウス!」
見物人の一人が真っ先に声を上げて、大勢の歓声と拍手がそれに続いた。
葉巻とブランデーの匂いが充満する部屋で、男たちは気持ちよく興奮していた。マクシム子爵からハイ・ランクの役が出たことで、特にダヴィッドのような新興勢力を煙たく思っている頭の固い貴族たちは、喜んでいるようだった。
「では、サイデン殿」
呼ばれて、ダヴィッドは静かに手持ちのカードをテーブルへ出した。
その動作はどこか放漫で、負けを認めているようにも見えたから、逆にダヴィッドを応援していた実業家たちは渋い顔をしている。
しかし、
周囲の者たちが皆、テーブルを覗き込みながら目を見開いた。
きちんと扇形に広げられたダヴィッドの五枚のカードは、キングが一枚、そして二が四枚、きれいに揃っている。
こういう時のダヴィッドは、役者だった。
ニッと片方の口の端を上げてみせ、人差し指で軽くカードを叩いて見せると、マクシム子爵の方は見ようともせず、周りの観衆に向けてゆっくりと宣言した。
「フォー・オブ・ア・カインド」
わっと場が沸いた。
ディーラーは冷静な表情を保ちながら、おごそかにダヴィッドの勝利を告げたが、内心では焦っていた。
ダヴィッドはすでに四連勝していて、彼の取り分はかなりの額に膨れ上がっている。彼は個人的にはダヴィッドを好いていたが、ディーラーとしてダヴィッドはあまり有難くない客だ。マクシム子爵が負けた今、彼のいるテーブルでプレイをしたがる客はもういないだろう。
マクシム子爵はヒステリックに豊かな金髪をかきむしりながら、なにやら罵り言葉を叫んでいる。
「なんということだ、くそ、フルハウスだったんだぞ!」
ダヴィッドの方は冷静そのものだった。
机の中央ポットに集められていた自分の取り分を受け取ると、ダヴィッドは素早く席を立って、まだ椅子に座っている子爵の横へ近付いて頭を下げる。
「マクシム子爵、素晴らしい手でした。貴方のようにやりがいのある対戦相手と勝負したのは、本当に久しぶりです」
すると、子爵の顔がぱっと輝いた。
「そうだろうとも! 私は勝負に出たんだ……君のベットはブラッフだと思ってね、最後まで賭けを続けたんだ。何といっても手元にはフルハウスがあって……」
「鮮やかな技でしたよ。最後は俺もヒヤヒヤしました」
「そうかい、そうかい、いや、そうだろう! 実はあの時私は──」
おだてられて機嫌を良くした子爵は、ペラペラと聞かれてもいない自分の手の内を語りはじめた。すでに自分が負けたことは忘れているような感じだ。
どれもどうでもいい内容ばかりだったが、ダヴィッドは辛抱強く、ありがたく拝聴するふりを続けた。
しばらくすると、テーブルを整えたディーラーがダヴィッドに声を掛ける。
「ゲームを続けられますか、サイデン殿?」
「いや、もう充分だよ。俺はこの賭博場が気に入っているんで、破産されたら困るんだ」
ダヴィッドは穏やかに微笑みながらそう答えた。その答えに、ディーラーはますますダヴィッドを好いた。
よく『分かって』いる男だ、と。
ゲームに勝って大金をせしめ、負かした相手さえ懐柔したうえに、ディーラーに恩を売るような真似までするのだから。
おだてに気を良くし、すっかりダヴィッドに懐いてしまったマクシム子爵は、ゲーム終了後もダヴィッドを談話室に誘った。
ここでは、座り心地のよい上等のソファや椅子が何組も用意されていて、よく訓練された給仕がブランデーから珈琲、軽食やフルーツを提供する。落ち着いた緑の壁紙に金色のロココ模様が施され、紳士好みの重厚な調度がそろえられた広い部屋だ。
「それにしても」
マクシム子爵は独特の鼻につく声で言った。
「君たち新興実業家たちの活躍ぶりは日に日に大きくなっていくようだね。私は卑しい生まれの者が金を牛耳り始めるのには反対だが、君のような身分をわきまえた男は好きだよ」
「恐れ入ります」
ダヴィッドは慇懃に答えた。
腹の中は煮えくり返る思いだったが、今それを見せても何の得にもならない。
ダヴィッドが今夜ここに来たのは、ある情報が知りたくてだった──その情報を、きっとこの子爵は知っている。我慢は容易ではなかったが、この努力で何人もの子供が助かるのだと思えば、切り抜けられそうだった。
ダヴィッドは喋り続けた。
「俺たちはひたすら働いて金を儲けているだけです、マクシム子爵。高貴な方々とは違い、儲けたあとの金の使い方を知りません。時々この紳士クラブに来て散財するんですが、いまいち刺激が足りませんね」
「散財! あれだけ儲けた者が言う台詞かね?」
「たまたま運が良かったんです」
「ほう」
喋りながら、マクシム子爵はなにか考えを巡らせているようだった。
ずいぶんと持ち上げられたおかげで、どうやら子爵はダヴィッドに何かを見せてやらねばと思い始めているようだ。段々と核心に近づいてきたのを感じたダヴィッドは、本題に触れた。
「噂ですが……最近の高貴な方々の紳士の間では、新しい遊びが流行っていらっしゃるとか」
「うむ?」
ダヴィッドは声を一トーン下げた。
「幼く美しい子供たちを集めて、売り買いをなさっている、と。主に孤児などを。行き場のない卑しい子供たちですよ──」
子爵は眉を高く上げた。ダヴィッドは続ける。
「そのための閉ざされたマーケットがあり、余程の身分がなければ入れないとの話です。俺も興味があるんですが……この通りの成り上がりですから、入れてはもらえないでしょう」
「興味があるのかい?」
「まぁ、人並みには」
答えながら、ダヴィッドは吐き気さえ感じていた。
貴族が幼女や少年を囲うのは、恐ろしいことに、よくあるのだ。
ルザーンは未だに荒っぽい人身売買が行われることで悪名高かったが、大部分は犯罪者や浮浪者あがりを奴隷として売り買いするもので、こういった特殊な『商品』は極秘にやりとりされている。
本来、ダヴィッドは、それらすべてを嫌っていた。
ましてや幼女趣味など唾棄すべきものに思え、生理的に受け入れられない。年端もいかない、少しばかり綺麗な顔をした幼女を愛人として囲う。考えるだけで虫唾が走った。まともな男のすることではない……。
しかし、世間の需要は多いらしかった。
悪いことだとさえ認識されていないのが現実だ。
特に最近、悪徳業者が違法に、そして大規模に孤児を買い取り始め、それを大きな商売にしようとしている動きがある。ダヴィッドとしては放っておけなかった。全ての動きを止めるのは難しいだろうが、少なくとも幾らかの子供は助けられるはずだ。
ダヴィッドには、そうしなければならない理由がある。
「そうか……そうだな、まぁ、君のように財産があれば、その程度のお遊びがしたくなるのはよく分かる」
子爵の言葉に、ダヴィッドはいくつかの血管が切れるほどの苛立ちを感じたが、黙っていた。
「近々、大きなオークションが行われるらしい。私の紹介だと言えば、君も入れるだろう」
そう告げると、子爵は傍にあった紙に手を伸ばし、短い紹介文を書いた。
文の下にはある住所が記されている。
子爵は紙を二つに折りたたみ、ダヴィッドに手渡す際、淫乱そうな笑みを浮かべた。
「楽しんでくるといい」
ダヴィッドは紙を受け取ると真面目な顔で答えた。
「ええ、盛大に楽しませていただくつもりです」