(終)ぼくの夢、わたしの夢
幼い頃の私の夢。
それは魔王になること。
魔力という私の特性を生かし、へイン兄さんやナイローグをひれ伏させる存在になること。
そういう意味では、ナイローグが私の前に片膝をついているこの状況は夢の実現だ。
……一応、夢の実現ではあるんだけれど。
やっと母さんの説教から解放されて、懐かしい丘の上に逃げてきたと思ったら、これだ。いったい何が起こったのだろう。
「……えーっと、ナイローグ?」
「シヴィル・マデリアナ・アイシャー姫。あなたの手を取る栄誉をお与えください」
「ど、どうしたんだよ、ナイローグ! 手なんていつでも触っていいよ!」
今日知ったばかりの自分のフルネームを初めて呼ばれ、私は動揺のあまり、お世辞にも姫らしくない言葉を口にした。
でもナイローグの端正な顔はにこりともしない。恐ろしいほど真剣な顔で私の手を取り、跪いたまま手の甲に顔を寄せる。
驚いて手を引っ込めようとしたけれど、グライトン騎士団団長さまの腕力に勝てるわけもなく、私は挙動不審なまま、手の甲にかすかに触れるだけの口付けを受けてしまった。
それだけでも頭が真っ白になるのに、鮮やかな青いマントと黒い制服を着たナイローグは、片膝をついたまま私を見上げた。口付けを受けた手は、今なお彼の大きな両手に包まれていた。
「過去、現在、未来の我が武勲と地位、そして生命を全てあなたに捧げます」
「そ、そんなもの私に捧げないでよ!」
「太陽が砕け、月が消え、星が燃え尽きることがあろうとも、私の愛は永遠にあなたのものであり続けるでしょう」
「え、なにそれ? どういうこと? というか、私が独占なんて絶対にダメだと思うけど!」
「……シヴィル。これは定型文なんだから、大人しく聞いてくれ」
「定型文? よくわからないけど、単純明快な言い方をしてよ」
「つまりだな、わかりやすく言えば……結婚して欲しいということだ」
ため息混じりの言葉に、私は思わず動きを止めてナイローグを見た。
ナイローグは私をじっと見上げている。背の高い彼を見下ろすという感覚は素晴らしいけれど、今の言葉は……いやまさか……。
「いやいや、いきなり何を言っているんだよ!」
「……シヴィル、聞いていなかったのか? おまえはグライトン騎士団団長の許嫁として紹介されるんだ。形式だけと言っても許嫁だから、手順はきちんと踏めとエイヴィーおばさんに釘を刺されていただろう?」
「あ、ああ、そういえばそうだった。魔女として雇ってもらうんだった。……でもナイローグにいきなりこんなことされたら驚くよ」
やっと話が見えてきて、私はほっと息をつく。
でもナイローグは一瞬だけ言葉に詰まったように見えた。
どうしたのだろう。どうしてそんなに傷ついたような顔をしているのだろう。
「……そんなに驚くような話だったか?」
「それはそうでしょう? だって子守りをしてくれた人からそんなこと言われるなんて、普通は考えないよ。ナイローグは慣れているかもしれないけど、私は色恋なんて全然縁がなかったんだし!」
「そうだな、普通はあり得ないか」
ナイローグは目を伏せた。
顔まで伏せたから、どんな表情かわからなくなった。
でも私の手はまだナイローグに握りこまれていて、私は非常に落ち着かない。
「ね、ねえ、ナイローグ。そろそろ手を……」
「……あり得ないよな。あいつの妹で、子守もやった相手に何をやっているんだろうな。俺は農夫の子でしかないのに、何を高望みしているんだろうな」
独り言なのか、ナイローグが俺と言っている。
久しぶりに聞いた。発音もランダル風だし、昔に戻ったようで私はなんだか嬉しくなる。
でもナイローグは疲れたようなため息をついた。
「ナイローグ?」
「……俺だって、こんなことは初めてしているんだ。最初で最後のことだから、最後までさせてくれ」
「あ、あのさ、こういうことは本当に大切な人にするべきだよ。ごめん、やっぱりナイローグに迷惑かかりすぎだね」
「やりたくてやっているんだ。よく考えてみろ。王家に連なる麗しき姫君と、形式だけでも婚約できるんだぞ? 騎士としては一生の誉れ。一度は夢見ることだ」
私が一人で混乱しながら謝っていると、ナイローグは真面目な表情をわずかに崩し、見慣れた笑みを浮かべた。
「それに、お前を野放しにしないためなら、俺は何でもするぞ」
「野放しって、私は猛獣じゃないよ!」
「似たようなものじゃないか。とんでもない魔力を持っていて、少しも大人しくしていない。目を離すとすぐに逃げてしまうし、次に何をやり始めるか予想ができない。……情けないが、お前の行方がつかめなかった間、気になって仕事が手に付かなくなっていたんだ。だから……お前は自由に生きていいから、せめて近くにいてくれ。俺相手ではそんな気になれないのはわかっている。だから、形だけでいい。俺のそばにいてくれ」
ナイローグから笑みが消え、片膝をついたまま私を見上げる。
どうして、あんな真剣な目をしているのだろう。どうしてあんな……悟り切った顔をしているのだろう。
やっぱりナイローグの人生にとって、私と形式上だけでも婚約なんて、汚点になってしまったのだろうか。私はそこまで迷惑をかけたくはなかったのに。
申し訳なくて、私はひたすら焦ってしまった。
どうしたら彼の優しさに報いることができるだろう。慌てながら懸命に考えて、腕輪を外してナイローグの顔の前に突きつけた。
「わ、わかったよ! ナイローグの許嫁になるから、これを受け取ってよ」
食糧危機に陥る羽目になった、あの美しい紫色の魔玉だ。金の金具に付け替えて腕輪としていつも身につけてきた。サイズ調整ができる金具をつけているから、たぶんナイローグの腕にもはめられるはずだ。
「これは?」
「私の魔力を込めた魔玉だよ。騎士って怪我が多いんでしょう? これがあれば、少しだけだけど結界魔法が守ってくれるよ」
「私がもらっていいのか?」
「婚約したら、約束の証に物を贈りあったりするって聞いたよ。だから私からはこれ」
「しかし……確か魔玉というものは、非常に高価で貴重なものと聞いているぞ?」
「ああ、うん、確かに結構したかなぁ。でも、これは本当にびっくりするくらいお得に買えたんだよね。たぶん宮廷魔法使いが買うものより品質がいいと思うよ。それより、この色だよ! ナイローグの目の色に似ているから、つい衝動買いしていたんだよね。ずっと前に家賃を立て替えてもらっているし、ナイローグのお守りにちょうどいいと思うよ」
ナイローグは私の手をようやく離した。かわりに、私が突きつけた腕輪を受け取ってしげしげと眺めた。
「私の目の色は、こんな色だったかな」
「そうだよ。あ、でももしかしたら、私は魔力が見えるから普通の人の見え方と違っているのかな。ほら、この奥の方でキラッと輝いているのとか、真っ直ぐ見ると青く見えるのとか、そっくりだと思うよ」
私はそういいながら、魔玉の色とナイローグの目の色を比較する。
ナイローグの黒髪の下にある、紫色の目。
私が衝動買いした、上質の魔玉の紫色の輝き。
ああ、やっぱり同じ色だ。
記憶にあった通りの目の色で、今なお跪いて見上げてくるナイローグの目と同じ色の魔玉だ。
……でも、上から見下ろす紫色の目はあまり好きではない。
昔の私は、ナイローグを平伏せさせたかった。でも、いざ跪かれてみるとあまり楽しいものではない。いいと思えるのは、ナイローグの頭頂部をじっくり観察できることだけだ。
たまにならナイローグを上から見るのは楽しいけれど、私は下から見上げる方が落ち着く。
丁寧な言葉より、いつもの口調が好きだ。
手の甲に口付けされるより、並んで話す方がいい。説教されたり話題をごまかしたり、そんなことをしながら笑い合う方が楽しい。
「……あのね、私の夢を言っていい?」
「魔王は諦めたと言っていたよな?」
「うん、もう諦めた。……だから新しい夢だよ」
私がそう言うと、ナイローグは何か言いかけたけれど、そのまま口を閉じてしまう。無言で私の言葉を待っている。
「私は……最強の魔女として、悪人に畏怖される存在になりたい」
魔王になると言ったのは、ナイローグとの差が大きかったからだ。本当は対等に話がしたかっただけだ。私が彼をすごいと思うように、ナイローグにもすごいと思われたかったのだ。
だから、根本的な趣旨は変わっていない。たぶん。
「それは……グライトン騎士団にいてくれると言うことか?」
「当然だよ。ナイローグと一緒にいないと、最強の騎士団の最強の魔女にならないよ。だから、これからもよろしくね。ナイローグ」
私は笑いかけた。
すると、ナイローグの顔は惚けたようになった。
具合が悪くなったのではないかと心配するくらい長い間、目と口を開いてぼんやりと私を見上げていた。
「ナイローグ? 気分でも悪いの?」
「……大丈夫だ。……いや、大丈夫ではないかもしれないな。お前がそばにいてくれると思うだけで……自分で思っていた以上に重症だったようだ」
ナイローグはそうつぶやいたようだった。それから腕輪を持ったまま、おもむろに立ち上がった。
私が首を傾げている間に、彼は私に腕を回していた。頭が腕に包み込まれて、軽くナイローグの体にあたった。
上から覆いかぶさるように包み込まれるのは、今日は二回目だ。
父さんの場合は、ぎゅうぎゅうと抱きしめられて苦しいくらいだった。
でもナイローグは、私の頭をふわっと引き寄せただけ。首回りも体も開放されているから苦しくない。
すっぽりと収まる感覚は意外に心地良い。
私の頭に触れる手が動き、長く垂らした髪を整えるように柔らかく撫でた。
「言いそびれていたが……お帰り、シヴィル」
ナイローグも普段は村にいない。今回は一緒に戻ってきている。でも私はおかしいとは思わなかった。だって私は村に……故郷に戻ってきた。父さんと母さんに再会した。
だから、お帰りで合っている。
ナイローグに言ってもらうと、帰ってきたことを実感できる気がした。
「……うん、ただいま」
私は全身の力を抜いて、背の高い体に寄りかかる。ナイローグの匂いに包まれながら目を閉じると、子供の頃を思い出した。だから、つい昔のように腕を回して抱きつくと、幼い頃の記憶よりずっと速くなっていく彼の心臓の音が聞こえた。
こんなに鼓動が早くなるなんて、いったいどうしたのだろう。
不思議に思って見上げようとした。でもナイローグに押さえ込まれて頭を動かせない。ムキになって抜け出そうとしても、グライトン騎士団の団長様の腕力に勝てるわけがない。
ちょっと腹が立ったので、もう一度体にくっついてぎゅうぎゅうに腕で締めつけた。すると、なぜかナイローグは急に狼狽えた。
「……もういいから、離れなさい」
「いやだ。まだ離れてあげない」
「シヴィル、頼むから……!」
不思議なくらいにナイローグは慌てている。それが面白くて、私は笑いながら引き離そうとするナイローグの腕にしがみついた。
木の上でカラスが騒がしく鳴き始めた。
遠くから父さんのむせび泣く声と、それをなだめるヘイン兄さんの声が聞こえた気がしたけれど……今は無視することにした。
◇ 終 ◇
本編はこれで完結です。ありがとうございました。