(幕間)頭を抱える男
パズラスが扉を開けて入った時、部屋の主である人物は珍しい格好をしていた。
外出をした時の私服のまま、執務用の机で頭を抱えていたのだ。
この部屋の主であるナイローグは、私的時間と勤務中の時間を明確に分けることで有名だ。職業上、私的な時間に制服を着ていると目立ちすぎるためでもある。
だから、いつものナイローグなら、外出からこの部屋に戻れば速やかに制服に改めている。そしてこの部屋の執務机の前に座ったら、その瞬間から彼の地位にふさわしい表情に切り替えて仕事を始めるはずだった。
なのにナイローグは服を改めないまま、机に両肘をついた姿で頭を抱えている。
弱みを見せていると言えばその通り。
これが他の男ならば、あるいはもう少し隙が無ければ、寝首をかいてその地位に成り代わってやろう!と狙う同僚たちが歓喜していたかもしれない。
しかしこの有り様を見てしまったパズラスとしては、異常事態過ぎて動揺してしまった。これでは同僚たちが気味悪がって執務室に近付かないはずだ。仕事仲間となって十年以上経っているパズラスですら、ナイローグのこんな姿を目にするなんて想像もしていなかった。
パズラスは戸口で深呼吸をして、何度か咳払いをしてから声をかけた。
「あー、えっと、ナイローグ?」
「……何か用か?」
「ああ、よかった。聞こえていた。例の件の準備が進んでいるという報告に来たんだけど」
「……そうか。問題は起こっていないな?」
「一部の野郎どもが無駄に張り切っているくらいかなぁ。もちろん、命令が下ればすぐに行動できるっすよ」
「そうか、わかった」
声だけは冷静なナイローグは、ふうっと大きく息をつく。
のろのろと頭から手を離し、ようやく顔を上げた。それから戸口に立ってままのパズラスに一瞬だけ視線を向け、机の上に広げっぱなしだった書類をざっと集めて片付け始めた。
その途中で、ふと手が止まる。一枚の紙を取り分け、無言でそれに目を落とした。
離れて立つパズラスにはその紙ははっきり見えない。しかし、分厚い紙質と表面の金の飾り文字はわかった。彼自身もつい最近同じ紙を眺めていた。だからナイローグが何を見ているのかはわかる。
ただし、その心情はわからない。思いつめたような目をしている気がして、再び動揺しそうになる。
しかし廊下を気にしながら口を開いたのは、その仰々しい紙の内容についてではなく、全く別のことだった。
「えっと、それから、実はもう一件、用があるんだけど。どちらかと言えば、こっちが本命というか……」
「何だ? また誰かが女の取り合いでもしそうなのか?」
「幸いまだそういう話は聞いていないかなぁ。実は、その……お客様っす」
「予定のない来客は、事務官を通すという規則が……」
「いやいや、何というか、たぶん事務官なんかは通さない方がいい人じゃないかなぁ。身分証はしっかりしているんだけど、しっかりしすぎているというか、はっきり言ってあの顔はかなりマズイというか。……どうぞ入ってください」
パズラスは一人でぶつぶつつぶやき、ナイローグの返事を待たずに廊下に顔を出して小声で招いた。
ナイローグは、珍しい行動に不審を覚えて目を細める。
パズラスの招きに応じて入ってきたのは、頭からすっぽりと外套を被った人物だった。
どちらかと言えば大男の部類に入るパズラスと同じくらい背が高いが、外套越しに見える体型はほっそりしている。明らかに人目を避けている姿は怪しげで、警戒心の強いパズラスという男が手順をすっ飛ばして連れてきた行為が一層不審に思えた。
ナイローグはさりげなく剣に手をかけながら、手元の紙を横に避ける。そしてゆっくりと近づいてくる不審な客の動きを目で追う。しかし身体の動かし方に見覚えがあると気づいた時、予定外の客は頭からかぶっていた外套のフードを外した。
途端に、素っ気のない部屋が明るくなるような華やかな金髪があらわになった。さらりと揺れる髪を手櫛で軽く整え、ナイローグににっこりと笑いかけた顔はびっくりするほど整っていた。
「突然押しかけてごめん」
「……ヘイン……! どうしてここに?」
慌てて立ち上がりながら、ナイローグは呆然とつぶやいた。
ヘインとは同郷の幼馴染みという以上に親友だ。彼が村からほとんど出ないことも、その理由もよく知っている。
そんな親友が、村から遠く離れた都に来るなんて考えたこともなかった。
しかし混乱の中でも、ナイローグの頭の一部は冷静さを保っていた。素早く廊下に出て、周辺に誰もいないことを確認する。それから扉を注意深く閉めて、やっと息を吐いて親友を振り返った。
「お前がここに来るなんて、いったい何があったんだ?」
「うん、それなんだけれど……」
「あ、はい、すぐに退室しますよ。ついでに俺は何も見ていません。とんでもない人にそっくりな気がするなんて、絶対に思いませんから!」
「悪いな、パズラス。あとで説明する」
察しのいいパズラスは、見事な素早さを発揮して退室した。それを見送り、ナイローグは自分の執務机の上を見ている親友を観察した。
ヘイン自身に特別な変化はない。
いつも通りに落ち着いていて、顔色も気配も健康そのものだ。ただ表情はどうだろうか。簡単には心情を探らせないヘインではあるが、長年の付き合いのあるナイローグには若干の違和感があるように感じた。
「……村で何かあったのか?」
「いつも通り、村は平和そのものだよ。ああ、そう言えば君の末の妹さんが二人目を身ごもったらしいよ。子守は任せておけっておばさんが張り切っていた」
「そうか。……ヘイン、そろそろ話してくれ。訳が分からないと落ち着かないぞ」
窓辺に行って、窓の外の気配も探りながらそう言ったが、ヘインは机の上にあった厚手の紙を手にして振り返った。
「ナイローグ。これは遺言状だよね? 日付が今日になっているということは、書き直したところかな?」
「……そうだ。近いうちに私も実戦に出ることになっているんだ」
「君の地位で出るのは珍しいな。しかも、わざわざ遺書を書き直すなんて、よほどの相手なんだね」
「ああ、正規兵や傭兵では全く歯が立たなくて、領主がなりふり構わず泣きついてきた案件だ。魔法使い連中には全面協力させるつもりだが、我々でもどうなるかわからない」
「それでこの遺書? でも内容は……相変わらずだな」
指先でピンと紙を弾き、ヘインは苦笑した。
「君の身に万が一のことがあれば、財産はおじさんとおばさんに半分。そこまではいいんだけど、残りの半分をあの子にって、本気かい?」
「私の両親は農夫だからな。財産なんてありすぎても困るんだよ」
「それでシヴィルに? 他に誰かいないのか?」
「……いないよ。私の財産なんて貴族に比べればささやかなものだが、少しは足しになるだろう?」
「それはもちろん、あの子がどんな生き方をするにしろ、いろいろ入り用があるからありがたいとは思うけどね。でも、そこまで責任を感じなくてもいいんじゃないかな」
そう言いながら、ヘインは紙を机に戻す。
横から見ていたナイローグは、おもむろにヘインの前で片膝をついて頭を垂れた。
「ナイローグ?」
「すまない。シヴィルの行方は全くわからないままだ。手は尽くしているが……この半年以上は動きが全くつかめない」
「やはり君もつかめていないか。まあ、仕方がないよ。あの子は身を隠すことが上達してしまった。……野放しにするとどこまでも飛んでいく子だし、自分の容姿を過小評価しているところがあるからね。余計なトラブルに巻き込まれないことを祈るだけだ。とりあえず、立ってくれ」
ヘインはそう言って、ナイローグの腕を引っ張って立たせた。
半ば無理矢理立ち上がらせられたナイローグは、顔を伏せ気味にため息をつく。
ヘインはそんな親友を見ながら真剣な顔をした。
「正直なところ、私の方が申し訳ないと思っているよ。魔物たちに好かれているから、シヴィルが深刻な状況に陥ることはないと思っている。しかしあの子が無事でも、万が一にもあの子がとんでもないことをしてしまったら……君は出世どころか、首が飛ぶ」
「そうならない事を祈るだけだな」
ヘインの口調は穏やかなのに、立てた親指を首元で横に動かす物騒な仕草をする。
それを見たナイローグは冗談めかしながら苦笑した。
しかしその苦笑もすぐに消え、ため息をつく。その様子に、ヘインは首を傾げた。
「ナイローグ。今、君が思い悩んでいることは責任感からかな? それとも、あの子への個人的な心配か?」
「……両方だ。お前は心配じゃないのか?」
「シヴィルが捕まらないのは、今に始まったことではないからね」
「俺はそこまで達観できないぞ。あいつがまた何かしでかすのではないかと思うとな。こんなことは言いたくないが……正直に言って任務も手につかないくらいだ」
どさりと来客用の椅子に座ったナイローグは、天井を見上げてまたため息をついた。
いつもは鋭い目が、魂が抜けているかのように虚ろだ。その間も、剣を持ち慣れた大きな手を開いては握り込みを繰り返している。見るからに落ち着きがない。しかしナイローグ自身は、自分がそんなことをしているとは気づいていないだろう。
心がここにないのは明らかだ。
では、どこに心を彷徨わせているのか。正確に言えば、誰のことを思い悩んでいるのか。
執務用の机に体重を預けて立ちながら、ヘインは興味深そうに親友を見ていた。
ヘインには、親友の異常の原因はわかっている。シヴィルの事を話す時、厳しい表情を緩め、とても楽しそうに笑うことに少し前から気付いていた。しかしその事をわざわざ指摘してやるつもりはなかった。
たぶんナイローグも、自分の不調がただの心配のし過ぎではないことに気づいている。気付いていても言葉にしようとはしない。シヴィルは六人目の弟妹だと言い張るだけだろう。
彼が言葉にしないのなら、ヘインが口を挟むことではない。
兄としての複雑な心情と折り合ってしまえば、ナイローグの現状は見ていて非常に面白い。鋼鉄のような理性が密かに揺れている様子を垣間見るのも、珍獣観察めいていて楽しいものだ。
そんな親友に気づく様子もなく、ナイローグはまた気の抜けたようなため息をついた。
「……今まで何度も接触していたのにな。無理矢理でも捕まえておけばよかった。後悔しているよ」
「うん、でも君は見逃し続けたよね。あの子が自由に生きている姿は、見ていて楽しかったのだろう? 私もあの子の不屈さは大好きだよ。若いってだけじゃないよね。どうしてあんなに元気なのかな」
ヘインは小さく笑いながら机を離れ、いささかだらしなく椅子に座り込むナイローグの肩をポンと叩いた。
「あの子を見ていたら、息を詰めて生きていくのがバカバカしくなったよ。だから、私はここに来た。これからは君が矢面に立つ必要はない。文句のある連中とは私がやりあうよ」
「しかし……」
「こう見えて、私の神経は図太いって知っているだろう? 権威至上主義者には母さん似のこの顔が有効だし、けっこう楽しめると思うよ」
「……すまない」
「謝るのはこちらだよ。ナイローグもぼんやりする暇はなくなるからね。……私が表舞台に立つということは、シヴィルにも何らかの影響が出てくる。だからあの子を探し出して、しっかり見張ってもらわなければならない」
「そうだな。……まずは今度の任務で生きて戻ってくることだな。腑抜けている場合ではないな」
ナイローグは苦笑しながら立ち上がった。
腰に下げた剣が騒々しい音をたてる。それを手で押さえて剣帯ごと外す。乱れていた髪は両手でざっと撫でつけ直した。
ずっと着たままだった私服を手早く脱いで、見かけ以上に重くて丈夫な制服に腕を通し、剣を帯び直す。ばさりとマントを羽織ったナイローグから、少し前までの人間的なもろさは完全に隠れてしまった。今の彼は、絶対的な強さの象徴そのものだ。そうでなければならない職務で、彼もそうであろうとし続ける。
こういう男だから、シヴィルに頭が硬いとか口うるさいとか評される。常識人すぎると敬遠されつつも懐かれてきた。
黙って見ていたヘインは、親友の前に立って目を合わせた。
「ナイローグ。こんな事は言いたくないが……絶対に死ぬなよ」
「俺だってそう簡単には死ぬつもりはない。だが、状況によっては……」
「駄目だ。絶対に死ぬな。君が職務を優先すると言うのなら、私は死ぬなと命じるよ」
ヘインはナイローグの両肩に手を置き、ぐっと押さえ込みながら顔を近づけてささやいた。
「シヴィルのためにも、絶対に死んではならない。あの子は君がいるから自由に飛び回っていられるのだから」
「ヘイン?」
「だいたいね、あの子を捕まえられるのはナイローグだけなのだから、必ず戻ってきてあの子を村に連れ戻してもらわなければ困るんだよ」
「……そうだな。それが俺の一番厄介で最優先の仕事だったな」
ナイローグは笑った。
その笑顔に、ヘインも笑う。そして両肩から手を離し、軽く握った拳で親友の胸板を叩いた。