エピローグ
待ち合わせの時間にはまだ早かったが、僕は一足先に駅へ向うことにした。
ついこの間まで桜が咲いていたのに、照りつける日差しは夏が近づいている事を感じさせた。
僕は駅へと向かう歩道を歩きながらあの日のことを思い出していた。
駆けつけたパトカー、消防車、救急車の数は数え切れないほどだった。
僕たちは病院に運ばれ、そして警察による事情聴取を何日にも渡って受けた。
にわかには信じがたい僕たちの証言に、担当した刑事も戸惑いを見せていた。
そして気がかりなのは、焼け跡から犯人の遺体が見つからなかったという事だった。
あのすさまじい爆発で遺体の欠片も残らなかったという事だろうか?
あの事件からもう2週間。僕にはまだやらなければならないことがあった。
駅に着くと改札口に彼女の姿があった。待ち合わせの時間にはまだ15分もあるのに、いつから待っていたのか。「早かったね恵、傷の具合はどう?まだ痛むかい?」
「うん、まだ動かすと少し痛いけど、かなり良くなってきてるよ。」
「あの時恵が助けてくれなかったら僕は今頃この世にはいなかった。今こうして生きていられるのは恵のおかげだよ。本当にありがとう」
「ううん、あの時は体が勝手に動いて、気が付けば飛び出してたの。それにあれ以上誰かが傷付くのを見たくなかったのよ」そう言って恵はニッコリと微笑んだ。
「じゃあ行こうか」僕が差し出した右手を、恵が恥ずかしそうにそっと握った。
病院のエントランスに2人の姿はあった。
2人とも元気そうだ。あれから2週間しか経っていないのに2人の姿は何だか大人びて見えた。
4人でエレベーターに乗り8階を目指す。
812号室の前に着くと一人の中年の男性が立っていた。髪は七三にピシッと分け揃えられ、紺色のスーツ姿でいかにも先生といった感じだ。
「こんにちは、初めまして和彦さんですか?お電話でお話させていただいた佐倉雪枝です。今日はお忙しいところお時間作っていただいてありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ、母の為にわざわざお越しくださってありがとうございます。どうぞ皆さん中へお入りください」僕たちは一礼してから病室内に入る。
ベッドの上にやせ細った白髪の女性がいた。
呼吸器を付けられ、点滴や心電図のためのチューブで繋がれたその女性は、眠っているのか目を閉じたままだ。
「大半は眠ったままです、1日に数回目を開けますがそれも数分の事で、またすぐに意識が無くなります。日に日にその時間も短くなっていってますので、医者が言うにはもってあと数日だという事です」
先生が、僕たちの千恵子先生がこんなにも弱々しく小さく見えるなんて。僕たちは口々に呼びかけるが先生は眠ったままだ。
「先生、俺だよ。龍也だよ・・・分かるかい?いつも先生に怒られて廊下に立たされてた富樫龍也だよ。ごめんな先生、ほんとはもっと早く来なきゃいけなかったのに・・・」龍也の目に光る物があった。
──その時
先生の目が少しだけ開いた。意識を取り戻したのだ。
「先生!」「千恵子先生!」「会いに来たよ先生!」
先生は僕たち一人一人の顔を確認するようにゆっくりと目を動かした。口が微かに動いて何かを話そうとしている。だけど、声にはならず掠れた息が僅かに聞こえるだけだった。そして、再び目を閉じてしまった。
先生の目から一筋の涙が流れ落ちた。
きっと僕たちの事が分かったに違いない。ずっと会いたいと願っていた教え子たちに最後に会えて、満足したような安らかな表情に見えた。
それが僕たちの見た先生の最後の姿だった。
「母はよくあなた方の話をしていました。やんちゃな子ほどかわいいという事でしょうか、私も教師をしているものですからその気持ちは良く分かります。出来るなら死ぬ前に一目会ってみたいと。願いが叶ってこれで思い残すことはないでしょう。皆さんには本当に感謝しています、ありがとう。
そういえば今日はあの看護師さんはみえてないんですね。母の事をいつも献身的に診てくれて改めてお礼を言おうと思っていたのですが・・・」
「あ、えと、涼子は今日はどうしても外せない用事があって。それでいつも先生とは会ってるし、今日は私たちに席を譲ってくれたんです」雪枝がとっさに思い付いた嘘でその場を誤魔化した。
いずれ涼子のした行いは世間に知れることになるだろう。だけど今は、今だけはそういう事にしておきたかった。それは4人とも共通した思いだった。
僕たちが病室を去ろうとしたその時、恵がある物に気付いた。「ねえ!みんなあれ!」
恵の指差す先に、窓際のハンガーにマフラーがかかっていた。赤青黄紫ピンクの5色に色分けされたあのマフラーはあの時の!義男の事件があってそれどころではなくなって、どこに行ったのか分からなくなっていたのだけど、先生が持っていてくれたんだ。
バラバラだった未完成の断片は、綺麗に縫い合わされて一本のマフラーになっていた。
僕たちは病院を後にした。次に会うのはきっと先生のお葬式だ。残念だがその日は近いうちにやってくるだろう。
だがその前に、僕にはもう一つやらなければならない事があった。誰にも言っていない、僕が一人でやらなければならないのだ。あの日言えなかった言葉を伝えるために、今は亡きもう一人の友人の所へ。
「じゃあ行こうか貴史!」
「行くわよ貴史、あんた一人で行くつもりだったんだろうけど、そうは行かないわよ!」
「貴史君、ごめんね。電話で話してるところ偶然聞いちゃったんだ」恵が舌を出して申し訳なさそうに言う。
「分かったよ、本当は一人で行くつもりだったんだけど、一緒に行こう!」
天高く日は上り、汗ばむほどの陽気となっていた。
僕たちはさんさんと降り注ぐ日の光の中、その一歩を踏み出した。
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