安全確認:都市研部室前②
かくして、都市研部室前往復実験が開始された。
とはいっても、廊下の突き当りから北側の階段の間を僕がひとりで歩く。ただそれだけだ。
《じゃあ、元気出していってみよー!》
イヤホンから先輩のやたら大きいかけ声が僕の鼓膜をつんざき、無言でボリュームを下げた。
「元気もなにも……」
かつては白かったであろう壁は下へ行くにつれ灰色のグラデーションで彩られ、くすんだクリーム色の床を取り囲んでいる。
なんの変哲もない見慣れた廊下を見渡して、僕はため息をついた。
ちなみに、まがりなりにも先輩を危険から遠ざけることを命題とする僕だ。
先輩はイヤホンで通話しながら部室で待機。
早矢仕さんは記録係として階段の影に身を隠し、リモコンを介して遠隔でシャッターを押す算段だ。
彼女のカメラは、部室の扉にフォーカスしている。
──一回目。
なにも起こらない。
上履き靴の軽々しい足音と、茶々を入れるようなシャッター音だけが響いていた。
──二回目。
「あっ」
《なに!? 出た!? 幽霊ファイター!》
「靴紐が解けました」
イヤホン越しにガヤガヤ鳴り響く文句をスルーして、また歩を進めた。
──三回目。
なんの目的もなく同じところを歩くというのは、こんなにも退屈なものなのか。
幽霊の出現条件である三回目だというのに、なんの感慨もなく足早に歩き切ってしまった。
「早矢仕さん、撮れた?」
撮れたと言っても彼女愛用の丸みを帯びた黒いプラスチックの小箱はフィルムカメラなので、現像しないと写真は見られない。
早矢仕さんは基本的にスマホでの撮影には消極的だし、フィルムのほうがそれっぽいという雰囲気づくりの面が大きい。
「だめだ、赤べろ」
早矢仕さんが渋い顔でシャッタースイッチをカチカチ連打しながら、階段の影から出てくる。
“赤べろ”というのは、その年代のカメラに搭載された、明度が足りなくて撮れないときの表示としてファインダーの中心に表れるマークのことらしい。
カメラを覗かせてもらうと、なるほど中心に半透明の赤いなにかが浮いていた。
「っかしーなー。さっきまで問題なく撮れてたのに」
「フラッシュ焚けば撮れたんじゃないの?」
いつもは本体左側に着いているフラッシュ撮影用のユニットは、いまは取り外されている。
「幽霊が出るかもなのにフラッシュはないでしょ。わかっとらんねーワビサビが」
「自分とこの部室に幽霊が出て侘びも寂びもあるか」
「ねえねえ、なんか出たー?」
先輩が顔いっぱいにワクワクを貼りつけて廊下に出てくる。
廊下をあちこち見まわして、小首をかしげた。
「……失敗?」
「いいえ、成功です。なんもなかった。つまり、この怪談は事実無根、安全ということですよ。誤解を解く文言をジオラマに掲示して、この件はおしまいです」
「まだ階段の謎の液体が残ってるっしょ? 物理的に足を滑らせる危険があるんだから、むしろ一番重要だら?」
……この光画部員、そんなにここを心霊スポットにしたいのだろうか。
自分はいざとなれば光画部室を使えるだろうが、僕らの部室はここだけだというのに。
「階段って、いままさにキミがいたじゃん。なんかあったの?」
「見て見て! ここ! 手形が浮かんでる!」
すでに階段を調べに行っていた先輩が、嬉々として声を上げた。
本当に楽しそうだ。これが心霊現象を期待しての振る舞いでなければ、手放しで喜べるのに。
先輩がぴょんぴょんと飛び跳ねながら指さす天井の隅に目をやると、壁とのつなぎ目に異様な黒ずみがあった。
手形に見えなくも……いや、見えない。これが手形だとしたら、指が六、七本あることになる。それでは怪談じゃなくてモンスターパニック映画だ。
「これ、雨漏りの跡じゃないですかね? つまりあれだ。階段の上が雨漏りしてて、水たまりができてたってことだ」
見れば、その黒ずみの直下の段差にはわずか直径五センチほどの小さな水たまりが残っていた。
早矢仕さんは飲料の類を持っていないから、水をこぼしたというわけではないだろう。
「そうでなければ、あるいは早矢──」
「言っとくけど、言葉を間違えたら殺す。社会的に」首筋に早矢仕さんの息がかかる。
「──昨晩の雨によるものだろう! 間違いない!」
文中では粘液みたいな効果音で描写されていたが、なんのことはない。ただの、ただの水。H2Oだったのだ。
ずいぶん遠回りだったが、この結論には現在僕の肩を握りつぶそうとしているコンプラ監視委員も異論はないだろう。
“足元注意”とでも書いた貼り紙でも用意すれば、アフターフォローも完璧というわけだ。
「なんか……うーん」
先輩はあごに手を当てて甘えた子犬のように唸っている。
不満なのだろう。その気持ちは僕にもわかる。
期待していたような心霊現象は観測されず、蓋を開ければ至極当然なつまらない真相。
しかしこれで都市研が心霊スポットだ、などという汚名を返上できるし、なにより、安全を確認する過程は真っ当な部活動のような雰囲気があって、素直に愉しかった。先輩たちもまんざらではないはずだ。
これから先も同様のイベントが控えていると思うと、遠い駅に置き忘れたと思っていた落し物がカバンの奥から出てきたような、胸のつかえがとれていく心持ちだった。
「先輩、気を落とさないで。まだ怪談はいっぱいありますから」
努めて明るく声をかけたが、返答はなかった。
まるで石化魔法でもかけられたかのように、上ノ下先輩は微動だにしない。
「先輩?」
「どしたんマナち」
ずっと僕の肩をすごい力で掴んでいた早矢仕さんも、黙り込んだ先輩を気遣ってか拘束を緩めてくれた。
そこでようやく息を吸う音がして、彼女が口を開く。
「うん、あのね? もしかしてなんだけど……」
僕らを見据えた黒々ときらめく瞳は、なにかを憂うように少し揺れていた。
「扉の前の女って、丸さんなんじゃないかな」
「は?」
扉の前の幽霊が……丸さん?
都市研正式メンバーであり、僕らの静かなる秘密兵器であり、推定サボり常習犯の読書好き少女が?
幽霊部員が、実は本当に幽霊?
シャレにしたって、あまりにできすぎだ。
「ううん、ちがくて……丸さんって私たちがいると帰っちゃうでしょ? 来ない日も多いし。もしかして来てない日は私たちを避けて、部室に入らずに立ってたんじゃないかなって」
「なにそれ、こわ。アタシは会ったことないけど、そんなヤバいやつおんの?」
「いやいや、待ってください。まさかそんな」
否定しつつも強く出られないのは、先輩が丸さんへの後ろめたさをにじませたからだ。
そしてその空気を吸い込むのに、僕はちょうど忙しかったからだ。
アップル系とフリージア系の香り。うん、先輩は最近シャンプーを変えたのかもしれない。
「そうか……いや先輩、それはあり得ませんよ。丸さんじゃないです」
「どうして?」
「来てない日は、丸さんの匂いはしませんでしたから」
僕はあの香りが好きなのだ。
扉一枚隔てたとて、あの柑橘系のフレグランスを嗅ぎ逃すはずがない。
その完璧な反論を聞いた二人はよほど感心したのだろう。
まるで信じられないものでも見たかのように、僕の顔をまじまじと見ていた。
「あまりにもキショい。死んでくれたらめっちゃ嬉しい」
「月宮君……個性的」
銀河の片隅で、互いの引力を振り切った二つの星が二度と交わらぬ軌道へと逸れていくように、僕と彼女らの距離が開いていく。
とにかく、都市研部室前に心霊現象などなかった。
新入部員が来なかったのは残念だが、誤解を解いて来年の春に期待しよう。
誰もいない、ただの静かな廊下を振り返り、僕は涙をこらえて部室の中へと戻った。




