安全確認:都市研部室前①
「まさか……それで新入部員が来なかった……のか?」
日野という女子からの投稿を読み終えた僕は、脱力して椅子に腰を落とし、頭を抱えた。
新入生の勧誘は形ばかりだった。気の抜けたプレゼンだった。それは事実だ。
それでも新入部員ゼロという結果は予想してはいなかった。
僕は、上ノ下先輩の進級と思い出づくりの足枷にならない程度に、みんなでワイワイできればいいと思っていた。
新入生歓迎会で登壇したりチラシを刷ったりとやれることはやったはずだった。
しかしどうだ。そんな世間体と身勝手のせめぎ合いの結果だと思われた廃部秒読みの憂き目が、まさかこんな突拍子もないウワサのせいだったというのか。
「嘘だろ……? 幽霊? 体調不良? ははは……バカバカしい……」
僕は扉を指さした。「僕らがこうして健康でいることが、何よりの反証じゃないか。事実なら、僕らはいまごろ入院中だよ。その扉を毎日通ってるんだから。ねえ?」
「……」
な、なんだろうこの変な間は。
上ノ下先輩も早矢仕さんも、同意を返してはくれなかった。
……待てよ。そういえば、今日は鍵を開けるより前に二人ともここにいた。
「え? 通ってるよね? え?」
「企業秘密」早矢仕さんがネイルをいじりながらそっけなく言い放つ。
「どこの企業だ。不法侵入と資材の横領で消費者センターに通報してやる」
部長の僕が知らない秘密の出入り口がある……とでもいうのだろうか。
鍵が意味をなしていないとすれば、防犯上の重大インシデントだ。安全だのなんだのと口にするのもはばかられる失態だ。
根が深そうな悪徳企業の問題からいったん目を逸らし、上ノ下先輩に向き直る。
「先輩? ありえないですよね、こんな幽霊なんて……」
「うん、幽霊なのに物理的に強いってのがとってもいいポイントだよねえ。アメリカの幽霊みたい。どんな風に闘るのかなあ」
この人はこの人でなにを言っているんだ。
先輩は頬杖をつき、夢みる乙女のような表情で幽霊の格闘スタイルに思いを馳せ、“闘る”なんていう格闘漫画のキャラしか使わない妙なルビを振っている。
その瞳にはキラキラと暗く深い輝きが差し始めていた。
うかつだった。先輩の発作のトリガーには、怪談と双璧をなす“格闘”があることを忘れてしまうとは。
高校生女子の平均に近い体格をしているので忘れがちだが、彼女の奇行のエピソードには、喧嘩や格闘技絡みの“武勇伝”がいくつも存在する。
その中には日野さんの怪談に登場した伝説の不良“デス崎先輩”がらみの話もあった。もっとも、デス崎先輩というのは都市伝説みたいなものだから信憑性は低い。
自分を出入り禁止にしたゲーセンを潰しただとか、校庭で火を吹くパフォーマンスをしたとか、夢の国のマスコットを噴水に落としたとか、どこかの不良がやったといわれることは全部デス崎先輩の“功績”とされている。
要するに、上ノ下先輩も並び称されるくらいの武勇が認知されているのである。
いずれにしても怪談のほうがマシであることに変わりはない。少なくとも怪我の心配はほとんどないのだから。
そのはずが……怪談から格闘のインスピレーションを受けてしまうなんて想定外だった。
先輩の興味を断ち切る必要がある。そしてこの不名誉な怪談をなんとかする必要も。
「ボツだ」
僕はへなへなと折れてしまいそうになる心をぐっと踏ん張らせ、宣言した。
「この怪談はボツにする」
「は? 放置すんの? 危険が潜んでるのを知ってて隠蔽するってわけ? 職業倫理の敗北だね。この卑怯者。フォルクスワーゲン」
「そうだよお。せっかく教えてくれたんだから、みんなの安全のためにも公表しないと」
二人はまるでコンプライアンスを遵守する会社の人みたいなことを言ってくる。
早矢仕さんはちょっとニヤついてるので、僕が困っている様子を愉しんでいるのだろう。
しかし多数決なら僕の負けだ。これが企業経営の難しさか。社内政治に敗れた者の末路か。
──などと言っている場合ではない。
払拭しなければ……安全であることを証明しなければ。
“都市研の部室前を通りかかると体調不良になるので、近づかないようにしましょう”なんて記載できるものか。
先生とOB諸氏に部長職の休養を言い渡されてしまう。
「わかった! 検証しよう」
僕は立ち上がり、戸を開け、見て、そしてズバンと勢いよく閉めながらターンを決めた。
「──はい、なにもないー。安全確認完了ゥー」
ぱちゃりとシャッターを切り、冷ややかな目でフィルムを巻く早矢仕さん。
「お手本のような手抜き検査。センパイみたいのがいるから建築基準法があるんだね。ヒヤリハット案件」
「なにを見てヨシって言ったのぉ?」
「く……!」
二人が解像度が低い建築業界観を振りかざして僕を責めるものだから、僕は思わず海外のアニメキャラのような過剰な身ぶりで反論してしまう。
「じゃどうしろっていうんだ? ここに幽霊なんていない! 体調不良もない! 階段で転んだことも──」
「ちょい待ち」
早矢仕さんはいつのまにか日野怪談のプリントを拾い上げており、妙に真剣な面持ちで、あらためて読み込んでいるようだった。
「まあアタシもね? 幽霊は知らんけど、なんとなくみんなが避けてるっぽいのは知っとったし。……月宮センパイがあまりにもキモいからだと思っとったんだけど」
「さーちゃん、キモいじゃなくて、こういう場合は個性的っていうんだよ」
コンプラ研修ごっこにハマったらしい先輩は、かけてもいない眼鏡をくいっと上げる仕草をする。
ていうか、先輩にだけは言われたくはないんだ。間違っても、個性的だなんて。
「この“部室の前を一日三回通る”ってのはやってないんじゃない? だいたい放課後に一回来て終わりっしょ?」
「んー、でも、トイレ行ったりとかあ。……二回トイレ行ったことあったかな?」
「マナち、“お手洗い”って言いなよ……」
「一日三回ったって……実際に歩くってこと? なんか……なんだかな」
「え、どうして? どうしてヤなのかね?」
先輩が空想上の眼鏡をかけたまま、僕へと振り向く。
「どうしてって……ほかに選考する怪談もいっぱいたまってるし、そんなことに時間使うのも……」
「どうしてやることがいっぱいたまってるのかね?」
パワハラ上司のような詰問だが、その声色には微笑が頭をのぞかせている。
さらに口元のなにもない空間をつまんで撫でる。口ひげを仮想しているらしい。
なんだか知らないが、ありていに言って、かわいかった。
「そうだー。なにやってたんだー。無為徒食」
カメラマンからヤジまで飛んでいる。僕がなにをしたというんだ。
「そりゃ……まあもうちょっと前から始めてたらもっと余裕があったでしょうけど……」
「どうしてやってなかったのかね?」
「それは……」
僕がなにをしたと、なにをしていたかといえば……。
先月から先週にかけて断続的に興じていた催眠術実験が愉しかったからだというのは、即答するのがはばかられた。
降霊術から派生して、少人数でできる様々な催眠術の類を収集し、祭壇だの天幕だのと大げさな準備をすると、先輩はとても喜んだ。
催眠そのものには懐疑的で僕らがかかることはなかったものの、部屋を暗くして至近距離で先輩の顔や肢体をまじまじ見つめるという日常でまず訪れないであろう僥倖に、僕の理性は逆らうことができなかった。
シャーマニズムにヒントを得て、赤いライトと加湿器を利用して疑似護摩行を敢行したときなどは湿気が部室に充満し、意に反してワイセツな雰囲気になったりとかして、文化祭のことなどつゆほども頭になかったのだ。
「はっきりしたまえキミぃ!」語気の勢いとは裏腹に、優しく机が叩かれる。
「そうだー。謝罪して最新の3Dプリンターを増設しろー」どさくさ紛れの要求も飛ぶ。
「あの、この遊びまだ続きそうですか?」
僕が問うと、先輩は「えっへへ」と仮想口ひげを放棄してドヤりと笑う。
「遊びじゃあないんだなあ。今日授業で聞いたんだけど、五回“どうして”って繰り返すと構造的原因にたどりつくらしいよ。……六回だったかな?」
言いながら先輩は、懐から白く四角い小箱を取り出す。
それはどう見ても、日本人であれば飽きるほど見慣れた、樹脂製の納豆のパックだった。
「……!?」
あっけにとられる僕を尻目に、先輩はパックをパカッと開け、モジャモジャしたなにかを取り出した。
それは紙でできているようで、端を引っ張ると網目状に展開し、いくつかのかたまりがくっついたクモの巣のような形になった。
注視しないとわからないが、かたまり部分にはなにか手書きの文字が書いてあるらしい。
「な、なんですかそれ。まさかとは思うけど……メモ?」
「うん、〈おナットさん〉の付箋だよ。かわいいでしょ」
先輩は身体ごとひるがえして僕に表面を向ける。
納豆をモチーフとしたキャラクター商品らしいが、メモをする部分、つまりキャラクターをかたどった紙片が細かく独立しており、しかも小さく数もそんなに多くない。
メモ用紙としては、まるで実用性がないように見えた。
「おナットさん一人につき三文字くらいしか書けなくて、メモの順番がわかんなくなるのが玉に瑕なんだよねえ」
「授業中なんだからノートにしなさいよ……。これたぶん使う用じゃなくてグッズとして飾る用ですよ。いくらなんでもメモ用紙として小さすぎる」
「おナットさんに対しての配慮が足りないよお! 付箋が小さいんじゃなくて、私が大きすぎる可能性は考えないのかね? もし私がお人形サイズならちょうどノートとして使えるところを、世界にとって大きすぎる私が使わせていただいてる立場なんだよ? それに、パズルみたいで愉しいんだから」
「はあ……」
つまりこの、納豆と世界に対する人間の傲慢さについて諭してくる先輩は、この愛すべきおバカな先輩は、技術の教師が雑談の中で紹介した大企業が取り入れている原因究明メソッドにいたく感銘を受け、自分で活用できるタイミングを虎視眈々と狙っていたとのことだった。
あの「──なのかね?」という話し方は、空想上の大企業役員のモノマネらしかった。
「使いどころを間違えてませんか? せめてなにかミスをしたタイミングで使わないと……」
「だって、月宮君今日は全然失敗しないんだもん」
「“今日は”って、まるで僕が毎日なにかを失敗しているドジっ子のように言わないでください」
「どうしてそんなに愚鈍なのかね?」
先輩とのポップなかけ合いのさなかに突如として重々しい罵詈が投げ込まれ、僕は聞き流すことができなかった。
ファインダーを覗きながら口調を真似た早矢仕さんだった。口元は清らかなまでに微笑んでいる。
「愚鈍て……まさか、ドジっ子を愚鈍と言い換えたのか? キミは世のドジっ子ヒロインを“愚鈍だ”と評しているのか?」
「は? なんでヒロインが出てくるわけ? この世でセンパイただひとりを愚かで鈍いと評しとるだけなのに」
「なお悪いよ! 僕に匿名で誹謗中傷してくるやつらだってもう少し切っ先のまるい言葉を使うよ」
「月宮君、どうしてさーちゃんにはムキになってしまうのかね?」
「あのですね、先輩。気に入ってるとこ悪いんですけど、そのやり方ってたぶん日常では使えないと思いますよ。さっきのやり取りを続けてたら、あやうく僕は「それは僕が無能だからです……」って謝罪会見を始めるところでした」
「ほうほう……どうして無能なのかね?」
もう笑いそうになるのを隠そうともしない先輩にビッシと指さされ、僕は大いに動揺した。
珍しい先輩からの罵倒に傷ついたのではない。
先輩が傷つくさまを愛でる最低の人間であるところの僕が、「罵倒されるのも悪くない」という、さらなる堕落の可能性を見せたことが自分でもショックだったのだ。
「……もう許して……」
早矢仕さんの「指さすのやめなー」という道徳的倫理指導が、ひどく遠く聞こえた。




