安全確認:部室棟階段の上②
ボヤ騒ぎの後のような焦げ臭さと、金属が削れた粉塵の硬質な香りが、およそ二畳の閉鎖空間に充満していた。
換気など望むべくもない行き止まりの踊り場で、僕と上ノ下先輩は、真っ白なホワイトボードをバックにして、コンクリートの床に正座で向き合っていた。
「わけを聞こうじゃないか」
先輩の暴走は、ご存知のとおり彼女の意思とは無関係に引き起こされる。だから、ここで彼女を叱責するのは台風に向かって道徳を説くようなもので、まったくの無意味であることは百も承知だ。
そうとは知りつつも、看過できなかった。
電動工具の専門知識はないが、そんな僕でも安全のためのゴーグルや手袋などの着用は事故防止の観点から容易に想像できる。
「あなた、昨日僕にコンプライアンスの大切さを説いてましたよね? あの職業倫理はどこへいっちゃったんですか?」
「うう、面目ないのかね……」
架空の大企業役員もしおしおである。
僕はこの状況、この突如降ってわいた〈先輩しょんぼりタイム〉の到来に悦びをまったく感じていないと言えば嘘になる。
だがそれ以上に、焦りにも似た感情が先走っていた。
僕が時間を使って骨を折った下準備が無駄になるのは別にいい。先輩のモンスターペアレンツに恨まれるのも構わない。だが大ケガを負って保健室に駆け込んだ結果大事になり、彼女の進級や卒業が危ぶまれるなんてダメだ。
特にケガだけは絶対にダメだ。絶対に。
僕自身、急な轟音と大粒の火花を目にして気が動転しているのかもしれない。これが怒りなのか悲嘆なのか、それとも別のなにかなのか説明できそうにない。
「あのね……」先輩がおずおずと口を開く。
「昨日、“授業を抜け出して、気がついたら屋上にいた”って話したでしょ? そのときもね、やっぱり屋上には鍵がかかってたの。それでね、このドアって両側ともに鍵穴がついてるから、屋上からも開けられなかったの。それで……どうしても開けたくなっちゃって……」
「開けたくなっちゃったかあ。そっか…………え? じゃあ昨日はどうやって戻ってきたんですか?」
「下の窓が開いてたから、雨どいを伝って……」
「なーにやってんですか!!」
僕は右の手のひらで床を思い切り叩いた。コンクリートとビニールでできた床は衝撃を一切逃がさず、想像しなかったくらいのあまりにも綺麗な破裂音とともに、手首から指先までが一気に痺れた。
痛みを悟られないようゆっくりと姿勢を戻し、咳払いをする。
「……トム・クルーズじゃないんですから! あの人は何百億っていう契約と専門の保険があるからいいですけど、先輩のバックには僕とか早矢仕さんとか……せいぜい丹治先生くらいしかいないんですよ! そんなことするんなら、明日から先輩のウエストに命綱つけて、僕が端っこ握って歩きますからね!」
「……うう、よろしくお願いします……っ」
先輩は深々と頭を下げ、後ろを向いて床に手をつき、腰を僕のほうに突き出した。
スカートが膝裏の上で、カーテンのように揺れている。
「……受け入れてんじゃありませんよ! 女の子がなんてポーズ取ってんですか! 先輩女子をひもでつないで校内歩いてみなさいよ、やべーやつらがいるやべー部活だと思われちゃうでしょうが」
「もう手遅れだけどねー」早矢仕さんが警察の鑑識よろしく、刀傷を負ったドアの写真を撮りながら言った。
「で、これどうすんの? けっこうガッツリ切れ込み入っちゃっとるから、さすがにごまかすのは無理だら? 用務のおじちゃんに根回しして、なるべく穏便に済ましてもらうかんじ?」
「い、いや……まだあきらめるのは早い! 似た色の塗料を買ってきて、パテで埋めて塗ればきっと元通りさ! 幸い鍵は完全には壊れてない。だろ?」
僕がそう言ってドアに目を向けた瞬間、カラン、という音とともに金属片が転がり落ち、同時にキィ……と控えめな音がそよ風を連れてきて、充満していたにおいを押し流していった。
「うん、手遅れになったわ、いま」
「…………」
転がってきた金属片を見る。間違いなく、ドアの開閉を一身を賭して阻止していた、錠前のかなり重要なパーツの一部だろう。
厳格に、確実に、誰にも知られずひっそりと、今日も使命を果たせることを信じて疑わなかった健気な鉄扉は、強大で無遠慮な暴力によってその信念、信条、尊厳までも破壊され、無様にも不本意な開放を余儀なくされたのだ。
──ああ、こんな状況で、こんな金属片にまで暗いときめきを感じている自分が嫌になる。僕は口を曲げ、片方の奥歯だけを強くかみしめた。
扉の向こうから薄雲越しの西日が差し、僕は一躍スポットライトを浴びる。
いまこそ、いまこそ観客の笑い声が必要なのに。頼む、いつもの曲のインストゥルメンタルに乗せて、やけに短いエンドロールを流してくれ。
しかしやっぱりここは現実なのだ。待てど暮らせど階段室は静まり返っていた。
そのときだった。
遠くから運動部のかけ声が小さく聞こえる。
それとは別の音が、階段の下から聞こえてきていた。
それは注意せねば聞こえないようなかすかな音だったが、壁からの反響の具合で、発生源は存外近いということがわかった。
――パタス、パタス、パタス……。
なにかを擦るような音だ。階段から聞こえるのだから、おそらく足音なのだろう。
多くの生徒が内履きにしているスリッパの足音とは少し違い、かかとを引きずるような、間延びしたリズムだった。
いったい誰が?
帰宅部ならばとっくに下校しているであろうこんな時間に、わざわざこのなにもない行き止まりにやってくる人間なんてそうはいないだろう。
一人になりたい生徒か、騒音を聞きつけた野次馬か、用務員のおじさんか、生活指導の先生か。
やってくるのが誰であろうと、扉は壊れてしまっている。開いて、外の空気が流れ込んでしまっている。
器物損壊の現行犯だ。
本来であればすぐにでも隠れるべきだろう。どこにって、屋上だ。
先輩がドアを壊したことのペナルティを負うのはまずいし、都市研部員ではない早矢仕さんは、構図としては悪い先輩に巻き込まれただけの被害者だ。
男の子が一生に一度は言いたいあのセリフ「ここは俺に任せて、行け」を華麗に決めて、ドアの向こうへ先輩と早矢仕さんを追いやり、残った僕が来客に対応する。
それが最善策のはずなのに、僕らは三人とも動けないでいる。
日野怪談で語られた、謎の足音。
幽霊を信じているわけではない。しかし、信じていないわけでもない僕たちは、固唾をのんで夕刻の校庭を切り取る窓と、その下の薄暗い踊り場を凝視し続けていた。
やがてゆらりと、黒いかたまりが左右に揺れながらせり上がる。
白い服の肩まで髪を垂らした、女の頭だった。
「やほー。おいすー」
やほー。おいすー。
それが記念すべきファーストコンタクトにおける、幽霊の挨拶だった。




