安全確認:部室棟階段の上①
「あったあった! グラウンドをねえ、運動部みんなでトンボかけたりして、大急ぎでならしたんだよね。その日は外の部活はできなくて大変だったけど、いろんな部が入り乱れてお祭りみたいだったよ」
上ノ下先輩は部室の扉を不必要なまでに勢いよく開けながら、ちょっとした思い出のように述懐した。
部室前の怪談の安全確認──と言えば聞こえはいいが、ただ廊下を行ったり来たりしただけ──の翌日、こんどは部室棟の階段上の怪談現場の確認に赴くさなかである。
三年C組・込谷汰美子によって投稿された怪談のラストでは一昨年の冬、ぬかるんだグラウンドいっぱいに「BAY BAY(原文ママ)」という巨大な文字が刻まれるという、多くの生徒や教員の目に触れる事件が起こっていた。
留年によって現在の学年は異なるが、当時同じく一年生だった先輩は、その出来事を間近で目撃していたのだった。
彼女にとっては「お祭りみたい」という愉しげな記憶として残るそのイベントも、グラウンドが使えなくては困る運動部員や、不要な大事を避けたい教職員には災難でしかなかっただろう。
とはいえ、なにかと騒ぎの多い供米田高校において、その事件は後年まで伝わるほどの話題性を持つに至らなかったようで、翌年以降に入学した生徒である僕や早矢仕さんは怪談を読むまでまったく知らなかった。
しかし無理もない。一昨年といえば、伝承遊び研究部による〈校舎分割領土紛争(通称・ガチ陣取り)事件〉や、我らが都市研究部と手芸部の全面抗争が勃発したという年なのだ。グラウンドのラクガキ程度では話題ランキングベストテンにすら入れないほど豊作の年だったとも言える。
しかも後者の抗争の原因となった人物はいま目の前にいて、僕と早矢仕さんを従えるようにずんずんと歩いていた。
文中にも描写があるように階段は部室の目と鼻の先なので、昨日ハシゴしてしまうことも可能だった。しかし心霊スポットの過剰摂取はかえって発作を誘発する恐れがあるため、「調査は一日一か所だけ」という約束を取り決めている。
あらかじめ目的地が決まっていれば、先回りして下見もできるのでいいことづくめだ。実は今日も、怪談に登場したホワイトボードの実物をシットコム部から借り受けて、現場に設置してある。
学校のない土日をどう辛抱してもらうかが悩みどころだが、いまのところは先輩の体調は「いい感じ」で自他の認識が一致している。
「私は部員じゃなかったけど、よく顔を出してた陸上部やボール部に混ざってやってたんだ」
「……ボール部?」
階段に足をかける先輩に、思わず聞き返してしまった。
ソフトボールでもバレーボールでもなく、ただの〈ボール部〉?
あらゆる球技の共通要素をあまりにもシンプルに冠したその名は、広義すぎてかえって実態を霧散させている。そんな乱暴な命名が許されるのだろうか。
いや、聞いたこともないたぐいの部活が跋扈する供米田高校だ。特定の競技を指すのではなく、ひたすら「球体」そのものを愛でる集団である可能性も否定できないのが、この校風の恐ろしいところである。
あるいは、僕の脳内変換が的外れなだけだろうか。僕が想定している「BALL(球)」ではなく、たとえば「BOWL(器)」、あるいは「BAWL(泣き喚く)」──ひたすら大声で泣き叫ぶ競技に勤しむ部活、なんて線もこの学校なら十分にあり得る。
「ううん、BALLで合ってるよ」
「ちょっと待ってくださいよ。言ってしまえば球技の部活は全部ボール部でしょう。サッカー部やバスケ部を差し置いて“ボール”の名を独占するなんて、そんな傲慢が許されるんですか?」
「それを言ったら陸上部もさ、陸上で活動する部活なら全部陸上部じゃんね。意味わからんよね」
早矢仕さんは無表情でつまらなそうに窓の外を見ながらも、スムーズに話題を拾って広げた。彼女にしてはかなり好意的な会話の応酬だ。
僕は彼女が今日も退屈と不満を抱えていないことを確認できて安心する。基本つまらなそうにしながらもやたらと付き合いのいい後輩(しかも部外者)が、こうして都市研の活動に同行してくれるとき、僕はその機嫌について勝手に責任を感じているのだ。
先輩は踊り場でわざわざ立ち止まり、大きいジェスチャーで空中に円を描いて反論した。
「違うの。あのね、空気の入った透明なおっきいボールに入って、ゴロンゴロン転がるんだよ」
先輩は回転の質感を表現したいのか、その場でくるくると、キングオブポップもかくやという華麗なターンをして見せる。そしてその背中に背負われたリュックサックが遠心力を伴って、階段の一段下に立っていた僕の顔を連続で殴打した。
「へぶッべなッ! ……いってえ……なんなんですかそのカバン? 中になんかめっちゃ硬いもの入ってますよね」
「フフン」先輩はなぜか得意げだ。
「あー、なんか知ってるわ。小岩井牧場にあるやつじゃん?」
早矢仕さんが痛がる僕をまったく無視して、やはり表情ひとつ変えずにボール部の話題を広げる。今日はすこぶる機嫌がいいらしい。
「それそれ! とっても愉しかったんだけど、国内大会が消滅してね、ボールが大きいからそのぶん練習場所もでっかくとらなきゃならなくって……部活もなくなっちゃったんだ。県内には同じ競技の部活がある高校ってないから、自動的に全国大会に出れて、しかも三回くらい勝てば日本一だからお得だったのにねえ。富士山の近くが会場だったんだよ」
「お得っていうか……それはなくなってもしかたない感じですね」
「あ、でもね、世界大会となると話がガラッと変わってくるよ? オセアニアが本場なんだけどね、日本勢が初戦を突破できたことはまだなくて、アジア・オーストラリア地区予選は常に〈死の組〉って呼ばれてるんだあ」
僕はまったく知らないスポーツの話を聞いて、世界の広さに少し感心する。そしてそれを語るのが上ノ下先輩であり、彼女が僕と出会う前のエピソードを語るのを見て、ああこの人にも人生ってあるんだなあと、非常に失礼なことを思っていた。
しかし、消滅した部活か……明日は我が身だ。
部活を設立するハードルが異様に低いことで知られる我が校において、乱立したニッチな部活がそのまま維持されるかというのはまた別の話だ。限られた生徒数や忙しい学業の中で部員数や活動実績を確保できなければ、やがて行き止まる階段のように、学校側による休部措置が待っているのだ。
というわけで階段上の行き止まりにはすぐ行きついた。
放課後の喧騒からは切り離された空間で、ひんやりとしたコンクリートのにおいが鼻をつく。
そこは少し埃っぽい二畳ほどのスペースで、昨日見たままの真っ白なホワイトボードが僕たちを出迎えた。
それ以外は奥の壁に屋上へ続く鍵のかかったドアがあるのみだった。
投稿者・込谷さんが始業前に「避難場所」としていた場所を再現している。
文中で描写された、朝の教室に居づらい心理には個人的に力強く首肯するところだ。僕も同様に朝の時間を部室で潰すことがよくある。
「なんにも書いてないね。もういないのかな、ラッパーの幽霊」
先輩はホワイトボードを一瞥して不満そうに振り返った。
「名前以外ラッパー要素なかったでしょ。バイバイしてから二年も経ってるんですから、まあ、もういないんでしょうね」
「どこいっちゃったのかなあ」
「さあ……幽霊だとしたら、成仏したとか……?」
「ってかさー」
早矢仕さんがどこか忌々しげに踊り場の窓を眺めながら言った。
「ここ片づけることになったのも、どっかのマニアがよくわからん部活作ったからじゃんね」
どっかのマニアが作ったよくわからん部活。
かくいう都市研もその例に漏れないが、いま早矢仕さんが言っているのは、昨日廊下で検証した日野怪談のことだった。
作中に「新しい部活で使用するために、階段上の机やホワイトボードを運んだ」という旨の記述がある。
意図せずピックアップした二編の怪談の体験者が実はニアミスしていたとは、奇遇と言うほかない。
本当であれば日野さんや込谷先輩に詳しい話を聞きたかったが、現場検証とインタビューを申し入れたメールに返信はなかった。やはり「都市研に近づくと不幸になる」というウワサによって忌避されているのだろうか……。
その訂正だけでも文化祭を待たずに発表しておくべきかもしれないな。
「なんてったっけ。シット部?」と、先輩。
「シット部て。シットコム部です……」
僕は昨日の放課後にホワイトボードを借りに行ったときのことを思い出し、くちびるをへの字に曲げた。
シットコム。「シチュエーションコメディ」の略。
主にアメリカのテレビドラマで発展した、特定の舞台――リビングやカフェ、あるいは学校や職場の一室――で、固定されたメンバーがドタバタ劇を繰り広げるジャンルのことだ。
その最大の特徴は、劇中に差し込まれる「ラフ・トラック(録音された笑い声)」にある。
ジョークが決まるたびに、画面の向こう側の観客がドッと沸き、役者はその喝采が収まるのを待ってから次の台詞を口にする。そして最後には軽快なBGMとともに、現実の不安とは無縁のエンディングを迎える。
供米田高校シットコム部は、その様式美を放課後の部室にそのまま持ち込もうとしていた。
部室の扉を開けた瞬間、大きなスピーカーから拍手と歓声が鳴り響くようになっており、見えない観客のリアクションが収まるまで数秒間ドヤ顔で静止しなければいけない、という部内ルールに従うのはなかなかの恥辱だった。
「たまに聞こえるザーッって音、それだったんだ。どっかの放送用のスピーカーが壊れとるのかと思っとったわ」
早矢仕さんは電灯のスイッチを入れ、あいさつ代わりとばかりに二回シャッターを切った。
そしてなにかに気づいたようにファインダーから目を離し、思案するようにしばし中空を見つめた。
「どうした? 心霊写真でも撮れた?」
「いやさ、うちも導入しようよ、そのラフトラックってやつ。センパイがまたキショキショムーブかまして、そんであたしがキレてボコボコにしても、爆笑が流れれば後腐れなく流せそうじゃん? 不起訴っしょ?」
「有罪だよ。痛みと傷は残るんだよ。コメディを法の抜け道に使うな」
「あははははは!」
完璧なタイミングで笑い声が差し込まれた。しかしここは現実世界だ。陽気な観客などいない。
その高笑いは愉快さよりも切迫感を感じさせる。
僕は慌てて振り返る。数パターンの深刻な事態の想像が瞬時に脳裏をよぎっていた。
そして声の主はもちろん、さっきから僕の視界の端でゴソゴソとなにかしていた上ノ下先輩だ。聞き間違えるはずがない。
彼女が同じように高らかに笑うのを聞いたことがあった。昨年文化祭のお化け屋敷で僕の二の腕を握りつぶしたときだ。
「せんぱ──」
僕の呼びかけはけたたましい機械音にさえぎられた。
歯医者で歯を削る機械の音を何倍も大きくしたような、悲鳴にも似たモーター音が上ノ下先輩の手中から鳴り響いていた。
先輩が握り込んだ器具の先端で、手のひらサイズの円盤が高速で回転する光景が目に飛び込んでくる。それがなんなのか理解するより先に、円盤は屋上へと続くドアの隙間へと吸い込まれていった。
ギュイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!
狭い箱状の空間が、巨大なセミが今際の際に叫んでいるような轟音で満たされた。
壁や天井で反響し耳をつんざいたが、それより驚かされたのはドアと円盤の接触部分から放たれる大きな火花の滝だった。
そのまぶしい閃光を目にした瞬間、僕の頭を駆け巡る「不祥事」「停学」「留年」「廃部」の文字列たち。
──なんだかとにかくよくないことが起こっている!!
僕は目が回るほど混乱しながらも早矢仕さんを背中にかばい、先輩の背後から伸びる太いケーブルの先、いつの間にかコンセントに差されていたプラグをあらん力で引っぱった。
「だっしゃァア!!」
電源を失った円盤は回転を止め、機械音も止まる。
入れ替わるように、轟音にかき消されていた上ノ下先輩の笑い声がぐわんぐわんと余韻を響かせる耳に再び聞こえていた。
「あっはははははははは! ……はあー。やっちゃった」
先輩の笑い声は、摩擦熱で焦げついたドアの傷を無かったことにはしてくれないようだった。




