涙は流れ、線を引く
【『居法淋』 慶朝初期の成立。片徐帝(藍銅)により編纂、前朝から慶朝の演劇・歌劇の総体といわれる。】
その日の景楽街は騒がしかった。そこらの見世物小屋や売春宿の店主が顔を出し、街の入り口を窺っていた。こそこそそこを眺め、何やらつぶやく。「おお怖い怖い」「黒の髪だよ」「どうするんだい、あれはどの店主が殺してくれるんだい」
黒髪の十をいくらか重ねた少年が、ゴロリと転がっている。少年は体中に汚物を被っていて、動く気配を見せない。少年の横のたて看板には『光国一番の歓楽街 愉しみと恐怖の街景楽』と赤字で書かれていたが、歓楽の部分は誰がしたのか茶色いもので罰印がつけられ、犬と書かれていた。
「汚物をかぶせるくらいなら、殺してほしいよ」「臆病者」、汚物の掛けぬしに文句が飛ぶ。店主といっても皆やせ細り、骸骨のように見える。
その店主の不機嫌に怯えて、店のものは皆置くに引っ込んでいる。
やがて、黒髪の少年に近づくものが現れた。景楽街での残酷ショーの一番手コウライが手下の大男を伴って現れたのだ。なにやら遠巻きに少年を眺めて、コウライが手下に黒髪の少年を指した。手下は身を引いて、何やら言うが、コウライは無表情に首を振る。口元はコロセと動いているようだ。手下の顔が引きつり、怯えたように一歩下がる。それに、観衆は舌打ちして首を振った。コウライの手下の大男が力が強いだけの臆病者だということは周知の事実なのである。痛い思いは嫌なので、命令されたら動くが、極端に怯え症なのだ。コウライの顔が怒りに赤く染まる、繁みのような茶色い眉がぐうと上がり、口が怒鳴る寸前、ピクピクうごめいた。そのとき、彼らの後ろから人影がニュッと現れた。小さな人影はあっさりと二人の領域を超え、少年に近接した。
「誰だい?」「あれは確か」「瑠璃劇団の興行主だよ」「あんなに小さいのに?」「名目は父親がやっているんだ」「でも、芸人の躾けはあのこがやっているんだい」「腕はいいと評判だよ」「生まれながらの嗜虐者」。
少年の汚物にまみれた顔を、自らのマントで拭っている。そして顔を確認し終えたのか、小さくうなずいた。
小さな人影は立ち上がり、野次馬に宣言した。
「この子は私の劇団が拾う。手出しはするな」
そして何を思ったか、その場で華麗に一礼して、「来週から物珍しい黒の髪を持つ珍獣が舞台に踊ります。どうぞ瑠璃劇団をよろしく」と言った。
遠くから半身を乗り出して見つめる下種どもに、うすく笑いかけるのだった。
イワは自らの劇団に少年を引き摺って行く。景楽街は大きな町である。光国の市民層が滑り落ちた先、転落の末路がここになるわけで、しだいと町は巨大になっていった。一般の売春宿の遊女などへは「犬街へ落とすぞ」が脅し文句だ。景楽街へ落ちると、性は売り物ではなく、玩具になってしまい、女は虫を体に飼って独自性をアピールする他なくなる。女の場所に動物を飼うのも流行した。イワの劇団瑠璃はそういった下劣な趣味から一線を画すものだ、客観的にそれが街の認識だ。随分と昔からある、伝統のある店で、固定客もいるので商売は上々。
イワもその立ち位置に満足している。下劣な人間というものは、時折なにか下劣ではない趣味というものに触れたくなることがあるのである。普段は少年の体を切り刻んだり、女の子供を奇形児にするために色々遊んだりする人間が過去のことを考えてみたり、読めもしない書物を捲ってみたり。
瑠璃劇団は少年少女の劇団である。といっても少年少女は暴力に虐げられる哀れな子供ではあるが。瑠璃劇団は少年少女の淡い恋、冒険そういうものを上演する。といってもそれだけでは客は入らないので、結局のところ少年少女はセックスする。
イワは考えるが、結局景楽街の人間はそれにつなげないと、なんというか現実味がわかないのだ。何やかんやちょっとした事件を起こして、色々して、結構な終幕を見たと思ったら、結局これは何だったんだなどと言う。最後にセックスさえさせておけば、ああこれは愛の話だったのだと分かる。よく客は俺たちもこんな時代があったなどというが、まぎれもない虚偽である。完全に偽っている。それに近い経験があったとしても、盗みを働いていた時分に入った家に自分よりも随分小さな女の子がいて、その子をレイプしたとかそういうことなのだ。しかし、瑠璃劇団は脈々と続いているので、そういう需要はあるのかもしれない。イワは記憶違いするという感覚が分からないが、大抵の人間は物を覚えるということをしないのでそういうものかとも思う。
少年は時折呻いたり、つぶやいたりしている。引き摺る手に迷いはおきない。自分で歩いてほしいが、逃げられると困る。劇に出すと宣言したのだ。
思いついて、傍らのジェイへと声をかけた。
「これに噛みついて、引け」
ジェイは汚いボロ犬だ。灰色の毛は所々抜けているし、顔は均衡が全く取れていない。耳はなぜか千切れている。それでもこの犬、魔術が使える。大の大人三人程なら完全に伸せてしまえるのだ。この犬を使役するのはそれなりの代償がある。魔術を使えるものを使うということに対する犠牲である。イワはこの犠牲を一度も語ったことがないので、知る者はいない。そしてイワは自分のものに対しては、徹底的に痛めつけるのを生業としているので、このボロ犬の襤褸さ加減はすべてイワの折檻が原因である。
ジェイはおとなしく命令に従った。カフッと空気の音がして、少年の柔らかそうな白い肌によ犬の歯が刺さった。余り音がせずに、のめり込む。血がとぷっと湧く。
「力を入れるな」
ジェイの頭を蹴ると、少年が呻いた。イワが少年の顔を眺めると、少年の瞳からは滔々と涙が零れ落ちていた。汚い顔に涙が線を引いてゆく。顎から滴った透明な水がたらたらと地面に落ち、イワは首を傾げた。地面にしずくのあとがひく、汚い地面に青い線が引いた気がした。
少年の涙が普通の水のように見えなかったのだ。




