第八章 ある夜の物語
「ありがとう、お父さん。私、今夜のことはけして忘れない。一生の宝物にする」
お父さんはコクリと首を一つ縦に振って「生まれてきてくれてありがとう」と笑い、輪郭をぼかした。
お父さんの体は人の形をなくし、炎のように無定形になって青く輝き、窓の外で慈愛の目で遠くを見つめる氣燐の角に吸い取られた。
氣燐は「ボオオオオオオオオーッ」と船の汽笛のように一つ鳴いてゆっくりと窓を横切った。
お父さんは逝ってしまった。
私はお父さんの描いていたキャンバスを覗いてみた。
そこにあったのは私たちの家の絵。
物語の中であれほど幻想的な光景を生み出したお父さんが最後に描いたのは私たちの生活の詰まった何の変哲もない家の絵だった。
それが嬉しくて胸が熱くなった。鼻の奥が痺れた。目が潤んだ。でも泣かなかった。
グッと唇を噛んで私はニコリと笑ったんだよ。
けたたましく鳴り響く甲高い電子音に心臓が跳ね上がって飛び起きると、頬が引っ張られてバリリと音がした。
机の上には破れた科学雑誌。
バラ星雲が引き裂かれていた。
キョロキョロと辺りを見渡す。
本棚に囲まれたこの見慣れた部屋は、お父さんの書斎だった。
「戻ってきたんだ」
つぶやいてスカートのポケットからケータイを取り出した。
着信はお母さん。
私は瞬時に全てを理解した。
通話ボタンを押して耳に当てる。
「……うん。……そう。分かった。私もタクシーを呼んで今から行く。……うん」
答えて通話を切った。
お母さんは涙声だった。
そして私もなんだか悲しくなった。
けれども大丈夫。お父さんは私たちに心を残していくと言った。だから大丈夫。
私たちは肉体が離れてしまっても心はいつも一緒で、どこまでも、限りなく、未来永劫の家族なのだから。
そうでしょう? お父さん。
窓を開けると秋の夜の冷たい風がカーテンを揺らした。
空には一等星がぽつんぽつんと見える程度。
それでも良い空だ。敬服する。
昨日も、今日も、そしてこれからも、どうか変わらずにこのままであって欲しい。
お父さんが私に託した物語、ぼんやりと結末が見えてきた。
――ある夜の物語―― 完




