Ⅵ
夕方から降り始めた雨が、夜半になって強くなった。
店には、俺以外の人間はいなかった。
客足が悪いのは、雨のせいじゃない。雨で客足を心配するほどの店じゃないからな。
木曜日の深夜。
「金曜日、5丁目のゲーセンで売人が商売するはずだ」
俺は、大貫から得た情報を安田に流した。
明日は、5丁目で一人の売人が逮捕されるはずだ。
安田や棟方は、内偵で歩き回っているだろう。もしかしたら、5丁目に張り込んでいるかもしれない。
今日は、もう閉めて帰るか。
そう思った時、安田がひょっこり顔を見せた。
聞き込みにでも来たのかと思ったが、安田は一人だった。
「なんだ、今日は忙しいんじゃないのか?」
「いつもと変わらんさ。今日は今日。明日は明日だ。これでも公務員なんでな。明日の仕事は明日の為にとっておく」
よくわからない理屈を言いながら、安田はカウンターの椅子に腰を降ろした。
「水割りでも出してくれや」
安田は、タバコを胸ポケットから取り出しながら言った。
「今日は、もう上がりか」
「そう言うことだ。たまには、こ汚い店で酒でも飲もうかと思ってな」
「こ汚い店でも、酒は上等だ」
俺は、安田の前にシーバスのボトルを置いた。
タンブラーとロックグラスを、カウンターに出し、氷を放り込んだ。
「なんだ、お前さんも飲むのか」
「俺の店の酒だ。俺が飲んで何が悪い」
安田は、苦笑いをした。
水割りを一口飲んで、安田はタバコに火を点けた。
安田は俺に、COOLの箱を差し出した。俺は、遠慮なく箱から一本タバコを取り出し、火を点けた。
暫らく、二人で黙ったまま紫煙を吐いた。一本目のタバコを灰皿に押し付け
「お前さん、大貫と関ってるんじゃないだろうな」
安田は鋭い視線を、俺に向けた。
「関りなら、いつも通りだ。あいつは借金の取立てに来る」
安田は、二本目のタバコに火を点けた。ため息交じりの煙りを吐き出しながら
「何かあるなら、止めておけ」
安田は言った。
「何も無い」
俺は、安田から顔を背けて煙を吐き出した。
「あいつの今度の取引先は、恐らく中国系のマフィアだ」
「知らんさ」
「いいか、俺はお前がこの街に来た頃から知っている。俺だって、昔馴染みがヤバイ橋渡るのを黙って見てる訳にはいかん」
安田は苦い顔をした。
「別に、何も無いさ」
俺は、少し笑って答えた。
安田は、諦めたようなため息をついた。
「本当だな」
そう言って、俺の顔を見つめた。
「ああ。何も無い」
俺は、ロックグラスのシーバスを舐めながら笑って言った。
安田は、深くため息をついた。
暫らくの間、俺達は沈黙した。
「あのボウヤ、よく来てるみたいだな」
安田は話を換えた。
「ああ、音楽好きらしい。棚のレコードに興味津々だ」
「そうらしいな。いつも、お前さんのことを話してるよ。俺にゃ何の事かわからんが、ロックがどうしただとか、お前さんにギターを教えてもらうだとか」
「そうか」
俺は、棟方が親子以上に歳が離れたこの老刑事に、音楽を語っている様を想像した。
わからないことを無視して語る棟方に、安田は生返事で答えるのだろう。
棟方は、子供みたいだ。
「若いのになつかれるのも、悪くはないだろう」
「ふん。煩いだけだよ。俺はもう、ギターなんかとっくにやめちまった。今更、ギター教室なんてやってられんさ」
「こんばんはー、よく振りますね」
唐突に明るい声がした。
「あれ?安田さんじゃないですか」
屈託の無い笑顔で、棟方が現れた。
「なんだ、ここに来るなら誘ってくれたら良かったのに」
棟方は、傘を畳みながら安田に言った。
安田の隣に椅子に手を掛けながら、カウンターの隅で視線を止めた。
「これ、ターンテーブル!」
オーディオセットに目ざとく気付いた。
満面の笑顔で、棟方は俺を見た。
「これ、使えるんですか?」
「ああ、壊れちゃいないよ」
「じゃあ」
棟方は、座りかけた腰を上げ、棚に向かった。
「聴いても良いですか」
「勝手にしな」
俺が想像した通り、棟方は嬉々としてレコードを選び始めた。
その様子を、苦笑い混じりに安田は窺った。
「そんな、騒々しいのは俺にはわからんがなぁ」
「安っさんは、ビートルズ世代じゃないのか?」
「ビートルズは聴いたよ。だが、お前さんが集めてる棚の奴は、ビートルズと違って、騒々しいよ。俺は、今は演歌一筋だ」
安田は笑った。
「ビートルズは、確かにロックの基礎だとは思いますけど、テクニック重視じゃないし、僕にはどちらかと言うと、ポップロックに思えます」
安田は、俺に肩をすくめて見せた。
確かに、ビートルズの出現は、現代の音楽に衝撃を与えた。ビートルズ以前と以降ではロックの種類も違う。リバプールの4人組が現れなかったら、もしかしたら、ハードロックも生まれなかったかもしれない。棟方の見解は、音楽が溢れている時代に育った者の意見だ。
「しかし、棟方よ。お前の家は公務員だろ?」
「そうです。両親とも教師ですよ」
「そんなお堅い家庭で、ロックなんて、よく親が許したな」
「それは、時代錯誤ですよ。安田さん。音楽くらい自由に聴けます。まあ、家の場合、母親が音楽が好きなんで子供の頃からUKロックや、ハードロックは聴いてましたけど」
棟方の母親って言うのは、それでも、珍しい類の人間だと思った。教師の家庭を誹謗するつもりは無いが、安田の言うように両親とも公務員ならクラシックの方が似合いそうだ。
行儀良く、かしこまった家庭を想像した。
「母親がギターを買ってくれた時は、さすがに両親は好い顔はしませんでしたけどね」
「母親だろ?」
安田は首をかしげて聞き直した。
「ああ、僕、叔父夫婦、つまり母親の兄夫婦に実子として育てられたんです。安田さんに話した事なかったですか」
「初耳だ」
「別に、伏せてるつもりは無いんですけど。事情があって、母親が育てるより、子供がいない叔父夫婦に育てられただけですよ」
棟方はレコードを選びながら、屈託無く言った。
「そうか、お前も苦労したんだな?したようには見えんが」
「普通です。普通に育てられたから、別にグレたりもしなかったし。思春期に普通に反抗期があったくらいで」
棟方の言う事は、本当なのだろう。
棟方は、両親と、母親に愛情を注がれて、育てられたのだろう。それは、今の棟方を見ればわかる。
「じゃあ、親父さんはどうしたんだ?そんな事聞いちゃ悪いか」
棟方は、レコードを一枚手に取り、カウンターに戻ってきた。
「事故で僕が生まれる前に亡くなったらしいです。だから、父親の顔は知らないんですけど、父親は」
棟方は、俺の顔を見た。
「ギタリストだったんです」
自慢げに俺に向かっていった。
「へえ、そうなのか」
「どうせなら、そっちの才能が遺伝してくれたらよかったのにな」
俺は、棟方の言葉に、軽い衝撃を受けた。
父親がギタリスト。母親は、父親が死んだ後、一人で子供を産んだのか。
突然、頭の中で、何かが破裂したように、記憶が溢れ出して来た。
去っていった、女の顔。
俺が愛した女。
彼女は、あれからどうしたんだろう。
彼女の名前は、
ムナカタ。
その名前に、俺は確かに聞き覚えがあった事を、今更ながらに思い出した。
確かに、その名前を、俺は知っていた。
棟方の名刺を見た時の、軽い違和感が蘇る。
俺の心臓が、今までに無い程の勢いで血液を押し出していた。
「これ、聴いてもいいですか」
棟方は、俺の返事も聞かずに、オーディオの電源を入れた。
ヨウヘイ。俺と同じ名前。
こんな、偶然ってあるか?
棟方はターンテーブルに黒い円盤を乗せた。
ギタリストの父親。
俺は、酷い動悸に立っているのがやっとなくらいだった。
スピーカーから、ポーカロのドラムが鳴る。
ハンゲイトのベースがドラムに重なる。
母親の名前は、
あの時、彼女はなんて言った?
スティーブ・ルカサーのギターが響く。
「お袋さんの名前、は?」
擦れた声で、俺は棟方に聞いた。
キンボールの清涼感のある声が音に重なった
「ゆうこ、ですよ。木綿に子供。珍しい字でしょ」
“Meet You All The Way ROSANNA”
あの頃、二人でよく聴いた曲。
彼女が好きだった曲。
忘れていた過去が、一気に開放される。
光。
影。
あの頃の街並み。
テレビで流れていたニュース。
仲間達。
音楽。
そして、あの日の伏目がちの笑顔。
あの時、彼女はなんて言った。
「病院には、一人で行かせて」
そして、彼女は、俺の前から姿を消した。
頭の中を彼女の顔がぐるぐると廻る。
俺は、立っていられないくらい、眩暈を起こした。