大海たちよ歌いたまえ
「帰ろう。大丈夫。エンラさんが──竜帝がいるから道はある。何をどれだけ壊しても、姉上たちが守ってくれる。ナデシコもすごく心配して、姉上にまで怒ってた。だから、今度こそ」
ネオンはイウリィを抱き寄せ、アンナリーゼに頭を預けながら言った。人智を超えた破壊をもたらしたばかりのものとはとうてい信じられなくて、けれど二人にとっては、彼女はやはりネオンなのだと実感させるもので。
イウリィはネオンの背中に手を回す。涙が滲む声は、安堵と安らぎに満ちていた。
「ネオンさま。──はい、帰りましょう。離宮に、ナデシコさまも一緒に」
「ああ。君が海に帰るときまで、一緒にいよう。……リズ姉、リズ姉も」
イウリィを包んでいた声が、末妹としての色に変化する。
ネオンにアンナリーゼと過ごした記憶は残っていない。それでもなお消えなかった信頼と安堵が、アンナリーゼの姿を見て一気に確信へ変わる。ずっと会えなくても、この人はずっと私の姉でいてくれたのだと実感できた。
「リズ姉、ごめんなさい。私だけリズ姉のことを知らなかった。リズ姉も私を守ってくれていることも知らずに生きていた」
「……ちがう、ネオン。拙が、拙が、黙っているようにと、願ったから」
アンナリーゼの声が震える。まだ戦場にいるのに、自分が戦場の中で制御を失うのはありえないと理解しているのに、声が震えた。
ネオンの言葉に、アンナリーゼの記憶が開く。先王に売られ、姉妹に会うことはもはや叶わず、けれどありもしない希望に縋って、空虚に生き続けていたときの記憶が蘇る。
傷だらけの姿で笑い、呆然とする自分を抱きしめてくれたクエリの姿が。クエリによって密かに連れ戻されたシュトラルで、自分の顔を見た瞬間に大声をあげて泣き、左右から抱きついてリズ、リズと呼んでくれたウルミアとミラリスの姿が。
弑虐の後に天導教に戻ったのは、都合が良かったからだ。
クエリならどうせ天導教に喧嘩を売ると思った。天導教が自分の裏切りを察知することは不可能だったから、堂々と動いて情報を流し続け、実際に事を構えた瞬間にイウリィの保護も担えた。
──けれどシュトラルに戻らなかった理由は、実益だけではない。感情がアンナリーゼに帰還を許さなかった。先王の葬儀を終えて、声を失い虚空を見つめていたネオンを見て、自分の存在が妹を砕くことに耐えられなかった。だから、都合が良いという言い訳に逃げていた。
閉ざされていた地下に降り注いでいる陽光と、軽やかな空気。地上ごと地下を砕く、天災よりもなお荒れ狂う暴威の姿。自分たちを抱き寄せて、帰ろうと促す声。
実感した。ネオンはもう、声を失っていた子供ではない。姉妹のもとへ帰るべき時がきたのだと、理解する。
「ああ──拙も、こんなところには飽き飽きしていた。ありがとう、ネオン。迎えにきてくれて。やっと、拙も帰れる」
「うん。もう絶対、いなくならないでね?」
アンナリーゼが引き寄せれば、ネオンはより強く身体を委ねてくる。
姉妹がそうしていたのはたった一秒。ネオンは顔を上げて、イウリィをアンナリーゼに託すと、影から橙色の戦斧を取り出して廊下の奥に警戒を向ける。
ネオンの反応に促されて、アンナリーゼも視線を動かす。教皇が杖をついて、茫漠な気配の只中に立っていた。
「──あれは」
ネオンが呟いた。教皇へ向けた嫌悪と否定がこめられた呟きは、見て取れるほどの異質によるもの。アンナリーゼが不死を伝えようとした途端、ネオンの口からも異変が紡がれる。
「フレア。口だけ使っていい。音で聴きたい。流石に中だと処理できない」
矢継ぎ早に繰り出される言葉。直後、まるでウルミアとミラリスが同じ声で言葉を繋いでいくように、けれど二人と違って交代が見て取れるほどに異なる人格が話し始める。
「おかしい、あれは何かが絶対におかしい。私たちが認めていいものじゃない。──ああ。あれは、冒涜だ。おぞましい。何が、どこが、いや、まさか」
ネオンの声に恐怖はない。けれどあまりの嫌悪と背徳の寒気に、戦斧を握る手が震える。教皇はネオンの目線をしばらく観察した後に、自ら反応を見せた。この男にしてはあまりにも例外的な、情動の気配がある行動だった。
「……混ざりもの。いや、混ざってすらいないのか? 人と王冠持ちが共生するとは、何があればそうなるのか」
「っ──ネオン、殺せ! 殺せばはっきりする!」
自分の声に促されて、ネオンは教皇の腹を裂いた。確かに命を奪ったのに、その手応えは人のものではない──どころか生命とすら、思えない。
「……やっぱり」
教皇を殺して、即座に呟いたのはネオンだった。ネオンは惑い、動けずにいたアンナリーゼとイウリィへ、強張った声を差し出す。
「リズ姉、イウリィ、一回外に出よう。あれは駄目だ」
「あ──ああ、そうしよう。けれどネオン、今何が?」
「あー……ちゃんと話すと長くなっちゃうんだけど、色々あってハルピュイアの王冠を預かってて、王冠の主の意識も私の中にあるんだ。さっきは口だけそいつにも使わせてた」
「ネオン。今は詳しいことは聞かないから、後ですべて拙にも教えるように」
「うん、話す。ちゃんと話す」
アンナリーゼからすれば、今が戦場でなければ意識を手放したいほどの衝撃も、ネオンは世間話のような軽さで扱う。アンナリーゼもネオンが暁を討伐していたことは知っていたが──目を離していた間に何があったのか恐ろしくて仕方なかった。
「……ネオンさま。あの男が何なのか、ご理解されたんですか?」
イウリィは不安げに、けれどネオンへの信頼をこめて問いかけた。ネオンは自分が貫き、作った瓦礫の山を先導しながら、たぶんと前置きして頷く。
「砕けて、溶けて、混ざって、腐ってた。──私とフレアの印象だけど」
人に使うものではない形容。ただし相手があの教皇なら、違和感はない。ネオンの言葉を聞いた瞬間にイウリィとアンナリーゼが連想したのは、教皇が淡々と連ねていた比喩と哲学。
イウリィの身体が震えて、自ら胴を抱きしめることで強引に押さえ込もうとする。ネオンはイウリィに手を差し伸べながら、直感を言葉に変えた。
「あれがたぶん、天使の末路だ。王冠を冒涜した挙句に腐らせた、何か」
「っ──!」
シェスカから王冠を託されたイウリィだから、ネオンが伝えた推測に吐き気すら覚えた。王冠という種族の誇りそのものを奪い、貶め、弄ばれるだけでも狂おしいほどの憎悪が湧き上がってくるのに、その果てにあるものがあれだということが、耐えられない。
ネオンは声も出せず、震えるイウリィを見やる。迷いながらもアンナリーゼの視線に促され、覚悟を決めて、イウリィに問いかける。
「イウリィ。王冠を継承したんだね?」
「……はい。海のために、次の王に繋ぐために、私たちの慈母から託されました」
「そう、か。──イウリィ、呼ぼう。海の命に呼びかけよう。今ここで」
ネオンの提案に、イウリィはすぐに答えられなかった。
理解するまで数秒を要して、ネオンの意図を把握した瞬間、反射的に否定していた。
「いいえ、私にその権利はありません! 私は王ではありません。海に返すために、お母様から託されただけだから──」
「いいや、それでも。君の母君が責務を果たしたことを伝えるんだ。今この状況に影響がなかろうと。王冠を取り戻したことを、海の誇りを繋いだことを、イウリィが伝えないといけない」
脱出の足も止めて、ネオンはイウリィの肩を掴んだ。アンナリーゼは人であり、王冠の概念を持たないから二人のやりとりの重みは実感できない。それでもシェスカの継承を見届けた者として、周囲の邪魔が入らないようにする。
ネオンはすべてを姉に託して、イウリィを見つめた。緑と暁の瞳で、王冠を守る者として、イウリィに伝える。
「私は王じゃない。守っているだけだから、本当の重みは知らない。けれどフレアの記憶のせいで、王冠が種の命運に等しいことは知っている」
「……ネオンさま」
「大丈夫。私が隣にいるから。イウリィなら、できるよ」
ネオンは微笑みかけて、イウリィの両手を包む。
イウリィはネオンをじっと見つめて、海色の瞳を閉じる。すぅと深く息をすると瞳を開き、海の王冠を繋ぐ者として、呼びかけた。
「──海よ」
同族への呼びかけに人の言葉は必要ない。わざわざイウリィが声を使っているのは、生まれて初めての呼びかけへの不安と、自分の覚悟をネオンに見てもらうため。
「我らが王は、悪意の闇の奥でも気高く、美しく──私に冠を託しました。だから、讃えなさい。私たちの慈母が貫いた想いを、私たちへの愛を」
ネオンはイウリィの手を握って、誇り高きを見届ける。
自分を癒してくれた、心優しい少女。美しき人魚の誇りと怒りと悲しみを、すべて記憶に焼き付ける。
「私は必ず繋ぎます。水底揺籃シェスカの娘として、必ずや次の王に届けます。だから──海は決して砕けず、何者にも侵せないことを、人の悪意に伝えなさい!」
大気が暴れる。音のない声が世界を振るわせて、王の号令を民に届ける。
玉座なき王の呼びかけは海の命に届き──すぐそばから、王の怒りに応える一つの返答が、やってきた。




