静寂の玻璃竜
竜。それは世界で最も強大な種族。巨体で空を駆け、鋭利な爪は岩盤も引き裂いて、喉からは焔を吐き出す。
そんな力を当たり前に持つ竜という存在をまとめあげるのは、竜帝エンラ。竜のすべてが強者と認め、従う王者。
――けれど、その一人娘であるナデシコは、あまりにも弱かった。
なにせ竜の形になれない。人の形しか取れないうえに、尻尾も角も生えていない。首筋と頬に生える玻璃の鱗がなかったら、誰もナデシコが竜とは信じなかっただろう。
最弱の竜。美しいだけの娘。あんたなんか、孵すんじゃなかった。
「……シュトラルか」
最上質の馬車に揺られて、ナデシコは独り言を呟いた。車窓からは大陸随一の強国、シュトラルの王都が見える。ナデシコはときどき石造りの街並みを眺めながら、何度も何度も読み込まれて、すっかりくたくたになった魔術書をペラペラとめくっていく。
けれど文章を追う目にも街並みを見る目にも覇気はない。ナデシコにとって、父が任せてくれたシュトラルの王子との結婚は望むところで、けれど師匠と喧嘩別れになったモヤモヤが心に引っかかって抜けない。
ナデシコはため息をつきながら、この政略結婚の話を師匠に伝えた日を思い出していた。
◆
「師匠、あたし結婚するわ」
「……誰と」
囲炉裏の中央ではぐつぐつと鍋が煮えている。薄暗い部屋で鍋を囲んでいるのは、首筋にガラスの鱗が生えた美しい娘と、壮年の男性。
白銀の竜姫、ナデシコは努めて平坦な声で答える。
「シュトラルの王子。天導教の動きが怪しいらしくて、厄介なことになる前に同盟を強化しておきたいんですって。そういうわけだから明日にはここを発つわ。師匠、今までありがと」
ナデシコの父は竜帝エンラといい、強大な力を持つ竜という種族の頂点に立っている。けれどナデシコは竜の形を保つことができない竜だった。周囲――とくに母親はナデシコに早々と見切りをつけ、父も多忙を極めるせいでナデシコに関心はあっても関与できない状態。
そんな環境にあったナデシコの親代わりになったのが、人間の魔術師オドゥ・ナエだ。
二人の出会いは十二年前。竜の領域を訪れたオドゥのもとへ、魔術師がいるという噂を聞きつけたナデシコが押しかけて強引に弟子になった。幼いナデシコが、竜になれないというハンデを乗り越えて強くなるために選んだ手段が、魔術を修めることだったのだ。
「……おい、ナデシコ」
「なによ」
苛立ちを孕んだオドゥの声。ナデシコも寂しさを見抜かれないよう、あえてつっけんどんに声を返す。
その瞬間、鍋がひっくり返って、飛び散った汁を目くらましにした暗器がナデシコめがけて飛んできた。
「ちょ――っとお!? いきなりなにすんのよ、師匠!?」
「俺はンな立派なもんじゃねえ! ナデシコ、てめえが政治に使われてやる義理はねえだろうが!」
ナデシコは反射的に、無詠唱で魔術を編んで障壁を作り上げる。オドゥは防がれることを承知のうえで、さらに刃物を投げつける。
「ナデシコ、てめえはサイレンスだろうが! それほどの魔術師が政治に使われるんじゃねえ!」
無詠唱者。それは無詠唱での魔術行使を可能にする者への尊称。まじないは唱えるものという前提を、圧倒的な力量でねじ伏せてしまう者。
オドゥからすれば、わずか十九歳でそのサイレンスに至ったナデシコは誇らしく、そして今、怒りのままに攻撃を仕掛けている理由でもあった。
一方、攻撃を防ぐばかりだったナデシコの心にも怒りが灯ってくる。
最初はしんみりとした心境だったからオドゥの激情についていけなかっただけで、ナデシコも師匠と同じく激情家なのだから。
「――サイレンスだからなんだってのよ! 政治と魔術の腕に関係はないでしょうが!」
大気が渦巻く。不可視の刃がオドゥめがけて放たれるが、オドゥはあっさりと躱して砂をとばし、目潰しを図る。
「うるせえ! そもそも竜帝なんざ、てめえをほったらかしにしてたクソ親父だろうが!」
「お父さんのこと悪く言うな! あの人は忙しすぎるだけよ!」
「はっ。忙しいからって理由で、得体の知れねえ人間に十二年も娘を預ける父親、ねえ」
「…………うるさいうるさいうるさぁい! 身元も言わない無職は黙って!」
「ああ!? 誰がてめえを食わせてやったと思ってんだ、ガラス娘!」
「あたしだって働いてたわよ!」
日常茶飯事の喧嘩はさらに激しさを増していく。
お互いに勝ち気で負けず嫌いで意地っ張り。そんな二人でも良好な関係を保てていたのは、いつもなら頭を冷やす時間があったからだ。けれど、今回の喧嘩のはじまりはナデシコの結婚話。喧嘩が終われば、今の暮らしも終わってしまう。
「そもそも、あたしは良いように使われてるわけじゃないわよ! プライドだけ高いドラ娘どもじゃ人間との結婚なんてできないから、お父さんは師匠が育ててくれたあたしに託したの!」
「っ――」
ナデシコの言葉に、オドゥは暗器に伸ばしていた手をピクリと止める。
とはいえそれも二秒のことで、すぐに攻撃は再開された。
「ああそうかい、ならさっさと行っちまえ! そうすりゃ俺もこんな辛気くさいとことはおさらばだ!」
「言われなくてもそうしてたわよ! ふん、お世話になりました!」
そんないきさつで、ナデシコはオドゥと喧嘩別れのままシュトラル王国へ。
どうして穏やかに話ができなかったのか、ナデシコは怒りと悲しみと憤りと、さらに苛立ちが混ざり合ったトゲトゲしい感情に心を支配されたまま、夫となる王子が暮らす離宮に到着すると、「さっさと役割を果たしてしまおう」と考えて夫を襲い、叫びをあげていた。
「な、なっ――なんでよおおおおお!?」
「あー、あはは、は……」
ソファの上で、ナデシコに押し倒されて笑うのは、シュトラルの王子ネオン・シラ・シュトラル。
一つ結びにした黒髪と緑眼は、一見すると女性にも見える繊細さで――その第一印象が正しかったことを、出会って早々に夫を押し倒したナデシコは突きつけられていた。
「うん、ごめん。本当にごめんね」
ネオンは曖昧に笑いながら、ナデシコの手を取って自らの胸を触らせる。
そこにある柔らかさは、決して男性にはありえないもの。
「この通り、本当は女なんだ」




