花火師の娘〈九〉
急いで仲屋に戻ると、女中が叫ぶような勢いで罵倒してきた。
「この忙しい時にどこで油を売ってたのさっ。これくらいのお使いもまともにできないなんて、本当にぐずだねっ」
しかし、これにはにっこりと笑って答えることができた。
「すみません、ぐずなあたしにお使いは難しいです。ほら、白粉買えませんでした。金子はそっくりここにあります」
ぽいっと投げるように金子を手渡す。
お使いをしくじったのに、何故こんな笑みを浮かべているのか意味がわからないのだろう。馬鹿にされたような気がしたのか、女中の顔にさっと朱が差す。
「あ、あんたねぇっ」
「ぐずなあたしなんていなくてもどうにかなりますよね? あたし、出ていきます。お世話になりました」
「――はあ?」
唖然とする女中にそれだけ言い捨て、荷物を置いてある納屋へ向かう。
荷物といっても、仲屋に来る時に持ってきた小さな風呂敷包みひとつだ。いつでもまとめてあるのは、いつだって出ていきたいと思っていたからかもしれない。
吉兵衛と内儀、国吉に挨拶しようと思わなかった。
勇吉にだけは一応最後だから顔を見せた。その時もとせと裏で逢引きしていた最中だったので、恒が来て気まずそうだった。
「勇吉さん、あたし他の奉公先を探しましたのでここを出ていきます。どうかお元気で」
他人行儀に礼儀正しく挨拶をし、頭を下げた。
「えっ、お恒ちゃんっ? 旦那さんたちはなんて?」
「さあ? あたし、お給金もいただいてませんし、雇われているって言わないですよね。養われているってことだったので、これから自分の口は自分で養います」
にこにこと笑っている恒を、勇吉はどう思っただろうか。
この旅立ちを喜んでくれているふうではなかった。今は勇吉の顔を見ても胸をときめかせるようなことはない。
もう恋はしなくていいな、と思っただけだった。
落ち着く先を聞き出そうとする勇吉に、明後日の方向を教えておいた。
そして、うるさく騒ぎ立てられる前にさっさと仲屋を出たのだった。
後ろ足で砂をかけられたと言うだろうけれど、そんなのはお互い様だ。
恒は弾む足取りで駆け出した。
❖
日が暮れる前に再び金屋の暖簾を潜る。
土間で膝を突き、丁寧に頭を下げた。
「これからよろしくお頼み申し上げます」
主の治兵衛、若旦那の銀治、その他に職人は三人いた。
年嵩の熟練らしき老爺、中堅の男、それから若手の半平。
丁稚も一人いる。まだ八つか九つだろう。前髪が初々しい。丸い目でしきりに瞬きを繰り返している。
「よく来たね。うちの倅の銀治はもう知っているだろうが、こっちが職人の百蔵、鉄助、半平。丁稚の七五三太だ」
百蔵は、治兵衛よりもずっと年上のようだ。幾つくらいなのかよくわからない。もしかすると、亡くなった恒の祖母よりも年嵩かもしれなかった。
髷もちゃんと結えないほど禿げ上がっていて、ごつごつした皮膚が――そう、亀に似ている。
鉄助は金屋の中で一番上背があり、肩幅も広かった。線の細い銀治と比べると眉の太い男らしい顔立ちで、これはこれで鯔背だと持て囃されそうな男ぶりだ。
年の頃は二十四、五。例えるなら賢い犬だろうか。
丁稚の七五三太は、丸々とした赤い頬が可愛い。つぶらな眼も相まって、雀を思わせる。
ついでに言うなら、半平は丸顔だから猫だ。それも鼠が捕れなさそうな。
なんてことを考えていたら楽しくて、何もなくても顔が笑ってしまう。
「よろしくな、お恒ちゃん」
にこやかに言ってくれた半平に、勢いよく返した。
「あいっ」
そこで治兵衛が職人たちに暖簾を仕舞うように言った。
恒を板敷きへ上げ、そこで問いかける。
「お恒は今までどこで暮らしていたんだね?」
「二年前まで向島でおとっつぁんと暮らしていましたが、おとっつぁんが亡くなってからは深川の仲屋さんに引き取られて暮らしていました」
仲屋と聞くと、やはり同業だけあって知らないわけではなかった。
「仲屋さんか。なるほどな」
治兵衛はそれだけ言って深く尋ねなくなった。
銀治はというと、また顔をしかめていた。せっかく綺麗な顔なのに、若いうちから眉間に皺が刻まれそうだ。
「じゃあ、二階の角部屋が女中部屋だ。知っているだろうが、花火屋の朝は早い」
「あい。精いっぱい働かせてもらいます」
少なくとも、治兵衛の方が吉兵衛より器が上だと思えた。
だから、ここで働けることになってただ嬉しかった。
段梯子を上り、部屋に案内してくれた七五三太に問いかける。
「前のお女中はどうしてお暇したの?」
すると、七五三太は少し寂しそうに唇を尖らせた。
「お喜美さん、親が決めたお人と祝言を挙げるって」
「それはおめでたいことね」
「そうなんだけど、本当はお喜美さん、若のことが好きだったんだ」
「あら」
「でも若はそういうの嬉しくないみたいで――」
あの綺麗な顔で、冷めた口調で、あっさりとその娘に引導を渡したのだろう。
この店に色恋を持ち込むなと、腹立たしく思っただけなのかもしれない。気の毒だけれど、見る目がなかったと言わざるを得ない。
どんなに綺麗な顔をしていても、心があたたかいかどうかは別なのだ。
国吉だって自分以外には少しも優しくなかった。
それから、勇吉は優しかったけれど、実のない優しさだった。
自分はもう、そういう浮ついた気持ちとは縁を切ったようなものだから安心だ。祝言なんて他人事で、ずっと行かず後家でいるだろう。
後ろ指なら指せばいい。後ろなんて見ない。
仲屋では途中から納屋に押し込まれていたから、通された部屋に思わず心が震えた。夜着まで用意されていたのだ。
ここは極楽だ。さっそく綿の詰まった夜着に包まってそう思った。
しかし、だからといって寝過ごしていいわけではない。
雀が囀るよりも先に夜着から抜け出し、井戸の冷たい水で顔を洗った。
まだ誰も起きてきていない。辛うじて前が見える仄明るさの中、恒は台所の瓶に水を満たし、誰かが起きてくるのを待った。
最初に来たのはやはり七五三太だった。眠たい目を擦りながら寒そうに手を擦り合わせている。
「おはようございやす」
「おはよう。ねえ、お米を炊いたらいいのよね? 火の扱いはいつもどうしてるの?」
花火屋には火薬がある。だから、火の扱いには十分気をつけなくてはならない。
仲屋は広い分、台所と工場とはかなり離してあって、そこまで気をつけていなかったが。
「あい、鉄助さんが来てからつけやす。それまでにお米を研いで、汁物の鍋も用意しておかねぇといけやせん」
「そこの瓶にお水をたっぷり汲んでおいたから」
「えっ、お恒さんいつから起きてるんですっ?」
素直に驚いている七五三太が可愛らしい。仲屋ではどんなに早く起きて働いていても、誰も自分を人として扱ってくれなかった。
「さっ、支度支度」
楽しい。
やっていることは仲屋にいる時と同じでも、ところが変わるだけで心持ちがこんなにも違う。
きっと、出来上がる朝餉も美味しいはずだと思えた。




