第三幕 美月の変調
「くあーっ!やっぱ、風呂は良いねえ!」
石造りの湯船の中で、ナニガシは手足を伸ばし、湯の温かさに浸っていた。
大きく伸びをして、遠吠えのような大あくびをひとつしたあと、糸の切れた人形のように力無く、その湯の中にぐったりと身を委ねるのだった。
「今まで入浴と言えば、川や井戸端で水浴びか、あるいは宿で少しお湯を頂いて清拭するばかりでしたから。このような立派なお風呂なんて、あまりありませんでしたね」
湯船の傍らに腰掛けている彩花は先程から、自身の髪を、つげの櫛で念入りに梳いている。
彼女の長い髪は湯に濡れて、その1本1本が絹糸のようなその緑の黒髪は、より一層艶やかに、さらさらと輝いていた。
彼女はナニガシの、あまりにもだらりまったりと寛ぐその有様を見て、くすくすと笑っていた。
(……大きな町には、銭湯も有るといえば有るのだが……そういえば、この旅では利用したことも無かったな)
ナニガシはぼんやりと考える。
しかしこの湯加減の心地良さの中では、もう脳ミソも蕩けに蕩け、少しの思考すらも億劫になってしまった。
尤も、銭湯など有ったとしても彼女の貧乏性では、「川の水で十分!」と、利用することもないのであろうが。
「……」
機嫌良く鼻歌交じりに、髪の手入れをする彩花。
彼女の白い肌は、湯の熱気に当てられ火照り、血色良く紅くなっている。
そんな彩花の方を、ナニガシはちらりと、覗き見る様に眼をやった。
「……。……でかいな?」
不意に、ぽつりと呟いたナニガシの言葉。
「はい?」
「……」
彩花は、何の事かと問い返すが、だが、ナニガシは何も言わない。
「何が」とは言わない。
次にはナニガシは視線を落とすと、自身を、じっと見つめる。
暫くのち、そしてまたも独りごちるかにぽつりと、呟いた。
「……ちいさいな……?」
ご令嬢の淑女である彩花は、日頃より、白い着物をぴしりと着ている。
いつの時もその衿元をきちりと合わせ、そしてそれは殆ど、乱れることは無い。
寝巻きとなった時もまた、同様であった。
そのためか。あまり普段から、その「大きさ」は想像できるものではなかった。
だがしかし。
彼女の「誰が見ても大きく豊満なそれ」は、今やナニガシの眼前で隠すもの無く、そのありのままの姿を曝け出していた。
彩花の、すらりと長い手足や、細身の造りの身体。
華奢な印象の彼女だがしかし、「それ」だけは、特別例外なのであった。
「……ふ、ふん。べ、別に羨ましくないし。ちいさい方が動き易くていいし。でかけりゃいいってもんじゃないし。別に羨ましくなんかないし」
ズボラでだらしないこんなナニガシでも、「一応」、女性だ。
意識せずとも……いや、否が応でも、比較してしまう。
させられてしまう。
ナニガシは普段、小袖の下で晒しをきつく巻きつけている。
……そのせいか?
今ここで改めて彩花の「それ」と比べると、己の「控えめさ」に、思わず悔しくなり、そしてやりきれなくなってしまうのであった。
「ねえお姉ちゃん。さっきから何をぶつぶつ言ってるの?ひょっとして、のぼせちゃった?」
渋面のナニガシに、何も知らぬ顔の美月が、すいすいと平泳ぎで近づいてきた。
この風呂は、子供であれば泳げる程の大きさがある。
「……ふ。お子様の美月には、関係無い事よ……」
「誰がお子様よ」
お子様の美月にはナニガシのやるせない心情など、推し量れなかった。
お子様扱いにキーキーと抗議する美月を横目に、ナニガシは溜め息とばかりに、ふっと息を吐く。
ふと見上げれば、いつの間にか夕焼けは、夜空となっていた。
大きな湯から立ち上がる熱気が、その空へと溶けてゆく。
冬の寒気の中で浸かるその温かさに、旅の疲れも抜けていくようだった。
短い髪を束ねた、髻の紐をしゅるりと解く。
湯が滴る髪をかき上げながら、ナニガシはまたひとつ、息を吐いた。
その白い吐息は湯気と共に入り混じり、そして、漆黒の寒空へと消えていくのだった。
風呂上り。
ナニガシらが濡れ縁から部屋へと上がると、その広い畳の上で、氷鶴が大の字になって寝転がっていた。
「……あ。皆、お帰り~……」
……その氷鶴は、何故かくたびれている様子である。
「?……何でこんなに、薬の包みが置いてあるんだ?」
氷鶴の周囲には、山の様な大量の包み紙が転がっていた。
そのおかしな光景に、ナニガシたち3人は首を傾げる。
「い、いやあ……ちょっと、夢中になっちゃって……。気付いたら傷薬を、こんないっぱい作っちゃってたよ……」
氷鶴はばつが悪そうに、顔を赤らめ伏せ目がちに、頭を掻くのだった。
暫く後。
部屋に女将と仲居たちが、夕食を運び込んできた。
「まあ、美味しそうですね」
席に着いた彩花たち4人の前に、港町ならではの、新鮮な海産物を使った料理たちが並べられる。
手を合わせた後、皆、揃って箸をつけた。
しかし。
皆が賑やかに食事を平らげている中、先程から美月だけ何故か、殆どその箸は進んでいなかった。
食べるにしてもぽつぽつと、まるで雀が啄ばむかの様に、少量を口に入れるのみであったのだ。
その彼女の様子に気付き、氷鶴が心配げに声をかける。
「あれ?美月ちゃん、どうしたの?あまり食べてないようだけど……」
それに、ぼんやりとしていた様子の美月ははっとし、思わず、手の中の箸を取り落としそうになった。
「……え?あ、うん……」
どうやら喋るのも困憊なようである。
気怠げに、小さな声でぽつりと応えた。
「……なんだか、食欲が無くて……」
「食欲が無い?」
氷鶴は彼女の顔を覗きこむ。
見ると、その顔は、少し紅らんでいるようであった。
「あ、まさか!美月ちゃん、ちょっと失礼」
何かに気付いたようで、そう言うと氷鶴は、美月の額に手をあてる。
「……ああ。ひょっとして、風邪をひいちゃったのかもしれないね。熱があるよ」
彩花と、もごもごと頬張ったままのナニガシもやって来て、俯く美月の顔を覗いた。
「む。確かに顔が赤いな。風呂上りだし、もしや湯冷めしたのかもしれんな」
「美月ちゃん。お身体を冷やしてはいけないので、今日はもう、早めにお休みになられた方がよいですよ。今夜は少し、寒くなりそうですから」
彩花はいつの間にか押入れから布団を取り出すと、手早く床に敷き、すでに寝床の準備を済ませていた。
「うん……わかった。今日はもう、寝かせてもらうね……。おやすみなさい……」
促され、こくりと小さく頷くと、美月は身体を引き摺るように、布団の中へと潜り込んでいった。




