月の輝く夜に5
月の舟は進む。
凍える冬の空。澄み渡る夏の空。
生命の終りと始まりを告げながら。
粛々と、粛々と―――。
まろみを帯びた半月の夜。
獣の爪のような三日月の夜。
風の辻に立つ古木の枝には、時折ひっそりと佇む白烏の姿があった。
誰に気に留められる事も無かったが、七つの丘の塔の主にだけはいつも気付かれているようだった。
遠目に眺める視線の先には、あの夜ほんの一瞬だけ交わった小さな子供がいる。
年を追う毎に背丈が伸び顔つきが大人びてゆく。
人間の仔の成長する速度がこれほど早いものだとは思わなかった。
これでは瞬く間に一生を終えてしまう。
時間の流れから切り離されて存在する烏にとって、生者の刻む時は掌から零れ落ちる水のようなもの。
ほんの束の間の出来事に過ぎない。
今まで人間の生死など気に留めた事さえ無かったが、なんとなくもう少しの間、見ていたくなった。
小さな花の姿にも似たその一生を。
マジェンタがサザナミで迎える七年目の夏。
小さかった少女はこの春先で十四歳になった。
そして誰もが予想した通りとびきりの器量良しに成長したマジェンタは年頃の少年達から注目を集める存在になり、その素直で明るい性格と家庭的な一面が年上のオジサマ層の間でも絶大な人気を誇っていた。
マジェンタが青鹿亭の手伝いに出た日は決まって食堂が繁盛する、というのは既にお約束だった。
そして夏至祭があと数日後に近付いた今、当日の踊りの相手の申し込みが殺到していたが、マジェンタは未だに誰の申し込みも受け入れていないようだった。
「今回の夏至祭『十年目』の割に何かイマイチ盛り上がりに欠けるなーとか思ったらさ~」
昼食目当ての客が一旦引いた昼下がりの青鹿亭。
亭主のジジが相変わらずのユルい語尾で席の向かいに腰を下ろしたフューシャと冷たいお茶を啜っていた。
「主役が長いことその姿でいるから皆が慣れちゃった感じ~?」
「別に見世物を狙ってるわけじゃないが……考えてる事はある」
「―――ふぅん?」
「そんな事より、三十半ばの男がその締まりの無いユルっユルな話し方はどうにかならんのか!」
「えぇ~今更ぁ?」
「首の後ろがムズムズするぞ」
眉をしかめてバリボリと指で襟足を掻く仕草がまるで品の無い兄ィちゃんのようでも、首から上の造作ときたら傾城もかくやの『美人』なので見てる方は堪らない。
(わぁ、台無し~)
「……はは。うん、見た目とか…印象は大事だよね…」
「それより今年のマジェンタの衣装はどうなった?」
「あぁ、もースグ仕上がるよ」
最初にマジェンタの服を頼んで以来ずっと、祭の晴れ着はジジが担当している。
因みにフューシャの衣服は町の娘達からの貢ぎ物が殆どだ。
この七年間成人体型を維持し尚且つ微塵も経年変化が顕れないその姿は、時に憧れや羨望の対象になったりもしたが、フューシャの性格を知り尽くしている町の人間(特に年長者)は過度に熱を上げたり無駄な幻想を抱いたりする事もなかった。
「出来たよフューシャ!ジジ!夏の新作デザート。試食お願い」
奥の厨房から弾むような声が聞こえ、エプロン姿のマジェンタが大きな盆を抱えて顔を出した。
「ベリーのタルトとイチヂクのケーキ。どっちも生の果実は旬が短いから期間限定ね」
手際よく切り分けられた菓子が皿に乗せられ、それぞれの目の前に差し出される。
「どれどれ~」
「ほー、良い出来だ」
最近料理の腕がめっきり上がったマジェンタは『そこそこ』な亭主に代わって新しいメニューを考案したり、家でも料理の担当をするようになっていた。
「さすがマジェンタ、美味い!」
「フューシャは…?」
「文句無しだ」
手放しの讃辞に嬉しそうに頬が染まる。
そうした姿はあどけなさを残しつつも年頃の娘らしさも感じさせられる、まさに蕾の可憐さだった。
「はー…。やっぱイイわ。マジェンタ、もう二、三年したら俺の嫁に……」
「来い」と言うつもりが、いきなり向かいの席から口に突っ込まれたイチヂクのケーキに阻まれ不発に終わった。
「そーか美味いか。遠慮はいらん、たんと食え!」
(眼っ、コワッ!!)
「ねえフューシャ、今年の夏至祭って何か特別なの?何だか大人の人たちに訊いても歯切れが悪いし」
「…………ああ」
それはそうかも知れない。
魔方陣の補強はともかく、いつも勿体ぶって最後に登場する祭の『目玉』が今回は常日頃そこらをウロついているわけだ。
有り難みが薄れる、というやつだろう。
別に演出を気取っていたつもりはないが、初めて出くわす子供の驚いた顔は毎回面白かった。
「明日もジジの手伝いか?」
青鹿亭からの帰り道。
薄青い宵闇の中、見張り塔に続く小路を仲良く肩を並べて歩く二人の姿は、外見の年齢差が縮まったせいで姉妹か友人どうしのようにも見える。
「うん。お祭りが近いから料理やお菓子の仕込みが大変なんだって。ジジに泣きつかれちゃった」
「そうか、大変だな」
随分大きくなったものだと思う。
今でこそ寝床は別になったが、ついこの間までは夜中によく人の寝台に潜り込んで来ていた。
怖い夢を見たと言っては半ベソをかきながら、しがみついてきた子供が。
「…本当に随分でかくなった」
「え、何?」
染々と見詰められてきょとんとするマジェンタの頭をフューシャはポンポンと撫で「もう大丈夫だな」と呟いた。
「マージャ。明日から祭まで自分は忙しくなる。青鹿亭の手伝いで帰りが遅くなるようなら宿に泊まってきな。暗くなって帰るのは大変だ」
「…え…」
フューシャがこんな事を言い出すのは初めてだった。
「ただし!扉の鍵と窓はきっちり閉めるんだ。あのスットコドッコイ以外も男連中は油断はならん」
「???うん」
「あーそりゃ多分、魔術の準備に入るんだろな」
翌日、青鹿亭で昨日の帰り道でのフューシャとの会話を説明すると、厨房で手を粉まみれにしながらジジが言った。
「具体的な方法は知らないけど。この町の守護の魔法は大昔フューシャの仲間達が一族総出で施したものらしくてね。大掛かりな上にかなり時間が経過してるから、時々綻びが出ないように強化が必要らしいんだ」
「それが…今年?」
「そ、十年に一度。町の連中が『十年目』とかって言ってるの聞いたことあるだろ?そんで初めて見る子供にはちょっとしたサプライズがあるんでいつも内緒にしてたんだけどね~」
ふぅ、とため息を落としたジジは苦笑の表情を浮かべ「今年はちょっと事情が違うからなぁ」とだけ続けた。
多分ずっと昔から、皆が知らないところでも、フューシャは誰かを護ってる。
七つの丘ごと、全部。
どんなに小さな叫びでさえも、聞き逃せない人だから。
「皆、護られてるんだね…」
マジェンタの呟きにジジは目を細めて静かに微笑った。
「……そのうち腹を空かせてここに来るだろうから、フューシャの好物を仕込んで置くといいよ」
「うんっ!」
この日は二人で大量の小麦粉と格闘して、祭用に日持ちする焼き菓子やパンをたくさん焼き上げることになった。
因みにフューシャの好物は、刻んだ木の実やドライフルーツをたっぷり入れたずっしりと重い黒パンで、祝いの席にはこれに砂糖衣がかかる。食事向きというよりお菓子に近い。
「ジジ、砂糖が切れてる」
調味料の棚を確かめたマジェンタが慌てた声を上げた。
「紅砂糖?琥珀糖?」
「うんとね、白」
「雪花糖かー、しまったなぁ。この間苺のシロップ漬け作るのに大量に使ったから」
「砂糖衣に白が要るよ。ご近所さんに頼んで分けてもらえないかな?」
「だったら、町の共同管理の倉庫に掛け合った方が早い。ひとっ走り行ってくるよ」
ひとまずやりかけの作業を中断したジジがエプロンを着けたままの格好でバタバタと厨房を出て行くと、店内は妙に静まり返って少し落ち着かない。
ジジも不思議な人だ。
いつまで経っても子供みたいなところがあるかと思えば、いつの間にか此方がやんわり包み込まれている感じがする。
“大人”なんだなと考えて、マジェンタはふとあることに気が付いた。
年齢的には三十代半ばのジジなら自分の父親でも通るということに。
いままでちっともそんなふうに考えた事が無かった。
初めて会った時からあの口調で、この七年全く変わっていない。
マジェンタのジジに対する印象は『頼れる近所のお兄さん』だ。
『父親』と呼ぶならむしろフューシャが近い。
フューシャはマジェンタにとって父で母で、兄兼姉。
今となってはこの世で一番『家族』な人。
実年齢を知っているからというわけではないけれど、どんなに甘えても頼っても大丈夫だと思える安心感がある。
怖い夢を見て腕の中へ逃げ込む度、あの優しい手がいつも抱き留めてくれた。
――――自分はフューシャに、何かを返せているだろうか。




