第32話 2人の父親
遠くに、サチの後ろ姿が見える。
タイチはその背中に『お姉ちゃん!』と呼びかけるが、聞こえていないようだった。
向こうから、誰かがやってくる。……あの、サングラスの男だ。
男はサチに手を差し伸べる。
サチは思案しているようだった。
『お姉ちゃんっ!!駄目だ!!!そいつの手を取らないで!!!』
タイチは必死に叫ぶ。
ふと、サチがこちらを振り返った。
サチの目は虚で、何も映していない。
サチは小さく首を振って、男の方に向き直り、差し出された手を取った。
男は口角を上げて、サチの肩に腕を回す。
サチの耳元に口を寄せて、何かを囁く。
そして、
『駄目だ…っ!!お姉ちゃんっ、戻ってきて!!!』
ーーー
はっ、と目が覚める。
全身、汗びっしょりだった。
「……っ、」
毎日のように、姉の夢を見る。
タイチは枕に顔を埋めて、鼻腔いっぱいに息を吸いこんだ。
実はサチが出て行ってから、タイチは勝手に姉の部屋のベッドで寝ていた。
このベッドに、ついこの間までサチが寝ていた。サチの温もりが、匂いが、まだ残っているように思えた。それが消えてしまう前に、ほんのわずかな痕跡でも、タイチは姉を感じたかった。
(お姉ちゃんが知ったら、また苦笑いしながら、気持ち悪いって言われそうだな。…)
さすがのタイチも、自分の行動が常軌を逸している自覚があった。それでも、タイチは自分を抑えることができなかった。
サチがいなくなって、1週間。タイチにとっては、腸が捻切れるような1週間だった。
タイチは毎日、それこそ体力の限界まで、ゲンドウを相手に訓練を続けた。タイチの実力はもはやゲンドウを圧倒的に凌駕し、タケルに近づいていた。さらに、扱える技の種類も格段に増え、新しい技も編み出した。
全ては、サチを救うために。一貫して、それがタイチの行動原理だった。
今や、タイチにも分かっている。サチがなぜタイチに何も言わずに、家を出て行ったのか。
サチにとって、タイチは徹頭徹尾、ただの弟に過ぎなかった。タイチに頼る事など、頭をかすめもしなかったのだろう。弟に心配をかけまいと、苦しい気持ちを押し殺していたのだ。
いくらタイチがサチを慕っていても、サチを守ると豪語しても、サチにとっては年下の戯言としか捉えられていなかった。頼りになる相談相手に、なれなかったのだ。
もし、またサチに会えたら。タケルの話では、敵側に精神感応を使う能力者がいる。そいつが、サチにさらに精神的負荷をかけて、サチは催眠状態に陥っているかもしれない。そうしたら、タイチにできる事は?サチの心を、タイチに救う事ができるのか?
もう1つ、気になっている事がある。…サチの能力についてだ。『サチの能力を奴らに奪取されたら、終わりだ。』とゲンドウは言っていた。ただの予知能力ならば、そんな言い方はしないだろう。きっとサチには、本人にも知らされていない危険な能力が宿っている。それこそ、パワーバランスを崩す程の。
しかしそれであれば逆に、能力の行使のために少なくとも【ゼロ】がサチの命を奪う事はないだろう。その点だけが、タイチにとって心の拠り所だった。
命さえあれば。
生きてさえ、いてくれたら。……
タイチはひたすらに、祈り続けた。
姉の部屋を出ると、タケルの書斎の方から、何となくバタバタと騒がしい雰囲気が伝わってきた。タイチが書斎の方に向かおうとすると、ちょうどタケルもこちらに向かってやって来るところだった。
「父さん、何が…、」
タケルのまとう剣呑な空気に気圧されながらタイチが尋ねると、タケルは短く答えた。
「サチの居場所が分かった。」
*****
ルキヤは、ベッドに座るサチの両手をしっかりと握った。
「私の術は、対象との距離が近ければ近いほど威力を増します。サチ、術の行使中は、ずっとこうしてあなたの手を握っていますから。」
サチは小さく頷いた。
「それでは、目を閉じて…。私に、全てを委ねて。」
ルキヤに命じられるままに、サチは目をそっと閉じる。
ルキヤも目を閉じて、精神を集中させる。
その様子を、ハルやミナミ達が不安そうに見守っていた。
ーーー
ああ、また、辺り一面の白い霧。
サチは、呆然とその場に立ち尽くす。
大丈夫、ここは精神世界。
ここで起きる事は、すべて虚構。
サチは自分に言い聞かせた。
『サチ』
ふいに背後から声をかけられて、振り返ると。
写真で見た、リヒトが立っていた。
『……あなた、は……』
リヒトは、愛おしそうにサチを見つめた。
『やっと会えた。……僕とユキの、愛の結晶。
君は、僕の大切な宝物。』
リヒトはサチを抱きしめた。
サチは言葉が出ない。
『サチ…今まで、辛い思いをさせたね…。アザイ家は、サチにとって地獄だっただろう。あの家は、血の繋がりを何よりも重視する。君はあの場所では、決して幸せにはなれない。』
サチは、弱々しく首を振る。
『わたし…、あの家で楽しい事も、たくさんあった。…タイチもいたし、マサヤとナホちゃんカホちゃん、ミオリさんやサトルさんも、優しくしてくれた。』
サチは縋るように左手首を探るが、そこにミサンガはなかった。
『それは、まやかしだよ、サチ。』
リヒトが、心底憐れむように言った。
『サチの事を、みんなが"可哀想な子"として見ていたんだよ。…アザイ家の血が流れていないどころか、テロリストの血を受け継ぐ、無能な娘、とね。君の弟があんなに君にまとわりつくのも、アザイ家の血が流れていないから、サチを軽んじているんだ。』
『…っ、ちがう!!』
『違わない。君の弟がもし君に敬意のかけらでも抱いているなら、もっと相応の態度を取るだろう。
…あの男がユキに産ませた、呪われた息子。僕の大切なサチに、汚い手で気安く触りやがって…。』
リヒトが舌打ちする。
『…タイチは、そんな子じゃない!たしかに、ちょっとシスコンが常軌を逸してる時はあるなと思うけど、でもそれは、私の事を慕ってくれて…』
リヒトはサチを遮るように、はぁ、とため息をついた。
『サチ…君の弟は、アザイ家の次期当主だ。アザイ家の人間、とりわけ当主は、絶対に信用してはいけない。…あいつらの手は、血で染まっている。』
『……っ、』
『聞いただろう…僕の両親も、ルキヤの両親も、あの家の人間に殺されたって』
『……そんなはずない、お父さんはそんな事しないっ、』
リヒトはサチを抱きしめる腕に力を込めた。
『サチ……君のお父さんは僕だ。」
『……っ!』
『本当の父親の言う事が、信じられないの?あの男は、これまで父親の仮面をかぶって、サチを騙し続けて来た。…あの男がサチを見る、あのいやらしい目つき……反吐が出る。』
『ちがう…っ、お父さんは、…そんな、』
リヒトは動揺するサチを宥めるように、頭を撫でた。
『可哀想に…サチ、もう大丈夫なんだ。あの男を父親だなんて、もう思い込まなくてもいい。君はやっと、安心できる場所に助け出されたんだ。』
よしよし、と頭を撫で続ける。
『サチを本当に愛しているのは、血の繋がった父親である、僕だ。僕だったら、サチの能力を無理やり封印するなんて、そんな野蛮な事は絶対にしない。サチを丸ごと受け止めて、才能を伸ばしてあげられたのに。…』
リヒトは、サチの肩を壊れる程強く抱きしめた。
『…全て、あの男のせいだ。
あいつのせいで、僕もユキもサチも【ゼロ】の仲間達も、みんなみんな不幸になった。
あいつさえ、いなければ…!!』
『………っ』
サチが痛みで顔を歪めたのを見て、ふと我に返ったようにリヒトが力を緩めた。
『ああ、ごめん、痛かったね…。
ねぇ、サチ。……僕の事を、お父さんって呼んでよ。』
『……え…?』
リヒトがサチの目を覗き込む。2人の瞳は、同じ色を宿していた。
『愛してる、サチ。……僕の、天使。』
サチは、リヒトの瞳に吸い込まれる。
ああ、このひとが。
私の。
『おとう、さん』
しかし次の瞬間、サチが瞬きをひとつすると、
…男は、タケルに変わっていた。
『サチ…今まで育てて来てやった恩を、お前は全部忘れたんだな。』
『……っ!!』
サチは驚いて目を見開く。
タケルから離れようともがくが、強い力で抱きすくめられてしまう。
『お前の本当の父親によって、大勢の罪のない人達が殺された。お前には、無差別殺人犯の血が流れている。それでも俺は、お前を娘として育てて来てやったのに…!』
タケルの両手が、サチの首にかけられる。
『悪魔の血を継ぐ、忌み子め…!!
お前のせいで、俺の大切なユキが!!!』
タケルは手に力を込めて、サチの首を締め上げる。
『……っ……』
サチは声が出ない。苦しさのあまり、必死で手を振り解こうともがく。
だんだん意識が遠のき始めた時、タケルが力を緩めた。
『っかは…っ、ゲホッ、ゲホッ…』
サチはその場に崩れ落ちて、必死で酸素を取り込む。
何とか息を整えていると、タケルもしゃがみ込んで、サチの髪の毛を乱暴に引っ張って顔を上げさせた。
血走った目で真っ直ぐサチを見据える。
『……サチ。お前は、本当にユキによく似ている。』
今度は、先程までと違った、うっとりとしたような口調で話し始めた。
タケルはサチの頬に手を伸ばす。
『サチ。お前のせいでユキは死んだんだ。…だから、お前が、ユキの代わりを務めなければならない。』
分かるな?と言いながら、タケルはねっとりした手つきでサチの身体を弄り始めた。
『……!!い、っ、いや…っ!!』
サチは必死に抵抗するが、その場に押し倒されてしまう。
『お前は俺の娘ではない。……少しくらい、役に立ってみせろ!』
タケルは抵抗するサチの左頬を殴りつけて、馬乗りになった。
サチは恐怖のあまり、ギュッと目を閉じて縮こまる。もはや、ここが精神世界だということも分からなくなっていた。
助けて、誰か…
サチは無意識に助けを求めたが、そこではたと気づく。
……誰かって、誰?
途端に、サチの耳にリヒトの声が囁く。
お前は、あの家では幸せになれない。
これまでサチに冷たい態度を取り続けた、アザイ家の大人達の顔が次々と浮かんでくる。
サチは見てみないふりをしていた。
でもたしかに、自分に向けられた悪意は、ずっとずっとあの家にあった。
サチはタケルに組み敷かれながら、肩越しにアザイ家の人達がサチを覗き込んでいるのに気づいた。
そこには、タイチもいた。マサヤも、ミオリも、サトルも。……そして、ユキも。
みんな、表情がなく、能面のように冷たい目でサチを見下ろしていた。
お前は、無差別殺人犯の娘。
お前には、悪魔の血が流れている。
お前は、アザイ家に不幸をもたらした。
次々と、声が頭の中に流れ込んでくる。
ああ、そうだ。
私の事を助けてくれるひとなんて、…だれもいない。
『…もう、いや…!!』
サチは絶望した。
頭が割れるように痛い。
私は、産まれてきてはいけなかったのだ。
『もういやぁああああっ…!!!!』
また、暗い展開になり始めてしまいました。
でも今作こそは、ここからハッピーエンドを目指します…。




