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異世界工場管理  作者: 好山 雪


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第20話 炉にも名前はあるか

ここまで読んでくださりありがとうございます。


第20話では、黒炉の「帰りたい」という声を受けて、帰還権の範囲がさらに広がります。


人間だけを守るのか。


それとも、帰還意思を持つ存在まで守るのか。


ただし、黒炉を守ると言った瞬間、それを口実に人間の帰還権を差し出せと迫る者たちが現れます。


今回は、制度の奪い合いと、黒炉の過去に少し踏み込む回です。


十二時間は、睡眠時間ではなかった。


第十三工廠では、それは単位だった。


草案を直す単位。


証拠を揃える単位。


壊れた帰還灯三号を縫い直す単位。


誰かが倒れるまでの単位。


そして、黒炉都市が次に誰かを食べようとするまでの単位。


俊平は管理室の机で、帰還権共同審理案の表紙を見つめていた。


人間および帰還意思を持つ存在に関する暫定保護。


この一文を書いた瞬間から、話は人間の範囲を越えた。


だが、越えなければ黒炉は対象外になる。


対象外になれば、各機関が好きに扱う。


第九施療院は患者にする。


外縁開拓局は移送資源にする。


都市燃料局は燃料源にする。


前線軍務局は兵站熱源にする。


黒炉が帰りたいと言った瞬間、黒炉は奪われる側になった。


同時に、奪う側でもある。


都市中の痛みを食べてきた心臓。


魂を熱に変えてきた炉。


その帰還権を認めることは、被害者を守ることなのか。


加害者を免責することなのか。


俊平は、何度考えても答えを一行にできなかった。


「管理官」


リゼットが紙束を置く。


「黒炉対象条項の修正版です」


俊平は受け取った。


帰還意思を持つ非人間存在の暫定保護。


一、当該存在の帰還意思は、燃料、施療材、労働資源として利用してはならない。


二、当該存在の帰還意思を理由に、人間その他の帰還権を徴収してはならない。


三、当該存在が過去に他者の帰還権を損なった場合、その責任調査を妨げない。


四、帰還支援は、被害者側の権利回復と並行しなければならない。


五、当該存在の意思確認は、単独機関ではなく、複数監査下で行う。


「黒炉を守るけれど、黒炉のために人を差し出さない」


俊平が言うと、リゼットは頷いた。


「それが骨子です」


「黒炉の責任調査も入れたんですね」


「入れなければ、死者会計局が反対します」


「ノアさんは?」


「賛成しています。ただし、死者の帰還情報未返還分を黒炉契約の負債として扱うべきだと」


「黒炉に負債」


「はい」


リゼットの顔は眠そうだったが、目だけは鋭い。


「黒炉が帰還権の対象になるなら、義務の対象にもなります」


俊平は草案を読み直す。


守る。


同時に、責任を問う。


それは人間相手でも難しい。


相手が都市の心臓なら、なおさらだ。


「黒炉が支払えない負債は、どう扱うんですか」


「そこが未定です」


「未定ばかりですね」


「基幹契約は、未定をどこまで許すかの戦いです」


リゼットは小さく息を吐いた。


「それと、あなたの帰還先条項。入れますか」


俊平の指が止まる。


相模俊平の帰還先。


一次帰還先、第十三工廠。


二次帰還先、未登録世界。


詳細非公開。


本人同意なしに探索、抽出、燃料化することを禁ずる。


「入れます」


「本当に?」


「隠したままでは、黒炉に勝手に読まれる」


「読ませても、狙われます」


「はい」


「第九施療院は、未登録世界を病理情報として欲しがるかもしれません」


「外縁開拓局は、新しい外縁だと言うかもしれない」


「都市燃料局は、未知燃料と言うでしょう」


俊平は苦笑した。


「人気ですね、僕の実家」


リゼットは笑わなかった。


「冗談にするには危険です」


「すみません」


「でも」


彼女は少しだけ表情を和らげた。


「冗談を言えるうちは、まだ戻っています」


管理室の扉が開いた。


セナが入ってくる。


手には分厚い制御記録。


髪はひどいことになっていた。


「戻ってない人たちに朗報です」


「朗報なんですか」


「悪い報告の中では一番ましです」


セナは紙を机に広げた。


帰還灯三号、遠隔分岐時の黒炉反応解析。


「黒炉は帰還灯の構造を学習しました。でも、全部は読めていません」


俊平は身を乗り出す。


「なぜ」


「返還監査が邪魔をしています。帰還灯は、情報を借りて返すための装置です。黒炉は燃やすために読む。読み方が違う」


「つまり」


「黒炉は帰還灯を丸ごと食べられない。返す工程を理解できないから」


リゼットが書記板を握る。


「返還差分の根拠になります」


「はい。黒炉が欲しがっているのは帰還情報そのものですが、帰還灯で発生した熱は、返還時の差分です。黒炉がそこを読めないなら、帰還情報燃料化と返還差分燃料は別物として主張できます」


俊平は息を吐いた。


少しだけ道が見えた。


「ただし」


セナが言った。


「黒炉は、読めないものを壊して読む癖があります」


「癖」


「この都市全体の設計傾向です。未知の情報に対して、保存ではなく分解を優先する」


「つまり、僕の未登録世界も」


「たぶん、分解して読もうとします」


管理室が静かになる。


セナは視線を逸らさない。


「会議であなたの帰還先を出すなら、保護枠を先に作ってください。順番を間違えると、読み上げた瞬間に食われます」


「順番」


リゼットがすぐに書き込む。


「議事手順に入れます。最初に暫定保護枠を採決。その後、個別帰還先の例示」


「採決前に突かれたら」


セナが言う。


「黙ってください」


「会議で黙るのは難しいです」


「難しくても黙ってください。あなたは時々、正論で自分を炉に投げます」


俊平は反論できなかった。


リゼットも頷いている。


「記録係として同意します」


「二人で責めないでください」


「責めています」


「はい」


その時、廊下から小さな咳が聞こえた。


ヘレナに支えられて、ルカが管理室の入口に立っていた。


まだ胸から下は灰色の石に覆われている。


喉の亀裂は細いままだ。


それでも、目は開いていた。


「起きていて大丈夫なんですか」


俊平が立ち上がる。


ルカは少し笑った。


「大丈夫じゃない」


ヘレナがすぐに言う。


「だから短くね」


ルカは頷き、俊平を見た。


「僕、会議に行く」


「だめです」


俊平は即答した。


ルカは眉を寄せる。


「僕の話でしょ」


「あなたはまだ安定していません」


「僕の名前を、僕なしで話すの?」


その一言で、俊平は黙った。


ヘレナが泣きそうな顔をする。


「ルカ、無理しないで」


「姉さんが話すと、姉さんの弟になる。俊平さんが話すと、助けた患者になる」


ルカは息を整えながら言った。


「僕が話さないと、僕にならない」


リゼットが静かに筆を止めた。


俊平は椅子に座り直す。


「会議場は黒炉に近いです。帰還情報を読まれる危険があります」


「じゃあ、読まれないようにして」


「簡単に言いますね」


「工場の人でしょ」


セナが小さく笑った。


「管理官、言われてますよ」


俊平は額を押さえた。


確かに、言われている。


ルカは患者だ。


しかし、それ以前に本人だ。


本人の名前を守る会議に、本人を排除する。


それは安全に見える。


だが、安全という名の代理占有にもなる。


「分かりました」


ヘレナが驚いた顔をする。


「俊平さん」


「ただし、発言時間を制限します。帰還灯二号の補助を最小出力でつける。黒炉への直接接続は遮断。異常が出たら即退席」


ルカは頷いた。


「それでいい」


「それと」


俊平は真剣に言った。


「話したくないことは、話さなくていい。あなたの帰る場所を、会議のために全部見せる必要はありません」


ルカは少しだけ目を丸くした。


「全部言わなくていいの」


「はい」


「それでも守れる?」


「守れる仕組みにします」


ルカは、初めて少年らしく小さく笑った。


「じゃあ、行く」


ヘレナは反対しなかった。


弟の手を握ったまま、ただ頷いた。




会議まで残り三時間になった頃、ミルカが帰還灯三号を抱えて管理室へ飛び込んできた。


「まずい」


「何が」


「三号が、黒炉の音を拾ってる」


三号の外殻には、細かい亀裂が銀線で縫われている。


その亀裂の奥で、灯りが弱く明滅していた。


リィンも後ろから入ってくる。


耳を押さえ、顔をしかめている。


「黒炉の鐘じゃない。もっと古い音」


「古い?」


「鉄を引きずる音。鎖。水。あと、誰かが炉を名前で呼んでる」


俊平は三号に近づいた。


コーデックスが視界に浮かぶ。


未登録記録片を検出。


発生源: 黒炉中枢。


種別: 帰還先断片。


危険度: 高。


閲覧により契約接続が発生する可能性。


「見ない方がいいやつですね」


セナが言う。


「はい」


「でも見ないと会議で負けるやつですね」


「たぶん」


リゼットが即座に言った。


「単独閲覧禁止」


「分かっています」


「本当に?」


「今回は本当に」


俊平は三号から手を離した。


「記録片を封印して、会議へ持ち込みます。開示は共同審理中、複数監査下で」


ミルカが三号を抱え直す。


「この子を会議場へ?」


「持ち込まない予定でした。でも、黒炉の帰還先断片があるなら証拠になります」


「いじられる」


「いじらせません」


「管理官の『いじらせません』、だいたい相手がもっと大きい工具を持ってくる」


「否定できません」


グレンが入口から顔を出す。


「だったら、こっちも工具を持っていけ」


彼は黒い輪を机に置いた。


炉前で使う固定具に似ている。


だが内側に、第十三工廠の印が刻まれていた。


「帰還灯用の外部固定環だ。黒炉の管に勝手につながりそうになったら、物理的に締める」


セナが目を細める。


「荒い」


「荒いから効く」


ミルカが固定環を手に取り、三号へ合わせた。


「いける。見た目はひどいけど」


「見た目で命は戻らねえ」


「それはそう」


サマラが温かい飲み物を配りながら言った。


「会議に持っていくなら、食堂の鐘の写しも増やしてください」


リィンが頷く。


「三つ作った。管理官、ルカ、帰還灯用」


「帰還灯にも?」


「灯台だって、帰る音がいる」


誰も笑わなかった。


それが冗談ではないと、もう全員分かっていた。


帰還灯は道具だ。


だが、道具も黒炉に読まれる。


読まれれば、壊される。


戻る音を持たせることは、ただの迷信ではなくなっていた。


俊平は小鐘を受け取った。


「ありがとうございます」


リィンは少しだけ胸を張った。


「鐘楼係だから」




基幹契約会議の第二回共同審理は、前回より人が多かった。


黒い塔の地下へ降りる階段の時点で、空気が重い。


都市中の機関が、帰還権という言葉に群がっている。


税務局。


戸籍局。


葬送組合。


施療材商会。


工廠連盟。


戦災孤児管理課。


知らない印章が、壁際に並んでいた。


誰もが、自分の台帳が揺れることを恐れている。


誰もが、その揺れから利益を得ようとしている。


俊平は、ルカの車椅子を押しながら会議場へ入った。


ヘレナが隣につく。


リゼットは書類を抱え、ノアは黒い箱を持ち、イザベラは軍務局席へ向かう前に一度だけ俊平へ頷いた。


帰還灯三号はミルカが固定環で抱え、セナが制御盤を背負っている。


グレンは会議場の外で待機だ。


武器を持ち込めないからだ。


本人は「工具だ」と主張したが、通らなかった。


会議場の中央の黒い穴は、前より静かだった。


静かすぎた。


眠っているのではない。


待っている。


俊平にはそう感じられた。


マグダが銀の杖を鳴らす。


「基幹契約会議、第二回共同審理を開きます。前回の黒炉中枢による個別契約要求は無効。以後、黒炉中枢に関する意思確認は共同審理下で行う」


代読官は新しい仮面をつけていた。


前回より厚い。


目の部分が黒い硝子で覆われている。


「議題」


代読官の声が響く。


「帰還権対象範囲」


最初に立ったのは、オルドだった。


白い仮面。


白い手袋。


白い書類。


この男は、黒いものを扱う時ほど白くなる。


「第九施療院より、黒炉帰還症候の仮説を提出します」


書類が配られる。


黒炉帰還症候。


黒炉中枢に発生した、未処理帰還欲求の蓄積による機能異常。


症状: 燃料効率低下、痛覚燃料への偏食、帰還情報への過剰反応、個別契約要求。


治療案: 帰還灯を用いた中枢施療。


必要材料: 都市住民の帰還情報を広域収集し、黒炉中枢へ照射。


俊平は最後の行で視線を止めた。


広域収集。


言い換えても、徴収だ。


オルドは穏やかに言った。


「黒炉が帰りたいと発した以上、これを異常として扱う必要があります。都市心臓の苦痛を放置すれば、燃料供給は不安定化し、都市全体が危機に陥る」


マグダが問う。


「第九施療院は、黒炉を患者とみなすのですか」


「はい」


「患者とみなすなら、本人同意が必要では」


「黒炉中枢は前回、契約を求めました。施療同意と解釈できます」


俊平は立ち上がった。


「反対します」


マグダが視線を向ける。


「理由を」


「契約を求めたことは、施療同意と同じではありません。まして、その施療のために都市住民の帰還情報を広域収集する同意にはなりません」


オルドが首を傾げる。


「では黒炉を放置すると?」


「放置しません。意思確認の前に、帰還情報を与えない」


「患者が飢えている時、栄養を与えないのですか」


「その栄養が他人の名前なら、与えません」


会議場がざわついた。


オルドは笑った。


「相模管理官は、黒炉の生命より住民の名前を優先する」


「命と名前を交換させる言い方をやめてください」


「しかし、交換は医療の本質です。薬には材料がいる」


「材料にしていいものと、いけないものがあります」


「誰が決めるのです」


「本人です」


俊平は言った。


「黒炉自身の帰還意思も、都市住民の帰還情報も、それぞれ本人のものです。黒炉が帰りたいからといって、人間の帰る場所を材料にしていい理由にはなりません」


オルドは拍手しなかった。


ただ、静かに座った。


次に、バルド・レイスが立つ。


「外縁開拓局より、黒炉移送試験案を提出します」


会議場がざわめいた。


俊平は予想していた。


それでも、書類を見て喉が冷えた。


黒炉中枢の一部を外縁へ移送し、帰還欲求の発生源を調査する。


外縁の未返還帰還情報と照合し、黒炉の帰還先を特定する。


移送中の熱源利用を認める。


「黒炉が帰りたいのなら」


バルドは穏やかに言った。


「外へ出してみるべきです」


「都市の心臓を?」


都市燃料局のゲルトが声を荒らげる。


「馬鹿な。黒炉を動かせば都市供給が止まる」


「中枢全体ではありません。一部です」


「一部でも危険だ」


「外縁は常に危険です」


バルドの声は変わらない。


「黒炉が外から来たものなら、外縁に帰還先の痕跡がある可能性があります。帰還権を認めるなら、帰還先調査は必要でしょう」


俊平は問う。


「調査対象として扱うのですか。それとも動く熱源として扱うのですか」


「両方です」


「反対します」


「理由は」


「本人の帰還意思を確認する前に、移送先を機関が決めています。黒炉の帰還も、本人以外が決めない。それが帰還権です」


バルドは微笑んだ。


「黒炉本人とは何ですか」


来た。


この問いから逃げられない。


黒炉は炉なのか。


都市なのか。


燃やされた魂の集合なのか。


どこからどこまでが本人なのか。


俊平はすぐには答えなかった。


沈黙を恐れて口を開くと、制度はそこに杭を打つ。


「現時点では未定義です」


会場がざわめく。


バルドは追う。


「未定義なら、権利主体にできません」


「未定義だから、単独機関による処分を禁じる必要があります」


「処分」


「治療、移送、燃料利用。どれも処分です」


バルドの目が細くなる。


俊平は続けた。


「本人が分からないから、好きにしていいのではありません。本人が分からないから、分かるまで奪わない」


マグダがわずかに頷く。


バルドは座った。


納得ではない。


次の穴を探すための着席だった。


都市燃料局のゲルトが待ちかねたように立つ。


「都市燃料局は、帰還情報の全面燃料化を求めているわけではありません」


嘘だ、と作業場にいれば誰かが言っただろう。


会議場では、誰も言わない。


ゲルトは汗を拭きながら続ける。


「しかし、黒炉中枢が帰還欲求を示した以上、帰還情報が熱源として有効であることは明白です。都市維持のため、希望者からの帰還情報提供を認めるべきです」


「希望者」


俊平は言った。


「飢えた者、債務を負った者、前線から戻れない者、外縁へ送られる者に、帰る場所を売らせるのですか」


「適切な補償を」


「補償で買えるなら、それは帰還権ではありません」


ゲルトの指輪が黒く光る。


「理想で炉は回りません」


「人の帰る場所で回す炉を、理想とは呼びません」


「では、返還差分燃料とやらを今ここで示してください」


会場の視線が一斉に俊平へ向く。


実演。


来ると思っていた。


できれば避けたかった。


帰還灯三号は亀裂だらけだ。


黒炉中枢の近くで点灯すれば、接続される危険がある。


だが、示さなければ燃料局は引かない。


俊平はミルカを見た。


ミルカは帰還灯三号を抱え、嫌そうに頷いた。


セナが制御盤を床へ置く。


「実演条件を記録します」


リゼットが立つ。


「帰還灯三号の実演は、返還差分の検出のみを目的とします。個人帰還情報の新規貸与は禁止。使用する記録は第十三工廠共有記録の写し。返還監査を同時に行います」


マグダが問う。


「異議は」


ゲルトが笑った。


「ありません」


オルドも首を横に振らない。


バルドも黙っている。


誰も止めない。


止めないことが怖い。


彼らは失敗を待っている。


帰還灯が黒炉に食われれば、帰還権草案は危険物として潰せる。


あるいは、黒炉が返還差分を読み取れば、燃料局が奪う。


どちらでも、彼らは損をしない。


俊平は胸ポケットの小鐘を確認した。


ルカの車椅子にも、小鐘が結ばれている。


帰還灯三号の固定環にも、小鐘がついている。


三つの鐘。


戻る音。


「点灯します」


ミルカが三号を中央の台へ置く。


グレンの固定環が、黒い外殻を締めている。


セナが制御盤を操作する。


「出力、一」


灯りがともる。


小さい。


会議場の黒い穴に比べれば、針の先ほどの光。


だが、確かにある。


リゼットが記録する。


「使用記録、第十三工廠食堂鐘写し。貸与開始」


サマラの鐘の音が、薄く響いた。


会議場に食堂の音が広がる。


皿を置く音。


足音。


誰かが「熱い」と文句を言う声。


スープの湯気。


労働者たちが同じ時間に座ったという浅い記録。


黒い穴が、わずかに反応した。


熱が上がる。


セナが叫ぶ。


「黒炉接続圧、上昇」


「固定環」


ミルカが固定環を締める。


金属が悲鳴を上げた。


「接続、遮断。ぎりぎり」


「返還へ」


リゼットが言う。


「貸与記録を第十三工廠へ返還します」


鐘の音が、会議場から遠ざかる。


同時に、帰還灯三号の内側に淡い熱が生まれた。


黒炉の熱とは違う。


痛みの熱とも違う。


誰かが椅子から立ち上がり、自分の席へ戻る時の、わずかな温度。


なくした鍵が見つかった時の息。


呼ばれた名前に返事をした時の、胸の奥の明るさ。


それは小さかった。


しかし、確かに測定値として出た。


セナが声を上げる。


「返還差分熱、検出。痛覚抽出なし。帰還情報未返還なし。返還率、百」


会議場が静まり返った。


都市燃料局のゲルトが身を乗り出す。


「熱量は」


「微量です」


セナが答える。


「黒炉主燃料には足りません」


ゲルトが笑いかけた。


「では」


「ただし」


セナは続けた。


「反復可能です。記録を消費せず、返還ごとに差分熱が発生する。燃やし切り型ではなく循環型です」


ゲルトの笑みが止まった。


マグダが問う。


「循環型とは」


俊平が答える。


「痛みや帰還情報を消費するのではなく、貸与と返還の工程で生まれる余剰熱です。一回あたりは小さい。でも、返還が成立する限り、記録は残る」


「都市全体へ応用可能か」


「可能性はあります。ただし、燃料目的で貸与を発生させることは禁止すべきです。施療、救助、身元回復、死者記録返還など、本来の返還工程に付随する余剰熱だけを回収する」


ノアが静かに立った。


「死者会計局として補足します。未返還死者記録の返還工程でも、同様の差分熱が発生する可能性があります」


会場がざわつく。


死者の名前を返すことで熱が出る。


それは、都市燃料局にとって誘惑だ。


同時に、死者会計局にとって救済でもある。


ノアは黒い箱に手を置いた。


「ただし、燃料目的で死者記録を乱すことは認めません。返還が主、熱は副産物です」


マグダが記録させる。


「返還差分熱。副産物原則」


俊平はその言葉を胸に刻んだ。


副産物原則。


熱のために返すのではない。


返すから、熱が生まれる。


順番を間違えれば、すべてが反転する。


その時、黒い穴から低い音がした。


代読官が顔を上げる。


「黒炉中枢、反応」


セナが制御盤を見る。


「接続圧、また上がってる」


帰還灯三号の灯りが揺れた。


固定環が軋む。


黒炉が、返還差分熱を食べようとしている。


いや。


違う。


俊平は、その音に別のものを聞いた。


食べたい音ではない。


真似しようとしている音だ。


黒炉は返す工程を読めない。


だから、自分の中にある何かを返そうとしている。


「セナさん、遮断しすぎないでください」


「は?」


「黒炉が何かを返そうとしている」


「根拠は」


「音です」


セナが頭を抱える。


「リィンみたいなこと言い始めた」


リィンが会議場の端で言う。


「たぶん合ってる」


「もっと困る」


マグダが杖を鳴らした。


「共同審理下での黒炉反応記録を許可します。ただし、個別契約接続は禁止」


「了解」


セナが出力を細かく調整する。


ミルカが固定環を少しだけ緩める。


帰還灯三号の灯りが、黒い穴の熱と触れた。


瞬間、会議場の壁に映像が走った。


黒い炉ではなかった。


白い炉だった。


雪のような灰に囲まれた、大きな白い炉。


そこには都市はなかった。


工廠も、施療院も、外縁も、前線もない。


ただ、広い荒野と、七本の塔があった。


炉は塔の中心に据えられ、鎖でつながれていた。


誰かが炉に近づく。


顔は見えない。


手には、小さな鐘。


その人物は、炉を名前で呼んだ。


音は割れていた。


けれど、確かに聞こえた。


「エリス」


会議場が凍った。


黒炉に、名前があった。


エリス。


リィンが耳を押さえたまま呟く。


「鐘が、泣いた」


黒い穴から熱風が吹き上がる。


代読官が苦しそうに膝をつく。


「帰リタイ」


黒炉の声。


「エリス」


今度は、名前を呼ぶ声だった。


自分を呼ぶ声なのか。


誰かを呼ぶ声なのか。


分からない。


しかし、会議場の全員が理解した。


黒炉はただの設備ではない。


少なくとも、何かに名前で呼ばれた記録を持っている。


オルドが立ち上がった。


「第九施療院、緊急提案。黒炉中枢の人格性を医療的に保護し、当院主導で」


「却下」


マグダが即座に言った。


オルドが仮面を向ける。


「まだ提案中です」


「単独機関による黒炉処分は禁止したばかりです」


バルドも立つ。


「外縁開拓局として、今の映像に出た荒野と塔の調査権を」


「保留」


マグダの杖が鳴る。


ゲルトが叫ぶ。


「都市燃料局は、黒炉名の公開を制限すべきだ。炉に名前があるなど、都市不安を招く」


ノアが静かに言った。


「名前を隠すことと、名前を守ることは違います」


会議場の混乱が広がる。


俊平は帰還灯三号へ目を向けた。


外殻の亀裂が増えている。


黒炉から流れ込んだ記録片が、三号を圧迫している。


「セナさん、返還」


「返還先が分かりません」


「黒炉へ返す」


「黒炉から来た記録を黒炉へ?」


「はい」


「それで差分が出たら、黒炉が食べます」


「食べるんじゃなくて、自分の記録が戻る」


「違いが細い!」


「だから監査します」


リゼットが前に出る。


「記録します。黒炉名エリスは、現時点で黒炉中枢より発生した自己関連記録として扱う。所有権は未確定。燃料化、医療利用、移送根拠への転用を禁止。返還先は黒炉中枢。ただし共同審理記録として写しを封印」


マグダが頷いた。


「医療契約課、承認」


ノアが続く。


「死者会計局、承認」


イザベラが軍務局席から立つ。


「前線軍務局、私は承認」


ダリオが舌打ちしたが、反対はしなかった。


バルドは時計を見たまま言う。


「外縁開拓局、写し封印を条件に承認」


ゲルトは不満そうだったが、マグダの視線に押されて座った。


オルドは黙っている。


それが一番不気味だった。


「返還します」


俊平は言った。


帰還灯三号の灯りを、黒炉の穴へ向ける。


エリス。


その名前を、燃やさないように。


治療に使わないように。


移送根拠にしないように。


ただ、戻す。


灯りが黒い穴へ落ちた。


会議場の熱が、一瞬だけ白くなる。


雪のような灰の匂いがした。


黒炉の声が、ひどく小さくなる。


「……かえ」


そこで止まった。


完全な言葉にはならない。


だが、帰還灯三号の数値は安定した。


セナが震える声で言う。


「返還率、百。差分熱、検出。でも、黒炉が消費していません」


「どうなった」


マグダが問う。


「黒炉中枢の燃焼効率が、一時的に安定」


会議場が静まり返る。


食べさせたのではない。


返した。


それだけで、黒炉は少し安定した。


ゲルトが青ざめる。


「そんな馬鹿な」


俊平は言った。


「黒炉は飢えていただけではありません。詰まっていたのかもしれません」


「詰まる?」


「返せないものを燃やし続けて、未返還記録が炉の中に溜まっている」


ノアが黒い箱を握った。


「死者の名も」


「はい」


「痛みも」


ヘレナが小さく言う。


「帰りたい気持ちも」


「たぶん」


俊平は黒い穴を見た。


黒炉は怪物だ。


だが、怪物になった理由がある。


だから許す、ではない。


だから使う、でもない。


理由があるなら、工程にできる。


工程にできるなら、止め方を探せる。


マグダが杖を鳴らした。


「暫定判断を下します」


会議場の全員が姿勢を正す。


「帰還権の対象範囲について、人間に限定しない暫定保護を認めます」


ざわめき。


ゲルトが立ち上がりかける。


マグダの杖がもう一度鳴った。


「ただし、帰還意思を持つ非人間存在の保護は、人間および死者の帰還権を侵害しない範囲に限る。黒炉中枢に関する治療、移送、燃料利用、名の公開、帰還先調査は、共同審理の許可なく行ってはならない」


リゼットが筆を走らせる。


「さらに、帰還情報の燃料化を禁止。返還差分熱は副産物原則に基づき、施療、救助、身元回復、死者記録返還に付随する場合のみ回収可」


都市燃料局の席がざわついた。


マグダは続ける。


「第十三工廠には、返還差分工程の試験計画を提出させます。第九施療院、外縁開拓局、前線軍務局、都市燃料局は、それぞれ修正案を十二時間以内に提出」


俊平は思わず笑いそうになった。


また十二時間。


この都市は本当に、時計の針で人を殴るのが好きだ。


だが、今回は違う。


帰還権は一歩進んだ。


人間だけでなく、帰還意思を持つ存在。


黒炉の名前。


エリス。


そして、返還差分熱。


奪わずに回すための、小さすぎる熱。


小さすぎるから、守らなければならない。




会議が終わる直前、ルカが手を上げた。


小さな手だった。


石化した指は動かない。


動くのは、手首だけ。


それでも、会議場の視線が集まった。


マグダが静かに問う。


「ルカ・エルム。発言しますか」


ルカは頷いた。


帰還灯二号が車椅子の横で最小出力を保っている。


ヘレナが小鐘に触れる。


リン、と小さな音。


ルカは息を吸った。


「僕は、帰りたいって言った」


声は掠れていた。


けれど、会議場の底まで届いた。


「そしたら、外縁の人が、価値が上がったって言った」


バルドは表情を変えない。


ルカは続ける。


「黒炉も、帰りたいって言った」


黒い穴が静かに鳴る。


「だから、たぶん、黒炉も危ない」


会議場が静まる。


少年は、ゆっくり言葉を選んだ。


「帰りたいって言ったら、誰かがそれを使おうとする。僕も、黒炉も」


ヘレナが涙をこらえる。


「だから、帰りたいって言えるようにしてほしい。でも、言ったせいで売られないようにしてほしい」


リゼットの筆が止まった。


俊平も、息を止めていた。


ルカは最後に言った。


「それだけ」


短い証言だった。


だが、どの書類より強かった。


帰還権の中心にあるもの。


帰りたいと言えること。


そして、言ったせいで奪われないこと。


マグダはしばらく黙り、深く頷いた。


「記録します」


その一言で、ルカの証言は会議記録になった。


誰かの感情ではなく。


制度に打ち込むための釘になった。




会議場を出ると、オルドが待っていた。


「また、厄介な証言を得ましたね」


俊平はルカの車椅子を押したまま答える。


「本人の声です」


「本人の声ほど、制度に向かないものはありません」


「だから制度が曲がるべきです」


オルドは白い仮面を少し傾けた。


「黒炉の名を聞きましたか」


「エリス」


「あれが本当に黒炉の名なら、黒炉は作られたものではなく、連れてこられたものかもしれない」


「知っていたんですか」


「第九施療院には、古い施療記録があります。黒炉設置前夜、都市の地下に運ばれた白い炉の記録」


俊平は足を止めた。


「なぜ今まで出さなかった」


「医療記録は保護対象です」


「都合のいい保護ですね」


「保護とは、いつも都合よく使われます」


オルドは穏やかに言った。


「次の審理で、私はその記録を出します」


「条件は」


「第九施療院を黒炉帰還症候の共同施療機関に入れること」


「脅しですか」


「交渉です」


ヘレナがルカの肩に手を置いた。


ルカはオルドを見ていた。


石化した少年の目に、恐怖と怒りがある。


オルドはその視線を受けても、声を変えない。


「ルカ君。あなたの証言は見事でした」


「僕を売った人に褒められても、嬉しくない」


白い仮面の奥が、一瞬だけ沈黙した。


「正しい」


オルドはそう言った。


本当にそう思っているようにも聞こえた。


だから余計に不気味だった。


彼は去っていく。


その背中を見送りながら、リゼットが低く言った。


「古い施療記録。欲しいですね」


「でも、第九施療院を入れるのは危険です」


「入れないと、彼らは別の入口から入ります」


「でしょうね」


俊平は頭が痛くなった。


共同審理。


共同管理。


共同施療。


言葉は似ている。


中身はまったく違う。


どこまで入れ、どこから止めるか。


線引きの仕事がまた増えた。


外へ出ると、バルドが壁にもたれていた。


「相模管理官」


「今日は人気ですね」


「黒炉の荒野の映像について」


「外縁開拓局が調べたいと」


「ええ。ただし、あなたの言う通り、単独調査は通らないでしょう」


「なら」


「第十三工廠を共同調査に招きます」


俊平は眉を寄せた。


「外縁へ?」


「黒炉の帰還先が外縁の向こうにあるなら、いずれ行くことになります」


「断ります」


「今はそれで構いません」


バルドは時計を見た。


「ですが、外縁死者の記録返還を進めるなら、現地記録が必要です。死者の名前は、机の上だけでは返りません」


ノアの黒い箱がかすかに鳴った。


俊平はノアを見る。


ノアは否定しなかった。


「いずれ」


俊平は言った。


「いずれ、検討します」


「外縁では、『いずれ』は早く来ます」


バルドはそう言って去った。


最後に、ダリオが近づいてきた。


イザベラも一緒だった。


二人の間には、明らかな緊張がある。


「補給監として、返還差分熱には興味がある」


ダリオが言った。


「兵站利用を?」


「もちろんだ」


俊平が口を開く前に、イザベラが言った。


「ただし、兵士の帰還権を削らない形で」


ダリオは彼女を睨む。


「理想論に染まったか」


「前線で拒否した兵を守った。あいつはまだ生きている」


「戦えない」


「生きている」


二人の声は低い。


だが、その間に火花が散っている。


ダリオは俊平へ視線を戻した。


「返還差分熱の前線試験を要求する」


「条件があります」


「聞こう」


「兵士の個人帰還情報を燃料目的で貸与させない。施療や身元回復に付随する余剰熱だけを計測する。拒否権ではなく、不同意権を明記する」


「同じだろう」


「違います。拒否権というと、命令に逆らう響きになる。不同意権は、本人の情報を本人が守る権利です」


イザベラが小さく頷いた。


ダリオは不満そうだったが、書類を受け取った。


「検討する」


「ありがとうございます」


「礼は早い。私はまだ敵側だ」


「敵側でも、検討してくれるなら助かります」


ダリオは一瞬だけ表情を崩した。


笑ったのかもしれない。


すぐに戻った。


「イザベラ。帰投するぞ」


「私は第十三工廠へ寄る」


「命令だ」


「前線十名の返還監査報告が未完了です。補給監も、記録の穴は嫌いでしょう」


ダリオは舌打ちした。


「三時間だ」


「十分」


イザベラは俊平へ視線を向けた。


「相模、借りが増える」


「返還監査します」


「そうしてくれ」




第十三工廠へ戻った時、空から灰が降っていた。


黒い灰ではない。


白い灰。


黒炉都市で白い灰が降るのは珍しい。


リィンが鐘楼から空を見上げている。


「黒炉の夢の灰」


「夢?」


俊平が問う。


「鐘がそう言ってる」


白い灰は、手のひらに落ちるとすぐ消えた。


熱くない。


冷たくもない。


ただ、触れたところに短い映像を残す。


俊平の手に落ちた灰は、白い炉を映した。


七本の塔。


鎖。


小さな鐘。


そして、炉を呼ぶ声。


エリス。


サマラが食堂から出てきて、白い灰を見て顔をしかめる。


「これ、食材に入ったら嫌ですね」


「現実的ですね」


「食べられない夢は困ります」


ミルカが帰還灯三号を作業台に置いた。


「三号、もう限界。次に黒炉記録を受けたら割れる」


「四号が必要ですね」


セナが即座に言う。


「嫌な予感しかしない数字」


「四号は、黒炉用ではありません」


俊平は白い灰を見た。


「返還差分工程の試験用です。施療、死者記録返還、身元回復、それぞれで小さな差分熱を測る。黒炉に直接つながない」


「黒炉が勝手につながりに来たら」


「遮断する」


「できる装置を作るのは誰ですか」


「セナさんとミルカさん」


二人が同時に嫌な顔をした。


「管理官」


セナが言う。


「十二時間しかないんですよ」


「はい」


「三号の修理、四号の設計、返還差分工程の試験、次回会議資料、オルドの古い施療記録への対策、外縁調査案への対策、軍務局試験条件。全部十二時間?」


「全部は無理です」


作業場が一瞬静かになった。


俊平が「無理」と言うのは珍しい。


自分でも少し驚いた。


だが、言わなければならない。


「優先順位をつけます」


リゼットがすぐに書記板を構える。


俊平は続けた。


「第一、帰還権暫定保護条項の確定」


「第二、返還差分熱の副産物原則」


「第三、黒炉名エリスの封印管理」


「第四、各機関の共同参加条件」


「第五、四号試験」


セナが頷く。


「四号は最後」


ミルカが言う。


「三号を守る方が先」


「はい」


グレンが炉前から声をかける。


「外から客だ」


またか、と全員が思った。


入ってきたのは、見慣れない少女だった。


年はリィンより少し上くらい。


灰色の外套を着て、髪に白い灰を積もらせている。


片手には、古い鍵束。


もう片方の手には、第九施療院の封筒。


「誰です」


俊平が問う。


少女は深く頭を下げた。


「第九施療院、地下記録庫見習い。メイラ・フォーンです」


オルドの使いか。


作業場の空気が警戒に変わる。


メイラは震えていた。


寒さではない。


恐怖だ。


「オルド医師から、古い施療記録の写しを届けるように言われました」


俊平は眉を寄せる。


「条件付きだったはずです」


「はい。でも」


メイラは封筒を差し出した。


「これは、条件のない写しです」


リゼットがすぐに受け取り、封印を確認する。


「第九施療院の正式封蝋。でも、開封跡があります」


メイラは唇を噛んだ。


「私が開けました」


作業場が静まる。


「なぜ」


俊平が問う。


少女は小さな声で言った。


「記録庫で、白い炉の記録を見ました。そこに、私の曾祖母の名前がありました」


「曾祖母」


「黒炉設置前夜、白い炉を運んだ七人のうち一人です」


リィンが息を呑む。


七本の塔。


鎖。


炉を呼ぶ声。


七人。


メイラは続けた。


「記録には、七人全員が帰還不能と書かれていました。でも、死亡記録がありません」


ノアの黒い箱が鳴った。


死者会計局にない死者。


それは、最も厄介な記録だ。


「曾祖母の名前は」


俊平が問う。


「エリシア・フォーン」


エリス。


エリシア。


名前が似ている。


偶然かもしれない。


だが、この都市で偶然はたいてい契約書の裏にいる。


メイラは鍵束を握りしめた。


「私は第九施療院の記録庫見習いです。オルド医師に逆らえば、記録庫から消されます」


「それでも来た」


「曾祖母が、まだ帰れていないなら」


彼女は白い灰の降る作業場で、まっすぐ俊平を見た。


「帰りたいって言えるようにしてほしい」


ルカの言葉と同じだった。


帰りたいと言えるように。


言ったせいで売られないように。


俊平は封筒を見た。


罠かもしれない。


オルドがわざと流したのかもしれない。


メイラ自身も、知らずに使われているのかもしれない。


だが、記録はある。


未返還の七人。


白い炉。


エリス。


黒炉の帰還先。


全部が、一本の線になりかけている。


リゼットが低く言った。


「管理官。開封は共同監査で」


「はい」


俊平は頷いた。


「メイラさん。あなたを第十三工廠の証人保全対象にします」


「それは安全なんですか」


「安全ではありません」


「正直ですね」


「嘘をつくと、あとで記録係に怒られます」


リゼットが何も言わずに頷いた。


メイラは少しだけ笑い、すぐに泣きそうな顔になった。


「お願いします」


俊平は封筒を机に置いた。


次の会議まで、十二時間。


やることは増えた。


また増えた。


だが、今度の増え方は違う。


黒炉の奥に、名前がある。


その名前に触れた人間がいる。


その人間たちが帰れていない。


黒炉を守ることと、黒炉に奪われた者を返すこと。


二つは、別々ではないのかもしれない。


俊平は白い灰の降る窓を見た。


灰の向こうで、黒炉の管が低く鳴っている。


エリス。


誰かがそう呼んだ炉。


あるいは、誰かをそう呼んだ炉。


第十三工廠の鐘が鳴った。


作業開始の鐘。


眠る工程は、また後回しになった。


俊平は台帳を開く。


新しい項目を書く。


白炉搬送七名。


帰還不能。


死亡記録なし。


記録庫見習いメイラ・フォーン。


証人保全。


そして。


黒炉名エリス。


燃料化禁止。


医療利用禁止。


移送根拠化禁止。


本人確認まで、呼称として封印。


ペン先が震えた。


名前を書くことは、守ることだ。


同時に、狙われる形を与えることだ。


それでも書く。


書かなければ、誰かが勝手に別の名前をつける。


炉にも名前はあるか。


その問いは、会議場に残ったままではない。


第十三工廠の机の上で、次の工程になった。

ここまで読んでくださりありがとうございました。


第20話では、黒炉にも帰還権を認めるのか、という共同審理を進めました。


黒炉を患者として扱いたい第九施療院、外縁へ移したい外縁開拓局、燃料として見たい都市燃料局。


それぞれが「黒炉のため」という言葉を使いながら、別々の目的で黒炉を扱おうとしています。


俊平は、黒炉を守ることと、人間の帰還権を守ることを切り離さない形で暫定保護を通しました。


また、黒炉に「エリス」という名前らしき記録があること、そして白い炉を運んだ七人の帰還不能者がいたことが明らかになりました。


新登場のメイラは、第九施療院側の人間でありながら、記録を持って第十三工廠へ来た人物です。


彼女が裏切り者なのか、証人なのか、それとも誰かに使われているのか。


そのあたりも次回以降で掘っていきます。


次回は、白炉搬送七名の記録と、黒炉エリスの正体に近づく回になります。


引き続き読んでいただけたら嬉しいです。


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