第2話 十七人の候補
俊平は眠れなかった。
工廠の仮眠室は、仮眠という言葉への侮辱のような場所だった。薄い寝台、油の染みた毛布、壁の向こうから聞こえる歯車の唸り。天井の配管からは、一定の間隔で黒い雫が落ちている。
(眠ったら、あの声をまた聞く)
彼は台帳を開いた。白紙だったはずのページには、いつの間にか十七の名前が並んでいた。
グレン・ヴァルツ。
リゼット・クロウ。
ミルカ。
セナ・イオリス。
俊平の指が止まる。
(主要人物だから選ばれたんじゃない。工廠にとって価値が高いから、燃料として効率がいい)
コーデックスは無慈悲に補足する。
犠牲候補: 高影響個体
想定効果: 労働者統制、怨霊鎮静、黒炉出力安定
推奨実行期限: 48時間以内
扉が叩かれた。リゼットが入ってくる。彼女は台帳を一瞥し、表情を変えなかった。
「見ましたか」
「知っていたんですか」
「前任者も見ました。彼は三人を選び、七人目で壊れました」
俊平は台帳を閉じた。
「選びません」
「なら、別の案が必要です」
「あります」
俊平は壁に工程表を貼った。原料受入、洗浄、鎮魂、鋳込み、検査、出荷。赤い印が多すぎて、ほとんど血の地図だった。
「犠牲者を選ぶ代わりに、損失の発生源を潰します。まず炉前班を二交代から三交代へ。鎮魂工程は独立検査。出荷前の怨霊検査は全数」
リゼットは首を振った。
「人が足りません」
「足りない理由を確認します」
夜明け前、俊平は労働者名簿を見た。死亡者、逃亡者、病欠者、処刑予定者。数字の下に、別の表示が浮かぶ。
隠匿労働者: 29名
隠匿責任者: リゼット・クロウ
俊平はリゼットを見た。
「処刑予定者を逃がしていましたね」
倉庫の奥で、リゼットの水晶義眼が淡く光る。
「告発しますか」
「しません。戻せますか」
「戻せば処刑されます」
「処刑を延期します。工廠再建に必要な技能者として、管理官権限で再登録する」
「監査官が許しません」
「許す形に帳票を作ります」
リゼットは初めて、ほんの少し笑った。
「あなた、善人の顔をして悪いことを覚えるのが早いですね」
「悪いことじゃない。現場復帰です」
「言い方だけは管理官です」
その日の昼、炉前班で反発が起きた。
グレンが俊平の工程表を壁から剥がし、床に叩きつけた。
「休憩を増やせば生産量が戻る? ふざけるな。釜は人間を待たない」
「人間が釜を待てなくなった結果が今です」
「俺たちは昨日今日来たお前より、この炉を知っている」
グレンの怒号に、作業員たちが集まる。誰も俊平に味方しない。燃えた手袋、煤だらけの顔、眠れていない目。彼らの沈黙は、怒鳴り声より重かった。
俊平は床に落ちた工程表を拾わなかった。
「一時間だけください」
「何をする」
「あなたたちの手順を、僕がやります」
炉前がざわついた。
リゼットが低く言う。
「死にますよ」
「現場を見ずに数字だけで命令したら殴ると言われました」
グレンの顔が歪む。
「本気か」
俊平は黒鉄の手袋をはめた。重すぎて指がまともに曲がらない。釜に近づいただけで皮膚が焼ける匂いがした。鎖を引く。甲冑部品は予想より重い。足元が滑る。視界に警告が出続ける。
心拍異常。
熱傷危険。
作業適性: 低。
(知ってる。低くて当然だ)
十分で腕が上がらなくなった。十五分で膝が笑った。二十分で、俊平は鎖を取り落としそうになった。
その瞬間、グレンの義手が鎖を掴む。
「もういい」
「まだ一時間では」
「もういいと言った」
グレンは俊平を炉から引き剥がした。
「お前の案を試す。ただし、現場の手順は俺が直す。お前は数字を見ろ。俺は人を見る」
俊平は荒い息のまま頷いた。
「お願いします」
その夜、最初の三交代表が貼り出された。
処刑予定だった二十九人が、仮登録の技能者として工廠に戻った。誰も拍手しなかった。ただ、名簿に自分の名前を見つけた老人が、声を殺して泣いた。
黒炉は沈黙している。
だが台帳の十七人の名前は、消えていなかった。




