第12話「因果の果て」
その夜、空には雲一つなく、数え切れないほどの星々がグラシエール帝国の王城を見下ろすように輝いていた。
リアナは自室の広いバルコニーに出た。
凍てつくような夜の冷気を感じながら、南の空、かつての祖国がある方角を静かに見つめていた。
手すりに添えた指先から伝わる石の冷たさが、彼女の頭をクリアに保ってくれる。
レオンが逃げ帰ってから数時間が経過した今、リアナの体内で微かな、しかし決定的な変化が起きていた。
ソルスティス王国の土壌と彼女の魔力をかろうじて繋ぎ止めていた目に見えない極細の糸が、音もなく乾ききって、完全に風化していく感覚。
それはまるで、古くなった羊皮紙が手のひらの中で崩れ去り、細かい灰となって虚空へ散っていくような静かな喪失感だった。
リアナは目を閉じ、意識の奥底でその感覚を確かめる。
これまで彼女の耳の奥に常にまとわりついていた、南の大地からの苦しげな声が、今は完全に途絶えている。
結界が完全に崩壊し、国土の全域から生命の気配が消失した証拠だった。
今頃、ソルスティスの王都では、偽りの祈りを捧げていたミレイユの嘘が完全に暴かれ、人々は取り返しのつかない絶望の中で泥にまみれていることだろう。
彼らがどれほど後悔し、どれほどリアナの名を叫ぼうとも、もうその声が届くことは永遠にない。
「冷えるぞ」
背後から響いたアルヴィドの低い声と共に、リアナの肩に分厚く温かい毛織物のショールが掛けられた。
彼の手がショール越しにリアナの肩を優しく包み込み、その大きな体温が夜風の冷たさを完全に遮断してくれる。
リアナは目を開け、背後に立つアルヴィドの胸にそっと背中を預けた。
彼の規則正しい呼吸の振動が、リアナの背中から全身へと心地よく伝わっていく。
「終わったのですね」
リアナのつぶやきは、誰に問いかけるでもなく、ただ事実を夜空に放つような響きを持っていた。
アルヴィドはリアナの肩を抱く腕の力をわずかに強め、南の空を同じように見つめた。
「ああ、斥候からの報告によれば、ソルスティスの大地は完全に砂と化し、王族は民の怒りから逃れるために都を捨てたそうだ」
彼の言葉には嘲りも喜びもなく、ただ当然の因果が巡ったという淡々とした事実だけが込められていた。
長年、リアナの命を削って維持されてきた繁栄は、彼女を手放した瞬間に砂上の楼閣のように崩れ去る運命にあったのだ。
リアナの胸の中に、悲しみや怒りといった感情はもう何一つ残っていなかった。
ただ、肩の奥深くに重くのしかかっていた見えない鎖が完全に砕け散り、圧倒的なまでの自由と軽さが全身を満たしている。
「私はもう、誰かの身代わりでも、道具でもありません」
リアナはショールを握る手を胸元で重ね、アルヴィドを見上げるように振り返った。
星明かりに照らされた彼の顔は、普段の氷のような冷たさを微塵も感じさせず、信じられないほど穏やかで優しい表情を浮かべていた。
「お前はお前だ。この国に花を咲かせ、人々に笑顔を取り戻させた、たった一人の大切な女性だ」
アルヴィドの大きな掌がリアナの頬を包み込み、親指がそっと彼女の目尻を撫でる。
彼の手のひらから伝わる熱が、リアナの体の芯まで染み渡り、心地よい安らぎで満たしていく。
バルコニーの床に座っていたルティが、神獣の真の姿から愛らしい仔犬の姿へと戻り、リアナのドレスの裾にじゃれついた。
リアナはその小さな命の温もりを足元に感じながら、アルヴィドの深く青い瞳に真っ直ぐに視線を交差させる。
「アルヴィド様……私を、見つけてくださってありがとうございます」
リアナの声は震えることなく、心からの深い感謝と愛情を帯びて夜空に溶け込んでいった。
アルヴィドは何も答えず、ただリアナの額に自分の額を静かに押し当て、深く温かい息を吐き出す。
二人の間には言葉以上の確かな繋がりが生まれ、過去の因果は完全に断ち切られ、ただ互いを求め合う純粋な想いだけが存在していた。
冷たい風が吹き抜けても、もうリアナの心が凍えることはない。
彼女は新しい大地の鼓動と、愛する人の心臓の音を同時に感じながら、訪れるべき穏やかな朝を心待ちにしていた。




