球音の向こうから
ワールドシリーズ
球音の向こうから
世界が固唾を飲んで見守る「ワールドシリーズ」。
舞台はニューヨーク、蒼天を突き刺すスタジアムの歓声が、
まるで都市そのものの鼓動のように響いていた。
ニューヨーク・ランナウェイズ
俊敏さと駆け引きで勝ちをもぎ取る都会派の強豪。
バハマ・ウォールズ
強打と鉄壁の守りで知られる、海風の戦士たち。
八回裏、スコアは3対3。
球場全体がピンと張り詰め、客席の息さえ揺らいで見える。
実況が叫ぶ。
「ウォールズ、セットポジション…投げた!速いッ!」
バッターが力強くスイングする。
⁂――カキィィンッ!
白球が夜のライトに吸い込まれ、スタンドへ一直線。
「……っ、しかしフェンス直前で捕ったぁ!ウォールズのスーパーキャッチ!」
ため息と歓声が渦巻く。
その瞬間——
球場の外に停められた黒い車の中で、
スマートフォンが震えた。
鳴っているのは、九条凛の端末。
画面の中の名前は――秋山亮一。
「教授?」
凛は電話に出る。
≪凛くん、今どこだ?≫
いつもの穏やかな声。だが、どこか急いでいる。
「国際試合の視察です。学会関係者に誘われて…
でも、なぜ急に?」
短い間。
球場の熱狂すら、凛には遠く感じられた。
≪紗耶の研究データが動いた≫
凛の心臓が跳ねる。
「紗耶さん…の?」
≪第三者がアクセスした痕跡がある。
君の持つ端末経由で——だ≫
凛は凍りつく。
球場の歓声が遠く霞む。
「教授、まさか……監視されてる?」
≪その可能性が高い≫
画面の外では、ランナウェイズの選手がスライディングし、
審判が大きく腕を広げてアウトを宣告していた。
興奮、怒号、スポットライト——
世界は華やかに燃え上がり続ける。
しかし、凛の世界には静かな影が差し込む。
「教授……私、どうすれば?」
≪すぐに帰ってきなさい。
この試合が終わる前に。
君が“鍵”になる前に≫
電話が切れる。
凛は拳を握った。
野球の応援に浮かれる群衆が、異国のノイズのように感じられる。
——走らなければ。
自分が追われる前に。
真実に飲み込まれる前に。
スタジアムの大スクリーンに、白球が映る。
それはまるで、真実が空を切り裂くようだった。
凛は席を立ち、背を向けた。
喧騒から離れながら、呟く。
「教授……
私も、覚悟を持つ時なんですね」
闇の中、タクシーのドアが音を立てて閉じた。
ニューヨークの夜が、ふたりを再び謎へ導いていく。
帰国便の影
タクシーの窓を叩く冷たいニューヨークの風。
九条凛は深く呼吸した。
胸の奥に、違和感と不安が渦巻く。
「……まさか、私の端末が狙われたなんて」
ドライバーがミラー越しに視線を投げる。
「レディ、空港?こんな時間に急なフライトかい?」
「はい。急用で」
「そりゃ大変だ。大事な仕事か?」
凛は一瞬迷い、微笑を作った。
「ええ、とても。命に関わるかもしれません」
ドライバーは冗談と思ったらしく、笑っていた。
凛の表情は、笑えなかった。
⸻
◆ 羽田行きゲート前
チェックインを済ませ、ゲート前。
凛はバックパックを抱え、座席に腰を下ろした。
周囲にはビジネスマン、観光客、
子どもの手を引く家族——
誰もが帰国の期待を胸にしている。
凛だけが、違う色の空気を纏っていた。
スマホを開くと、教授からメッセージ。
【状況に変化。空港では油断するな】
胸がざわつく。
辺りを見渡すと、
黒いコートの男が、こちらを一瞬だけ見た。
すぐに新聞に視線を戻す。
(……勘違い?)
いや、長年の推理訓練が告げていた。
見られている。
凛の喉が乾く。
ジャンパーの内ポケットに指を忍ばせ、
ペン型の防犯スプレーを触った。
(落ち着け、九条凛)
隣の席に、年配の女性が座った。
白髪を綺麗にまとめ、温かい笑みを湛えた人。
「お嬢さん、旅行帰り?…それとも、お仕事?」
凛は警戒を解かず、曖昧に笑う。
「仕事です。少し…大変になってしまいました」
「まあ。人生、突然波が立つものよね」
柔らかな声に、
凛はほんの少しだけ心が緩んだ。
だが——女性は続ける。
「それで、研究データは無事?」
凛の全身が硬直した。
「……なんの話でしょう」
女性の笑みは変わらない。
ただ瞳の奥が、冷たく光った。
「あなたが持っている“彼女の鍵”。
それを求めている人間は多いわ」
(紗耶さんの……鍵——!)
凛は立ち上がろうとする。
しかし女性は静かに言った。
「走ってもいいわ。
でも、逃げ切れると思わないことね」
その時、アナウンスが響いた。
「羽田行き、搭乗開始いたします」
凛はバックパックを掴み、早歩きでゲートへ向かう。
振り返らない。
振り返れば、足がすくむ。
自動ゲートを通過し、機内通路へ。
まるで暗い長いトンネル。
その奥に日本が、秋山教授が、真実が待つ。
(私は——行く。絶対に)
凛の決意を乗せ、搭乗口が閉まった。
機体が動き始めると同時に、
黒いコートの男が遠くからその姿を見送っていた。
男は携帯を耳に当てる。
「対象、帰国便に乗った。
……はい。計画通りです」
耳元で声が返る。
≪あとは迎え撃つだけ。
秋山亮一は、もう逃げられない≫
夜の滑走路に、
飛行機の影と、陰謀の影が重なった。
まだまだ未熟です




