教授のレコード
秋山教授が19歳の頃に作った自作のレコードには、若き日の感情と音楽への情熱が刻まれている。
かつての恋人・聡美への想い、未熟ながらも真摯な心の揺れ、そして未来への憧れ――
それらが旋律として記録されたこの章では、教授の内面と過去が静かに語られる。
読者は、推理探偵としての教授とは異なる、ひとりの青年としての姿を垣間見ることができるだろう。
教授のレコード ― 19歳の想い ―
秋山教授の手元には、古びたレコードが一枚、丁寧に保管されていた。
その盤面には、19歳の秋山が自ら録音したピアノ演奏が刻まれている。
大学一年生の時期、音楽に没頭しながらも、心の奥底にはかつての恋人、現元妻――聡美の面影が常にあった。
聡美は当時、同じキャンパスで学ぶ文学少女で、彼女の静かな笑顔や柔らかな声は、19歳の秋山にとって唯一無二の存在だった。
ある雨上がりの午後、教授は研究室の机の上にそのレコードをそっと置いた。
静かな部屋、ランプの光に反射する黒光りする盤面に、教授は指先を添える。
針を落とすと、柔らかなノイズの後に旋律が立ち上がる。
音はゆっくりと広がり、まるで時間そのものを巻き戻すかのように、19歳の自分と聡美の面影を呼び起こした。
「聡美、君は今、どこで何をしているだろう……」
教授は微かに呟き、指先を鍵盤に置く。
当時、言葉では伝えられなかった思いを、音楽が代わりに語ってくれることを知っていた。
彼はピアノに向かい、自ら作曲した旋律を一つずつ紡ぐ。
その音の一つ一つに、愛おしさ、切なさ、そして迷いが込められている。
記憶の中の大学キャンパスに、聡美の笑顔が浮かぶ。
図書館の窓辺で本を読む姿、雨の日に二人で歩いた校庭、そして初めて手を触れた夜――
音楽を奏でるたびに、過去の時間が色彩を帯びて蘇る。
教授は当時の自分の未熟さを思い返す。
若くて真っ直ぐだった自分は、感情を言葉にできず、ただ旋律に託すことでしか愛を伝えられなかった。
しかしその不器用さこそが、旋律に深みと温もりを与えていた。
「君に伝えられなかった想いを、今、こうして音に託す」
教授は静かに呟き、目を閉じた。
指先は鍵盤の上で踊り、旋律はまるで空気を震わせるように広がる。
過去と現在、若き日の熱情と今の落ち着きが、音の波としてひとつになった。
やがて曲は静かに終わり、部屋には余韻だけが残る。
教授はレコードを棚に戻し、深く息をついた。
19歳の自分と向き合い、聡美への淡い想いを胸に、今の自分の生き方を見つめる時間。
その夜、研究室にはピアノの残響と、教授の静かな微笑みだけがあった。
教授は心の中でそっとつぶやく。
「君の存在が、僕の推理と人生のすべてを形作っている……」
窓の外では夜風が香料の瓶の微かな香りを揺らし、過去と現在がひそやかに交差する。
19歳の旋律は、ただの音楽ではなく、教授の心の地図となり、そして未来へと続く道標となっていた。
夜の研究室で流れる古いレコードの旋律は、過去の想いを今に伝える橋となった。
19歳の秋山と、当時の聡美の存在が、教授の人生や推理の深みにささやかな影響を与えていることを示す。
音楽と記憶、そして香りと心理――すべてが交錯する空間で、読者は教授の人間らしさと心の豊かさを再確認するだろう。




