苦味のプレリュード ― 保存された罪 ―
ジャムはお好き??
雨だった。
大学の石畳を叩く雨粒の音が、どこか楽曲の前奏のように響いていた。
秋山教授は傘も差さず、じっと空を見上げていた。
掌の中には、例の“赤いジャムの染み”がついた依頼状。
それはすでに乾き、果実ではなく血の色へと変じている。
「教授、風邪をひきますよ」
助手の新堂が駆け寄る。傘を差し出すが、教授は受け取らなかった。
「……聞こえるかね、新堂くん」
「え? 何をですか?」
「この音だ。雨の一粒ひとつぶが、ピアノの鍵盤を叩いている。
ベートーヴェンの“悲愴”だ」
教授は微笑した。雨の中で、それは奇妙に似合っていた。
クラシック音楽を耳に思い浮かべながら、彼は謎を追う。
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◆ 保存された罪
二人が向かったのは、依頼状の差出人「S・K」の自宅――
郊外にある洋館。すでに警察の封鎖線が張られている。
刑事の一人が教授を見つけ、苦々しい顔をした。
「秋山先生、ここは捜査中です。もう警察の範疇ですよ」
「その“範疇”で解ける謎なら、私は来ませんよ」
教授は一歩踏み出す。刑事は舌打ちしたが、結局道を譲った。
屋敷の中には、甘い香りが漂っていた。
腐りかけた果実と砂糖が混ざったような――異様な甘さ。
キッチンには数十本ものジャム瓶が並び、棚には“日付の刻印”がある。
「……教授、見てください。
この瓶、“6月7日”の日付で止まっています」
「その日は……S・Kの死亡推定日だ」
新堂が息をのむ。
瓶の一つを開けると、中にはラズベリージャム――のはずが、何か黒いものが沈んでいた。
教授は手袋をはめ、慎重にそれを取り出した。
それはメモの切れ端だった。
にじんだ文字で、こう書かれている。
> “彼を許すな。私は保存された。”
「“保存された”……つまり、死を逃れたと?」
「いや、逆だ」教授の声が低くなる。
「S・Kは、“死という形で保存された”んだ。
人は、真実を保存するために――自らを瓶に詰めることがある」
雨音が強くなる。
ショパンのプレリュード第4番が、教授の脳内で流れ出す。
それは、祈りにも似た短い旋律――“別れ”の曲だ。
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◆ 影の録音テープ
捜索の末、古いレコードプレイヤーの横に、小さなテープが見つかった。
ラベルには「Kへの最終演奏」と書かれている。
再生ボタンを押すと、低いノイズと共に声が流れた。
> 「この曲を聴いているあなたへ。
> 私はもういない。だが、あなたの罪もまた保存された。
> あの夜、彼を殺したのは――」
そこで録音は唐突に切れる。
教授は眉をひそめた。
「……“彼”とは誰か、ですか?」と新堂。
「それを探すのが、我々の仕事だよ」
教授はふと、机の上のジャムスプーンに目を留めた。
柄の部分に、小さく刻まれた文字。
> “To A.A. — With forgiveness.”
「A.A.…? 教授、これ、あなたのイニシャルじゃないですか?」
新堂の声が震えた。
秋山教授はしばし沈黙し、やがて小さく息を吐く。
「……そうだ。だが、私には心当たりがない」
音楽が静かに途切れ、雨が止んだ。
教授は、ひとりごとのように呟いた。
「罪を保存する者がいるなら、赦しを保存する者もいる。
この“ジャム”はその象徴だ。
問題は――どちらが先に腐るか、だ」
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◆ 夜のソナタ
大学へ戻った教授は、レコードを取り出した。
“月光ソナタ”の第3楽章。激しく、そして冷酷な旋律。
新堂は隣でコーヒーを淹れながら、ふと尋ねる。
「教授……S・Kとあなたは、過去に何か?」
「……彼は私の教え子だった。
数年前、ある事件で命を落とした。だが――」
教授はコーヒーを手に取ると、苦笑した。
「彼の“死”を証明したのは、私なんだよ」
音楽が最高潮に達した瞬間、教授の机上の電話が鳴った。
受話器の向こうから、ノイズ混じりの声。
> 「教授……保存は終わりました。次は“解凍”の番です」
電話は途切れた。
静寂の中、教授は椅子に沈みながら、微かに笑った。
「ようやく、“次の曲”が始まるか?」
「苦味のプレリュード」では、“保存された罪”の真意と、
S・Kと教授の過去が交錯し始めました。
“ジャム”というモチーフは、“罪と赦し”“記憶と腐敗”の象徴として広がっていきます。




