#71 お家
「……ん、っあ──」
私が目を覚ましたのは──薄暗く、空気が淀んだ場所であった。
鉄のような匂いが、乾いた血の匂いだと気付くまで……さほどの時間は掛からなかった。
「頭が……うぅ、一体ここ……は──どうして」
強烈な倦怠感と頭痛に見舞われ、吐き気まで込み上げてくる。
「ああ、意外と起きるのが早かったね。一度起きてしまったら、もうしばらくは眠れないだろうなぁ」
「あなたは……──」
黒い短髪に釣り上がった目元、濃い茶色の瞳には、暗い色を宿している。
見覚えがないはずはない。彼は、私の──誓約相手。
「顔色が悪いようだ。もしかして抵抗しているのかな?」
「っぐぁ……」
「大陸から取り寄せた、"奴隷用の魔術具"だ。無理に抗おうとしなければ、意識が朦朧とするくらいで済む。じきに他の皆のように慣れるよ」
チャリッ……と──両手足が繋がれ、壁から延びている鎖が鳴った。
首元の違和感。触ってみると、なにやら首輪のようなものが巻かれているのがわかる。
しかしそれを外そうと考えるだけで、本能的な忌避感と得も言われぬ苦痛が頭の中に響く。
(まずは……状況を把握しない、と──)
霧縫流の忍びとして、危険が迫った状況下での対応も教え込まれている。
武術の鍛錬のみならず、尋問・拷問といった事態に対する抵抗技術や、心理的訓練も実践済み。
「こっちの準備ももうすぐだ、今少し待っていたまえ」
私はズグズグと痛む頭を抑えながら、相手の言葉も聞きつつ、さらには周囲の音にも耳を傾け、並行しながら記憶を思い出す。
脳裏に浮かんだのはまず、父ドウゲンに呼び出された時のことだった──
◆
「ノエ、お前には駿河の東條の家に嫁いでほしい」
「……私が、ですか? しかし私は姉さまたちと違って、霧縫の技を次代に継承するはずでは──」
政略の為に育てられ、嫁いでいった二人の姉と違い、私は音々霧丸を扱う為の耳があり、武術の才にも恵まれていた。
さらに房中術も含めて霧縫のあらゆる技を伝承させる為に──自由のない──徹底的な教育を受けてきた。
「無論、その役割が変わることはない。が、しかし……こたびの縁談は重要なものになる。大大名たる飛鳥馬家に縁のある小大名、今後の足掛かりとする為に友誼を結ぶ好機を逃すわけにはいかない」
霧縫家は棗家によって武士として取り立てられて以降、政略面についても熱心に人脈を拡大してきた。
その甲斐あって棗家が抱える多くの家の中でも、とりわけ信頼も篤く、忠義も強く、優遇されている事実がある。
「先だって、上さまの家督相続が発表がなされた、"上覧武芸試合"があっただろう。どうやらあの場に招待されて陪観されていたらしく、その時にお前のことを見初めたらしくてな」
「……あの時、ですか」
アルムの付き人としてだけでなく、宗像タツトラとの試合では刃引きの刀を双方に渡すという、かなり目立つことをしてしまった。
「不服はあるか、あるならば聞いておこう」
(……これは、有無を言わせないやつだ)
父上は私に対し、霧縫家への忠誠心と矜持を試している。
拒否をするという選択肢は、最初から存在していないと直感した。
「いえ、それが霧縫の本分なれば異議はありません」
「よし……相手方の名は"東條カゲハル"、年は二十二歳。前妻が四年ほど前にいたものの、病没している」
「死別の悲しみが癒えた頃というわけですか」
(なんのことは、ない……)
テンゲン兄さまが当主を継ぐように、フゲン兄さまが放蕩先で家の為に尽くすように、養子となったアルムが霧縫の役に立つように。
嫁いでいった姉二人と同様に、私の番が回ってきたというだけ。
父ドウゲンは腕を組むと、しばらく目を閉じて瞑想してから──ゆっくりと口を開く。
「──五年だ」
「はい?」
「お前をただの政略の道具にのみするつもりはないということだ」
「……と言うと?」
「手段は問わぬ。お前が覚えたあらゆる手練手管を用いて、五年で籠絡せしめよ。お前なら可能だと確信している」
(なるほど、霧縫の継承者としての役割が変わらないとは……そういうこと)
私が今までやってきたことは決して無駄ではなく、むしろこういった時の為のものであったとすら。
「父上。謹んで承りました。五年以内に東條家を実効支配し、霧縫家の発展の為に尽くしたいと存じます」
そう言って私は、深く座礼をするのだった。
◇
「──で、ノエは素直に嫁ぐわけか?」
「そうだよ」
私はアルムと二人きりで夜を明かしながら、休憩中に縁談のことを話した。
大陸から輸入したらしい喧嘩煙管で、紫煙を吐きながらアルムは眉をひそめる。
「ぷっはァ~……"戯粋局"のほうは? もう活動拠点の建設も順調に進んでるってのに」
「んーーー五年くらいはおあずけかも。でも私ならそうだね……三年、いや二年で終わらせるからさ」
先だって南州のフェイジンと共に創立したという新たな商会、新たな共同体。
私なりに手伝って、一緒に歩んでいきたかった気持ちはあるが、今しばらくは仕方ない。
「だから、ちょっとだけ待っててよ」
「ふゥ~ん……駿河の"東條"、ね──」
もっと何か言ってくる……下手をすれば口論になるかと思ったが、反応は割とあっさりしたものだった。
少しだけ何か考える様子を見せるアルムに、私はやんわりと釘を刺しておく。
「アルムはあくまで養子だからね? 霧縫家として下された命令には従わなくっちゃダメだよ」
「ノエは縁談なんて不自由を押し付けられて構わないのか?」
「うう、霧縫は私にとって大切なものでもあるから。他の家族もみんなそう」
それ以上アルムは煙管を手元でくるくると器用に回しながら特に何も言うことはなく、私は穏やかに柔らかく笑う。
「にゃっはは。私や世界がアルムのモノだったとしても、誰かにちょっとお金を貸すくらいに思えばいいよ」
「俺は返済しない人間を逃がしたことはないんだぜ?」
「うんうん、利子たっぷりで返してもらってくるから安心してね」
「まっノエが嫌じゃないんなら好きにすればいいさ。俺も好きにやってるし」
それが私たちの自由な関係性であり、お互いに尊重し合っている大切な部分なのだから。
◇
(──あぁ、そうだ……それであれよあれよという間に見合いから結納、婚礼と祝宴も終わって……)
床入れに向かう途中からの記憶がない。
恐らくは途中でなんらかの理由で気絶させられたか、一服盛られていたか。
「ッハぁ……はァ……」
反響音からすると密閉空間、音の通りが悪い地下のようだった。
さらに言えば、様々な道具が取り揃えられた拷問室のような……。
「東條、カゲハル……一体なぜこのような」
「ははっははははっはははははは! これがボクさ! 上覧試合で見た時には、そう……運命のようなものを感じた。きみで五人目だよ? そうそう、奴隷用の魔術具による強制契約だけだと不十分だからね。その体に"魔術刻印"を彫らせてもらう」
「……??」
意識が明瞭だったとしても、東條カゲハルの言っていることが何も理解できないと確信する。
「あぁ安心してくれ、わたしも慣れてきたから失敗はかなり減っている。ただかなりの痛みを伴うからなァ……起きちゃったものはしょうがない」
(本物の、気狂いか……)
私の耳ならば、心音から簡単な真偽を見抜く──もとい聞き抜くくらいは造作もない。
だが心の底から気が狂れていては、何の意味を為さない。
「でも予行練習用は用意しといたから安心してくれ。あぁ! そうだ。せっかくだから起きた状態だと、どれだけ苦しむことになるのかも見ておくといい」
そう言うと東條カゲハルは、私の隣に繋がれている、深い黒紫色の髪で癖っ毛の少女の頬をパチンッと強めに叩いたのだった。




