書籍発売記念ss②神の独占欲
社に来て一年が過ぎ、梅の実熟する季節に差し掛かろうかという夜のこと。
小夜は手元の小さな火を頼りに、暗くなった台所で身をやや屈めていた。
「こんな時間に、何を探しているの?」
上方から声が聞こえ、しゃがんだまま首だけで振り向く。音もなく現れたのは、この社に祀られる土地神──暁だった。
小夜は視線を台所の周辺に戻して答える。
「明日は月初めだから……弓彦から貰った羊羹がまだ残ってるかなって思って」
人々からも信頼されている弓彦は、よく貰い物をするらしい。『小夜さんもぜひ』と言いながら、彼はその多くを分けてくれるのだ。
羊羹もその一つであり、まだ残っていたら明日惣一郎と茶を飲む際の茶請けにしようと考えていたのだった。
視線を流しの横に移すと、羊羹の入った箱が見つかった。
もし残っていなければ明日の朝から何か作らなくてはと考えていたが、これなら十分だろう。
確認が終わり一人満足し振り返ると、暁が思いの外近い距離にいたことに気づく。
彼はじっと小夜を見ていたようだった。背丈のある暁からは明かりが遠いせいか、その表情はよく見えない。
「……あの人間が」
ぽつりと声が聞こえて、手が伸びてきたかと思うと、小夜の黒髪に指が通された。
湯を浴びたあとでまだ乾き切っていない髪を、彼はくるりと指に巻きつけて弄ぶ。
「――そんなに明日が楽しみ?」
「え?」
ちろちろと光微かな炎の光が、銀色の睫毛に吸い込まれていく。
聞き返すと、指に巻かれていた髪が解放される。湿った髪はくるんと角度をつけて、寝巻きの肩に戻ってきた。
「暁……?」
何だったのかと困惑していると、暁はくるりと背を向けた。手元の火が、うっすらと彼の背を照らす。暁は振り返りもせず、言葉だけを残していった。
「何でもないよ。おやすみ、小夜」
*
翌日は、朝からしんしんと雨が降り続いていた。
決して雨脚が強いわけではないのに、春が過ぎた頃とは思えない、冬もかくやというほどに外の空気は冷え切っている。
番傘を片手に東ノ雲神社の階段を登ってきた惣一郎は、四阿で雨宿りしている小夜の姿を認め、眉を顰めた。
「小夜。それは……男物の羽織、だよな?」
到着早々彼が指摘した通り。
小夜が羽織っているのは明らかな男物――襟元に金色の装飾が刻まれている黒い羽織だった。
肩からずり落ちそうな羽織を片手で抑え、小夜は頷いた。
「えっと、貸してもらったの。今日は冷えるから……って」
梅雨にしても季節外れといえる寒さにぶるりと震えながら朝食の支度をしていたところ、やってきた暁に羽織を渡されたのだ。
『今日は一段と冷えるから、これを着ているといい。風邪なんて引いたら大変だからね」
『でも……』
それでは暁が寒いのではないか、と遠慮しようとして口を閉ざす。
相手は神だ。人と違う身体なら、寒さが堪えるということもないのだろう。
大人しく羽織を纏った小夜を見て、暁はうっすらと微笑む。長い銀の睫毛の下にある瞳は、深い赤紫色をしていた。
視線が合って、ぶるりと背筋が震える。
一枚布が増えたというのに、寒気がするのはどうしてだろう。芯から冷えていたせいだろうか、などと考えているうちに暁の姿は見えなくなってしまったので、小夜はとりあえず茶で己の身体を温めたのだった。
(今朝の暁、笑ってはいたけど……)
少しいつもと様子が違ったな、と感じた。首を傾げていると、呟くような惣一郎の声が聞こえた。
「貸してもらったって……弓彦さんか」
質問というより確認のような口調だったこともあり、小夜もあえて訂正はしなかった。『ううん、ここの土地神様のものなの』なんて言うわけにもいかないからだ。
しかし唯一の人間の友達に嘘をつくのは心苦しくて、『そうだよ』と言葉にすることもできず、結果として曖昧に微笑むだけになってしまった。
一方の惣一郎はぎゅっと唇を引き結んでいる。
焦茶色の眉は顰められてたままだが、怒っているというわけでもなさそうで、難しげな顔だった。
「弓彦さんか……いや、そうだな……弓彦さんならまぁ、純粋な親切心だろうし……」
「惣一郎?」
様子が変なのは今朝の暁だけでなく、今の惣一郎もだった。
彼は指先でぐりぐりと己の眉を押したあと、ふっといつものような優しい顔になった。
「何でもないさ。雨が降っているのに、茶の用意までしてくれてありがとう。冷えないうちにいただくよ」
彼は大きな商家の跡取りだ。小夜にとっては些細なもてなしにもかかわらず、毎度律儀に感謝を伝えてくれる。
彼のこういった人間性を目の当たりにするたびに、なんて素敵な友達なのだと小夜まで誇らしくなってくる。
雨の社の四阿内にて、惣一郎と小夜は爪楊枝を手に取り、羊羹に手を伸ばしたのだった。
*
「じゃあ、また来月」
いつものように階段を下りる惣一郎を見送ったのち、本殿へと足を進める。
一人になると、傘に雫が当たって跳ね返る音がよく聞こえる。傘で受けきれなかった雨粒は黒い羽織が守ってくれていた。
静かに本殿の中へと入り、息を吐く。
そのまま惣一郎から貰った蝶の簪をそろりと外し、懐に忍ばせていた鈴蘭の簪を取って頭に挿す。
この瞬間はどうしてか心が騒ついてしまって、何度替えても慣れるものではない。
そして屋根の下に入ってしまえば――もはや羽織を着る理由はなくなってしまった。
(脱いで、暁に返さなきゃ……でも)
羽織を脱ごうとかけた手を、止める。
(もう少しだけ……)
いけないと分かっていても、名残惜しい。
この黒い羽織に包まれていると、暁の腕の中にいるような感覚がしてしまうから。
そんな幻想を抱くことすら、罪深いというのに。
外にいたせいかまだ少し冷たい指先できゅっと、羽織の袖を掴む。
羽織の両襟から伸びて胸元に垂れる金色の飾り紐で、このまま縛りつけていてほしいとすら思う。
(なんて……駄目だよ、私)
せっかく唯一の人間の友達といえる惣一郎が遊びにきてくれていたというのに、今日は一日中ずっと落ち着かない心地だった。
本殿内の畳を踏み、そのまま板の間まで進むと――暁が黙ったまま障子に背を預けていた。
「あ、暁……今日は早かったね」
いつもなら彼は夕飯が出来たころにやってくるので、幾分かびっくりしながらそう言った。
まさか出入り口で羽織を掴んで不審な行動をしていたのが見られていたわけでは、とやや身体を硬くしていると、彼が歩み寄ってくる。
「寒くはなかった?」
「うん、おかげさまで。これ、貸してくれてありがとう」
「その羽織はどうしたかって、聞かれはしなかった?」
「え?」
彼の目線の先はもはや己の羽織ではなく、そこから伸びる小夜の白い腕だった。手首がそっと掴まれ、羽織が肘の方へとずれ落ちる。
「──あの人間に。羽織のことは何て言って答えたの?」
「えっと。なんていうか、弓彦のだって勘違いしていたみたいでね」
「弓彦のものではないと、どうして答えてあげなかったのかな」
まさか嘘を咎められると思っていなくて、この社に来てから覚えた罪悪感というものが心臓を撫でる。
「嘘をつくつもりじゃ……でも、神様に借りたなんて言えないでしょ?」
「言ってしまえばよかったのに」
彼の朝焼けの色彩が、紫色に寄っていく。深まった色を見て背筋にまた冷たいものが走った。
彼は小夜の手を見つめていた。一際白い手首の内側が、彼の親指ですりすりと撫でられる。
まるで、昔噛んだときの痕を探すみたいに。
「ねぇ、どうしたの……?」
訳がわからなくて尋ねるものの、顔を上げた暁はただ微笑んでいるだけだ。
「―― 誰のものなのか、まだ分かってないみたいだね」
腕を引き寄せられ、冷たい息が手首にかかる。かつての痛みを思い出し、小夜は思わず肩を竦めてぎゅっと目を瞑った。
しかしそこに触れたのは、微かな吐息と柔らかい感触。
「大丈夫、噛まないよ……寒くしてごめんね」
静かな声が聞こえ、目を開けたときには既に彼の姿はなかった。そして小夜の着物の上に掛けられていた羽織もまた、綺麗さっぱり消え失せていたのだった。
*
「ほら、小夜。今日も寒いから……ね?」
小夜の肩に、僅かな布の重みが加わる。視線を送らずとも、それが金の豪華な装飾が施された黒い羽織だと分かった。
想いを交わして以降、彼はよく小夜に己の羽織を着せるのだった。
それだけではない。こういうとき、彼はそのまま羽織ごと小夜を後ろから抱きしめるのだ。体温という体温のない神の身体であっても、密着すればあたたかくなる。
ぎゅう、ぎゅうと衣擦れの音が鳴るくらいに締め付けられてしまうから、少し苦しいくらいだった。
拘束を緩めてもらえるよう、己に回された大きな腕をとんとんと叩く。
やや出来た隙間から身を捩って抱えられたまま振り向くと、彼の口の端は釣り上がり、目は満足げに細められている。纏う雰囲気も穏やかで、えらく機嫌が良さそうだった。
「……なんだか暁、楽しそう」
「そう?」
くっつくこと自体は嬉しいのだが、やたらと小夜を包みたがる彼のこの習性のようなものは、最近知ったものだ。
小夜が首を傾げていると、そのまま顎を長い指で掬われる。
「もう分かっているね? これまでも、これからも……小夜は私のものだよ」
ゆめゆめ忘れないように、と。
そう言った彼の長い睫毛が、ばさりと音を立てるのが聞こえた。
神の荒々しいまでの独占欲は、甘さを帯びていて――。
真っ赤になった小夜を見た暁は、朝焼け色の瞳をとろりと蕩けさせたのだった。
予告より大遅刻し申し訳ございません……!
本SSの羽織デザインは書籍イラスト準拠となっております。
書籍版にはさらなる萌えをギュギュッと詰めたため、書店で見かけた際には手に取っていただけますと嬉しいです……!
ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました〜〜!




